第14話 曇り空の一週間―木曜
木曜日。その日は始まりから天気が悪かった。僕はまだ夜明けも迎えぬベッドの中で、遠い微かな雨音を意識もせずに聞いていた。ただ今日も曇り空なのだろうなという認識だけが未だまどろみの中にいる僕の頭に浮かんだ。今、遠くで低く唸るような響きが聞こえたような気がしたが、雷でも落ちたのだろうか。依然として雨音は寄せては引いていく波のような静けさで、僕の眠るこの小さな部屋を支配していた。
台風が近づいているらしい。今日は昨日よりもずっと空は暗くて、玄関で母から折りたたみ傘を手渡され、僕は素直にそれを鞄にしまった。今週末はおとなしく家にこもって勉強でもするしかなさそうだ。
駅のホームを駆けてギリギリ飛び乗った電車内は蒸れた水分のまとわりつくような空気で満ちていた。乗客の身体からは嫌な蒸気が立ち昇っていた。僕はじっと身を小さくしてそれをやり過ごした。
三時間目が終わった。初めて七瀬とエタイが二人してここに現れたのは先週のこの時間だった。東雲がそろそろ来る頃か~、なんて暢気に欠伸をしていると教室の入り口に見慣れた人物が立っているのが目に入った。
エタイだった。そこに七瀬の姿はなかった。
なんとなくそんな気はしていた。この冴えない天気と同様に今週の僕はついていないらしい。さっきの休み時間エタイが一人で来たときも、そのエタイから七瀬が保健室で休んでいることを聞いたときもなんとなく嫌な予感がしていたのだ。だから四時限目の終わりを告げるチャイムとともに教室を出て、保健室のベッドで背伸びしている間抜けな七瀬の姿を見たとき、変な溜息が洩れた。
それをどう解釈したのか、当の七瀬は僕と目を合わせてぱちくり瞬きをしてから照れ臭そうに顔を逸らした。
「急にカーテン開けないでくださいよぉ」
妙にしおらしい様子でそんなことを口にしたので、僕は素直に謝った。
「……こう、気圧が下がると頭痛がしませんか」
こう、と七瀬が身体を傾けて両腕を上げて電波でもキャッチするようなポーズをとってみせた。キャッチするのは電波ではなく気圧なのだろうが、どちらも彼女にとっては変わりないものなのかもしれなかった。僕はそれを見て笑ってしまいそうになるのを堪えながら、しないな、と淡白に答えた。
えー、頭痛しませんかー? となおもその謎のポーズを真面目な顔で押してくる七瀬の様子に僕は思わずぷっと吹き出してしまった。
「え、今なんで笑ったんですか?」
別にと僕が頭を振ると七瀬はなおも首を傾げていた。
「午後は授業出れそう?」
「あ、はい。出ますよ。まだ熱っぽいですけど」
「あんまり無理するなよ」
「はーい」
いつも通りで安心した。少々の無理はしているようではあったけれどそれほど無茶して繕っているようにも見えなかった。僕は布団をかけ直してから立ち上がった。
「え、もう行っちゃうんですか?」
七瀬は慌てたようだった。
「ああ、もう戻るよ。昼まだだし、早く行かないと食堂も閉まるしな」
購買にはもうパンは売り切れてる頃だろう。七瀬が口を尖がらせたが見ない振りをした。
「じゃあ放課後は、準備室来ますか」
「……行くけど。放課後はさっさと帰れよ」
「はーい」
そう答えながらも七瀬は笑顔だった。どうせ素直に人の言うこと聞く奴じゃないか。まぁ、佐藤が部活終わるまで時間はあるし、七瀬を送ってから学校に戻ってもいいかと思い僕は保健室を出た。
食堂にはもううどんくらいしか残ってなくて仕方なく僕はキツネうどんを注文した。もうごはんなくてね、ごめんね、とおばちゃんがトッピングをおまけしてくれた。
午後の日本史の授業では、半ばで集中力が切れた僕は窓の外ばかりを眺めていた。曇り空、雨が降るのはもう時間の問題であるように思えた。
放課後に僕が図書準備室に訪れると、やはりそこに七瀬はいた。エタイは? と僕が訊くと、試験が近いからと親から早く帰って勉強するよううるさく言われているエタイはさっさと帰ったのだと七瀬は説明した。兄と違ってあまり勉強ができるとは言えないエタイに親は厳しいらしい。七瀬の顔は昼に見たときよりいくらか赤くなっているようだった。僕は席に着く暇もなく、帰るぞ、と七瀬を促した。え、と一瞬目を丸くした七瀬だったがやがて、はい、と頷いた。しかし一向に七瀬は立ち上がろうとしないので、僕が不思議に思って見ていると七瀬はおずおずと口を開いた。
「あの、申し訳ないんですけど、……立たせてくれませんか?」
申し訳なさそうな表情を浮かべた。近寄って額に触れようとすると七瀬は少し身を引いたが僕は構わず手を当てた。思いのほか熱くて、すぐに手を引っ込めた僕は七瀬をゆっくりと立ち上がらせてから彼女に背を向けてしゃがみこんだ。戸惑う七瀬にいいから、と急かして彼女を背負った。
「いったん保健室行くぞ」
「……はい」
か細い声だった。
保健室に着くと三十前後の養護教員の先生は熱を測り、すぐに家に帰しましょうときっぱりと言った。家の人は、と訊くと、仕事でこの時間はまだ帰っていないと七瀬が申し訳なさそうに答えた。
「では保健室はもう閉める時間ですから私が車を出します」
事務的な口調でそう宣言した先生に七瀬はありがとうございます、と小さく頭を下げた。
「事務室に行ってくるのでちょっと待ってて下さいね」
無表情にそれだけ言い残して彼女はさっさと扉の向こうに消えた。はい……、と蚊の鳴くような声で答えた七瀬が酷く弱々しく、不憫に思えて僕は励まそうと思ったが適当な言葉が浮かばず、なにも言ってやれない自分が情けなく思えた。
「ミト先輩もついて来てくれますか?」
だからだろうか僕はそんな七瀬の弱々しい声に躊躇なく頷いたのだった。
七瀬が住んでいるのは四階建てのファミリー用の小さなマンションの二階だ。僕は三回ほどこの建物の前まで来たことはあったが、中に入るのは初めてだった。まだ雨が降り出していないのは幸いだった。僕は七瀬をおんぶして部屋まで連れて行ってやった。
部屋に着くと先生は手にしていた七瀬の荷物を置きさっさと帰ってしまった。
「あなたがついててくれるなら大丈夫でしょう」
笑みを浮かべてそんな言葉を言ったのならば気を遣ったのかなとも思うこともできたが、養護教員は相変わらずの無表情であったので、それは自分が帰るための言い訳にしか聞こえなかった。彼女が帰ること自体に不満はなかったが、なんとなく釈然としない気持ちが残った。だが七瀬にはそんなことを気にする余裕もなさそうだったので、僕も気にしないことにして彼女を見送った。
「しっかり休ませてやってください。そうしたらすぐ治るでしょう。お大事に」
僕はその後も七瀬の部屋に残ったものの、してやれることはほとんどなかった。せいぜい冷えピタの替えを渡してやったりポカリを飲ましてやったりするくらいだった。なにか欲しいものはないかと訊いても七瀬は静かに首を振った。大人しく目を瞑っていた七瀬はやがて寝息を立て始めた。
学校に戻るかと腰を浮かしかけたときに、鍵はどうするかなという考えが今更になって頭に浮かんだ。このマンションはエレベーターもついておらず、廊下らしい廊下もなく、階段の踊り場に各部屋のドアが設けられている、要するに団地のような建物の作りだった。そのため、部屋を出た後、廊下に面した部屋の窓から鍵を投げ入れるというわけにもいかない。郵便受けに入れておくこともできたが、病気の七瀬を残して不用心なことはしたくなかった。鍵をそのまま僕が持って行って後日渡すとかベランダに投げ入れるとかいう案も浮かんだが、そこまでするのもなぁと思い、結局七瀬の親が帰ってくるまで待つことにした。七瀬は一人っ子だったので、兄弟の帰りを期待することはできない。七瀬の親に会うのかと思うと僕は少し気が重かった。
七瀬の顔を覗き込むと穏やかな顔で眠っていた。まだまだ起きそうな気配はない。
六時を過ぎた頃、玄関の方から鍵を開ける音がして続いてただいまー、という気の抜けた声が響いた。さおりー、帰ってるのー? 声がだんだん近づいてきた。僕がどう出迎えたら自然かなと考える間もなく部屋のドアが開いた。
「あら……?」
僕に気付いた七瀬の母親は不思議そうな顔で首を傾げた。その姿が七瀬と重なった。
「こんにちは。お邪魔しています」
なるべく悪い印象を与えないようにと僕はぎこちない笑顔を浮かべて頭を下げた。
それから事情を説明し終えて、僕は七瀬母からすすめられた紅茶をいただいていた。説明が済んですぐに退出しようとした僕だったが、そんな僕の気も知らない七瀬母はまぁまぁとお茶をすすめてきた。結局その押しの強さに押し切られて僕はダイニングのテーブルについた。
「それにしてもあの子ったら体調悪いんなら早く早退してくればよかったのに。無理してご迷惑かけてすみませんねぇ」
七瀬母は台所から愛想よく話しかけてきた。言葉の内容に反して随分とご機嫌な声だった。
「いえ、迷惑ってほどでもないですけど。でも早く帰るようにちゃんと言ってやればよかったですね」
「でも頑固でしょう? あの子」
ほほほと甲高い声で七瀬母が笑う。僕ははぁ、と愛想笑いを浮かべた。確かにこの人は七瀬の母親だと僕は思った。
「よかったらご飯食べて行きません?」
僕は慌てて紅茶のカップを手にした。猫舌の僕にはまだ熱かったがなんとか飲み干すと僕は立ち上がった。
「いえ、今日はもう遅いですから。そろそろ帰ります」
そう? 遠慮しなくてもいいのよ? と笑顔でなおも食い下がる七瀬母の言葉を断って僕は靴をはいた。
「じゃあ、また来てくださいね」
「あ、はい。ごちそうさまでした。沙織さんにもよろしく伝えといてください」
「はいはい」
玄関まで見送りに来てくれた七瀬母の愛想のいい笑みを背に僕は七瀬家を後にした。マンションを出ると僕は駅に向かって走り出した。
空からは小雨が降り始めていた。