第13話 曇り空の一週間―水曜
水曜日、その日は朝から佐藤のことが気になっていた。
昨日は佐藤には会えずじまいだった。帰ってからも連絡を取ろうと思ったものの、なんと切り出してよいものか思案した揚句これといったアイデアは浮かばず、結局そのままにしてしまった。
――とにかく早めに具体的な行動を起こすことが大事です。
昨日の春名の言葉がなぜだか妙に気になっていた。
今朝はいつもの電車に乗ってきたのでたぶん春名と鉢合わせることはないだろう。別にあいつに会いたかったわけでも会いたくなかったわけでもなかったが、なぜだか僕はそんなことを考えていた。
駅から学校までの道のりを歩いていると前方で僕らの学校の女子生徒たちが騒々しくなにかしゃべりながら歩いている。見知らぬ生徒だった。だというのにそのスカートが左右に揺れるのを見て僕はやっぱり佐藤のことを考えていた。
とそのとき、背後から別の声が飛んできた。
「――ミトせんぱ~いっ」
声に続いて、ちゃりんちゃりーん、と自転車のベルが鳴る。振り返らなくても誰だかすぐに分かった。僕をそんな風に呼ぶ後輩の女の子は一人しかいなかったからだ。僕はなぜだか溜息をもらした。
「よう」
僕は立ち止まり振り返って軽く手をあげると、短くそれだけを言った。
「おはようございまーすっ」
キキーっと僕の横で思いっきりブレーキをかけて七瀬が自転車を止めた。僕とは対照的に七瀬は朝っぱらから異様なハイテンションで、僕を困惑させた。いつもなら好ましく思える彼女の元気な声が今はなぜだか妙に頭にキンキンと響いて、なんというか……少しだけ癪に障った。
「今朝は早いじゃないですか。ばっちりですねっ」
自転車を降りながら、七瀬は能天気なまでの声で僕に話しかける。僕は前を向き直って再び歩き出しながら、あぁ、とだけ短く返した。
「あれぇ、なんか今日元気ないですかぁ?」
なおも元気な声の七瀬は先を歩く僕を自転車を引きながら小走りで追っかけてから、僕の顔を覗き込んだ。
「……ほんとに元気じゃないんですか? それともなにかあったんですか?」
そこで七瀬は初めて心配そうな声を出した。その声を聞いて僕は自分はそんなに酷い顔をしているのだろうかと不安になった。だからその不安を掻き消そうかとするかのように僕は首を振った。
「……なんでもないさ」
作り笑いを浮かべ、平静さを装いながら僕は七瀬の方を振り返った。が、その目を見たとき思わず一瞬固まってしまった。そこにあったのは丸っこくてかわいらしい二つの目。しかしその瞳は真剣な眼差しで真っ直ぐに僕のことを捉えていて、僕の頭に一瞬ひやっとしたものが走った。
「ほんとになんでもないよ」
だから僕は問われもしないのにもう一度そんな言葉を重ねてしまっていた。同時に七瀬に対する罪悪感に似たもやもやした感情が増えた気がした。
「……ならいいです」
ちょっと唇を尖がらせながら、七瀬はぼそっと呟いた。
「ならいいんですけどね~」
七瀬は意味深な目でこちらを流し見しながらもう一度呟いた。その視線を僕は無視した。
やがて七瀬も諦めたのか、ふぃぃ、と溜息を吐いた。
「じゃあミト先輩。今日の帰りは私をお家まで送ってってください」
急に元気な声に戻った七瀬が突然そんなことを言い出した。そのとき僕の頭には佐藤の顔が浮かんだ。
「いやだ。しんどいから」
極力いつも通りの調子でそう素気無い返事を返した。いつもはそれであっさり引き下がる七瀬だったがなぜか今日は食い下がってきた。
「いいじゃないですかー。実は今日は私ちょっと体調悪いんですよー? 調子の悪い後輩を送るくらいしてくれてもいいんじゃないんですかぁ?」
そんなことを明るい声で楽しそうに言うので、なぜ今日に限ってそんな嘘を吐いてまで一緒に帰りたがるのだろうかと僕は不審に思った。まさか本当に体調が悪いわけでもあるまいし、なにが目的なのだろうか。
「仮病使っても無駄無駄無駄ー」
僕はとりあえずやる気なさそうにてきとーに返す。
「仮病じゃないですよーおらおらおらー」
七瀬はノリノリでそう返す。やっぱり仮病だろ、と僕は思う。
「まぁ、ミト先輩が病気とかしてないみたいでよかったです。二人揃って風邪とか嫌ですからね」
まだそんなことを言いながら七瀬は再び自転車にまたがった。
「まぁ、今日はいいですけど。また明日とか明後日とか送ってってくださいね」
抜け目なくそれだけ言い残すと、七瀬は思いっきりサドルを踏みしめてさっさと先に行ってしまった。
勝手な奴だと僕は呆れながらも、まぁ明日くらいなら送って行ってやってもいいかとか考えていた。
午前中の休み時間にいつものように七瀬とエタイは現れ、東雲も交えて勝手に騒いだ後勝手に帰って行った。七瀬はいつもとなんら変わりはないように見えた。
昼休みに僕が図書準備室に入るとそこには佐藤がいた。早速放課後帰らないかと誘ったがあっさり断られた。部活で話し合うことがあるらしく、たぶん学校が閉まってからもファミレスかマックになだれこむから遅くなるらしい。待っててくれる? 僕がうーんと首を傾げていると、じゃあまた明日ね、と佐藤が言い、僕も頷いた。
それでなんの話かしら、と佐藤が訊いたところで神名川が現れてこの話は打ち切られた。
僕はもやもやした気持ちを抱えながらもその場をやり過ごした。
教室に帰る途中、佐藤が僕にだけ聞こえるようにこっそり、また明日ね、と囁いたのを聞いて僕はなんとなく安心して、明日を待てばいいかと暢気な気分になった。校門のところで、と僕も囁き返すと佐藤は黙って頷いた。
放課後、ぼんやりとした足取りで教室を出た。そして僕の足は自然と図書室の方へ向かっていることにふと気がついた。すっかり癖のようになってしまったこの習慣に苦笑いを浮かべながらも悪くはないなと思った。今朝は断ったが、今日七瀬を送って行ってやってもいいかなとかという気になった。佐藤から断られたからというわけでもないだろうが、そのとき僕は少しだけ寂しかったのかもしれない。そんなことを考えながら僕は図書準備室のドアを開いた。
なぜだか身体中の力がふっと抜けたような気がした。そこにはいたのはエタイだけだった。それは一昨日と同じ風景だったというのに、一昨日は感じなかったこの脱力感は一体なんだというのだろう?
そんな気も知らずエタイはいつものように僕を振り向いた。
「あ、こんにちは」
いつもの軽い微笑とともにエタイがちょこんと頭を下げる。
「よっ」
僕はいつものように挨拶を返す。
「七瀬は?」
気がつくと僕は自分からそんなことを訊いていた。エタイはあぁ、と意味もなく笑みを浮かべてから答えた。
「七瀬は風邪引いたって今日はさっさと帰っちゃいましたよ」
「え?」
僕は目を丸くして驚いた。あいつは仮病じゃなかったのか?
「あれ、ミト先輩知らなかったんですか? 今朝会ったって言ってましたけど」
エタイが不思議そうな顔で僕を見ていた。僕は曖昧に頷いた。
「……確かに今朝そんなこと言ってたけど、七瀬元気そうだから冗談だろうと思って……」
それを訊いたエタイがなぜか納得したというように頷いた。
「あぁ、じゃあ七瀬、心配されたくなくって冗談めかして言ったんでしょう。妙に意地っ張りなとこありますからね」
うんうん頷きながら、きっとそうですよ、とエタイ。ミト先輩相手なら猶更でしょう。
僕は黙って図書準備室を出た。エタイがなにか声をかけてきたが気にもならなかった。
校門を出ていつもは通らない人気のない道に入ると、僕は携帯を取り出して七瀬に電話をかけた。七回のコール音が鳴ったところで七瀬が出た。
「もしもし、ミト先輩?」
それはいつもの元気な声のようにも聞こえたが、エタイの話を聞いた後だからか、やや声に張りがないような気がしなくもなかった。
「どうしたんですかぁ? 電話なんて珍しいですね」
「いや、たいしたことじゃないけどさ。今日体調悪かったのか?」
「えー、今朝そう言ったのに、信じてなかったんですか? ……私って信用ないんですね」
七瀬はわざとらしく寂しそうな声を出した。それが演技であったとしてもそこに込めた気持ちのすべてが嘘ではないだろう。だから僕は余計なことを言ってしまったと後悔してから、素直に謝ることにした。
「悪い。信用してないわけじゃない。今朝はちょっと考え事しててぼんやりしてたんだ。すまなかったな」
七瀬はなぜだか急に焦り始めた。
「あ、いえ、……ミト先輩。謝らないでください。私がちゃんと言わなかったからですからっ」
あたふたとそんなことを口走る七瀬だった。僕は安心するのと同時に思わず頬が緩んだ。七瀬に人を騙す才能はないのだ。
「まぁ、とにかく悪かったよ」
僕がこれでお終いというようにそれだけ言うと七瀬は、はい、とだけばつが悪そうに言ってから黙ってしまった。
「もう家に着いたのか?」
話題を変えようと明るい声で僕がそう訊いた。
「はい、ちょうど部屋に着いた頃に携帯が鳴って、おかげでちゃんと出られましたよ」
「そうか、ならよかった」
「よくありませんよ。もっと早くに連絡くれれば一緒に帰れたのに」
拗ねたような声だ。七瀬はすっかりいつもの調子を取り戻したようだった。
「まぁ、またな」
だから僕もいつものようにはぐらかした。
「じゃあ、明日もがんばって学校に行きますから、明日こそお願いします」
七瀬はご機嫌そうな声でそう言った。
「明日……はちょっとな。明後日はどうだ?」
「えー、なんなんですか? 今日といい、昨日といい……」
七瀬が佐藤のことを言い出すのではないかと僕は身構えたがそんなことは起こらなかった。あるいは七瀬もそれを察して敢えて口にしなかったのかもしれない。
「……まぁ、いいですよ。明後日ですよ。約束です」
「あぁ、約束だ」
僕は内心ほっとしていた。
それから僕が駅に着くまで少し雑談した。
「じゃあな、ちゃんと休めよ」
「はい、最悪明後日までにはばっちり治しておきます」
その自信はどこからやってくるのかと思いながら、僕は電話を切った。
風が吹いた。冷たい風だった。せめて晴れればもう少し暖かくなって七瀬も過ごしやすかろうにと空を睨みつけたが、そこにはやはり灰色の雲が浮かんでいるだけだった。