第11話 曇り空の一週間―火曜・午前
僕らの通う高校は県下でも有数の進学校だ。だからというわけかどうかは知らないが、定期試験前を除いた平日は毎日、朝課外なる課外授業が行われていた。朝のHRの前の一時間、正課の授業とは別に授業を行うのである。課外授業だから遅刻や欠席をしても通知表などの記録に残ることはなかったが、学校はこれを強制参加の授業としており、一定の期間内に五回以上の遅刻・欠席をすればその回数に応じて放課後に居残りで自習をさせられる。毎朝七時半という時間から始まるのにも関わらず、生徒からも教師からもこれを止めようというような声は特にはあがらなかった。それだけ真面目な学校だった。
そんな勤勉さとは無縁の生徒であった僕は、火曜日の朝、駅から走ればギリギリ遅刻しない時間の電車を降りた。改札を抜けると、そこでもう一人の勤勉ではない生徒が階段を駆け下りて行くのが見えた。僕はその背中に手を伸ばし肩を叩いた。彼は足を止めもせずにちらと一瞬こちらを見る。
「おはようございます、ミト先輩」
図書委員の後輩、春名千秋だった。
「久しぶり」
「ですかね」
お互いに前を向いて走りながら短いやり取りをする。ゆっくり話をする余裕はない。油断すれば遅刻しかねない時間だった。
駅ビルを出て百メートルほど前方の信号機がある。そこをタイミング良く渡れればその後はある程度力を抜いて走っても間に合う。
電線越しに見える空には薄い雲が覆っていて、太陽の光は地上まで届かない。その分空気は湿っているのか、必死に走る僕の身体にべたついた嫌な汗がまとわりつく。
もう少しというところで信号機が赤に変わったのを見て、春名が舌打ちをして失速する。僕もそれに倣った。
「いつもこの時間?」
横断歩道の前で立ち止まり、息を整えつつ僕は振り返って春名に話しかけた。
「まぁ、最近は割とそうですね。ミト先輩は珍しいですね。まさか夜中に勉強でもしてたんですか?」
皮肉な表情でそんなことを言うので、僕はこの後輩の期待を裏切ってやりたくなってつまらない嘘を吐いた。
「まぁ、少しだけな」
「うわぁ、止めてくださいよ。雪でも降ったらどうするんですか」
結構本気で嫌そうな顔してそう言われたので僕はちょっと傷ついた。
「……冗談だよ」
「だと思いました」
さっきまでの表情はどこへやら、すました顔でそう言うので僕は敵わないなと思って話題を変えることにした。
「最近顔あんま見ないけど忙しいの?」
「はい。部誌の締め切り近くて最近はそればっかですね」
春名は文芸部員だ。三学年合わせて五人しかいない我が校の文芸部は年に三回ほど部誌を発行しているそうだ。そのための作品を決められたテーマで決められた分量を書かねばならず、好きなものを自分のペースで書きたい春名はその時期が近付くといつも苦労している。
以前、「もっと計画的にコツコツ書いていけばいいのに」と七瀬が言うのに、「ボクは短距離ランナーだからペース配分とかできないんだよ」と答えていた。その点に関しては僕にも共通するところがあり、お互いに共感する部分もあった。僕もコツコツと勉強できないタイプだ。しかし彼は僕よりもはるかに優れた短距離ランナーだった。定期試験数日前からの勉強で人並みかそれよりちょっと下の成績を出すのが僕だとしたら、同じ期間で成績上位に名を連ねるのが春名だった。それは彼にとっては当たり前のことだから、本人は自慢することもなければ、謙遜することもなかった。
一学期の期末試験後に図書準備室でしゃべっていたとき、春名は全科目八十八点を狙っていたのに古典の試験だけ八十九点だったと悔しがっていたことがあった。それでもこの県内有数の進学校で学年九位とかいうふざけた成績だった。後日、それを知った春名は学年順位まで八じゃないとさらに悔しがっていた。とことんふざけた奴だった。
別に他の人を馬鹿にしてそんなことをするわけじゃないけれど、周囲の思惑に対して少し無自覚なところがあったのであまり人には好かれないらしい。それはある程度本人もわかってしているようで、あまり自分の本音は漏らさないようにしている、と言っていた。「自分が世間一般で言う常識的な感性をもった人間ではないことはわかってますから」とも言っていたが、そのセリフからして彼がいったいなにをわかっているのか怪しいものだった。
その割にここでは随分毒舌だよな、と僕が突っ込むと「ここの人たちは別ですよ」と信頼してるんだか馬鹿にしてるんだかわからないようなことを言って僕やその場にいた人を困惑させた。
このようにこの春名千秋という人物はなかなかに厄介な個性の持ち主であった。
信号が青に変わる。僕らは一斉に駆け出した。前方に見える教頭先生の薄い頭を追い抜き、学校前の傾斜を一気に駆け抜けて、校門をくぐる。そこから春名は徐々にスピードを落として息を整えながら歩き出した。
「あ、ボクの教室は一階のすぐそこですから。先輩は急いだ方がいいですよ」
僕の訝しげな視線に気付いたのか、春名は余裕綽々にそう言ってみせた。
「あぁ。お前たまには図書室にも来いよな」
それだけ言って駆け出した僕の背中に、はーい、と気の抜けた返事が返ってきた。
その後、僕は二階の自分のクラスになんとかチャイムが鳴り終わる前に入ることができ、既に教室内にいた先生に小言を言われただけで済んだ。十月とはいえ駅から結構本気で走ったので汗だくだった。息を整え汗が引くまで五分はかかる。その間は不快感のせいでろくに授業にも身が入らない。教科書を開き授業を聞いてるふりをしながら、同じ不快感を味わっている春名の姿を想像すると少しだけその不快感もマシになったような気がした。
二時間目の数学の授業終了後、七瀬とエタイがいつものように現れた。僕が机に載せたままだったノートを見せてやると、うへぇ、と七瀬がげんなりした声をあげた。
久しぶりに春名を見かけたと僕が言うと、そんな奴もいましたね、とか、死んだかと思ってました、とかキツイ答えが二人から返ってきた。二人もここ何日かは見なかったらしい。七瀬はともかくエタイは先週の昼休みに一緒に図書準備室に来てなかったか、と僕が言うと、そうでしたっけ、とエタイは首を傾げた。
一年の二人は春名に対しては容赦がない。だが春名も春名なのでお互いさまだった。
それから一年二人による春名の悪口大会が始まり、春名と面識のない東雲がひたすら聞き役に徹していた。僕は参加するのも面倒なのでなんとなくその様子を眺めていた。そうしているうちに休み時間はあっという間に過ぎていった。
二人が帰ってから僕は後ろの席の東雲にお疲れ、と声をかけたが、東雲は僕の予想に反して楽しそうな顔をしていた。
僕は気にせず次の現代文の授業に集中することにした。