第01話 後輩と僕の関係
――キーンコーンカーンコーン。
三時限目終了のチャイムが鳴る。と同時に教室内の空気がふっと緩む。
その空気を敏感に察した数学教師は解説途中だった問題を次にまわすことを告げて、学級委員を促す。学級委員の声に従って、みんながだるそうに席を立ち首を垂れる。ありがとうございましたぁ~。
教師が去ると、だるそうに呟きあう男子の声や甲高い声でしゃべる女子の声が教室内を支配する。
そんな中、僕は一人机に向かって今の数学の授業で解いたばかりの問題の復習をする。進学校であるこの高校の授業スピードは決して遅くはない。以前習った公式すらあやふやな僕にとっては速いくらいだった。だから授業中、計算過程がわからなかったところを一つ一つ確認していかなければならない。
こんなことをしているからといって、僕が真面目な生徒ではないことをクラスのみんなは知っている。なぜなら遅刻ギリギリに登校したり、授業中に居眠りしたり、教師に解答を求められて答えられなかったり、宿題を期限内に提出しなかったりなんてことはしょっちゅうだったから。
成績はもちろんいい方じゃない。かといって赤点ばかりの落ちこぼれでもない。いつも平均点の辺りをうろうろしているくらいだ。もともとの頭の出来はそこそこいい方だと自分では思っている。
そんな僕が家で勉強をするのはテスト前くらいだから、暇なこの時間に少しでも復習しておこうとしていたわけだ。
さて授業で解説されたばかりのこの問題だが、どうしてもここの過程がわからない。ひょっとして板書を間違って書き写してしまったかな……。顔をあげて黒板を見ると、日直の女の子がまさにその問題を消しているところだった。
「あ……」
僕の呟きも虚しく、板書は容赦なく消されていく。女の子は僕の呟きに気付いた様子すらなく、ただ事務的に黒板消しを左右に揺らしていた。
……仕方ない、昼休みに佐藤にでも教えてもらおう。
そう思って僕は次の問題に取り掛かろうと手元に目を下ろそうとすると……。
ぎゅっ。
どうやら後ろから誰かに抱きつかれたようだ。
後ろを振り返ると、思ったより近くにその顔はあった。
「こんにちはっ、ミト先輩」
僕は目を伏せて、こぼれそうになる溜息を堪えた。
「やぁ、七瀬。元気かい?」
極力フレンドリーにそう声をかけてやった。周りがこちらをこそこそと窺う目線がチクチクと痛い。
抱きついてきたこの女の子は、色白で背が小さく、髪はセミロングのサラサラストレートヘアーで、くりくりとした大きな瞳を持つ、見るからにかわいい女の子であったので、クラスメイトの食い付きは無駄によかった。
「はいっ、元気ですよぉ。そうやって開口一番に私のことを案じてくれる先輩、優しいですね」
七瀬はなおも抱きついた姿勢のままで、僕の顔を覗き込むようにして話しかけてくる。
「それで、どうして七瀬がここにいるのかな?」
七瀬は不思議そうな表情を浮かべなんでもないことのように答える。
「なんでって、先輩に会おうと思って、下の階から昇ってきた結果、私はここにいます」
「いや、そうじゃなくて……、んーと、後輩の七瀬が先輩である僕のクラスで……こうしてるのはどうなんだろう、って。」
「こうしているって、私はどうしてるんですか?」
なおも不思議そうな表情を浮かべて、ちょこんと首をかしげる彼女の仕草が演技なのかどうかは、僕にはいまいち見当がつかない。
「だからさ、こうして後ろから抱きついて……さ」
「えー、だってサトー先輩だってよくこうしてるじゃないですかぁ」
それまでこそこそ遠慮しながらもこちらに向けられていた視線が、あからさまで無遠慮なものになったのが僕にははっきりとわかった。
……はぁ。
僕は嫌がる七瀬の腕を無理やり引き剥がすと立ち上がり、彼女の手をつかんで歩き出した。おおー、とかなんとか、小さな歓声を振り払うかのように早足で教室を抜け出す。野次馬根性丸出しな視線を背中にいやというほど感じた。
手をひいてる途中、七瀬はほとんど抵抗しなかった。
そのまま黙って階段の踊り場まで連れていく。授業間の短い休み時間ということもあって、階段の踊り場は比較的人通りの少ない場所である。
遠くに生徒たちのざわめきが小さく聞こえる。人口密度が少ないせいか、少し空気がひんやりしているように感じた。
僕が手を離し七瀬の方に振り返ると、彼女は少し不貞腐れたような顔をしていた。
「なんでサトー先輩はよくって、私はダメなんですか?」
七瀬の刺々しい言葉が踊り場に反響する。気温がまた少し下がったような気がした。
「やっぱりミト先輩はサトー先輩のこと好きなんですよね?」
窓から差し込む日差しは大した熱量を与えてくれない癖に、いやに眩しい。
僕は溜息を飲み込む。
「違うって。佐藤は幼馴染みたいなもんだし、だいたいあいつ彼氏い……」
「そんなのカンケーないじゃないですかっ」
七瀬の緊迫した声色が冷やかな空間に響く。
……なんだ、このシチュエーションは。 空々しい空気。ありきたりなセリフ。くだらない痴話げんか。
急速に冷静になって、他人事のように今の状況を考察している自分がいることに気がついた。
僕は小さく首を振って、もう一度溜息を飲み込む。
背の低い七瀬が俯くと表情はあまり見えなくなってしまう。だから僕には彼女が今どんな顔をしているのかはわからない。が、怒っているらしいことは一目瞭然だ。
僕はなにを言うべきか決めかねて、とりあえず七瀬の頭にポン、と手を置いてやる。七瀬は緊張した身体をさらに縮こませ、それから、すぅ、と小さく息を吸い込んだ。
「……ミト先輩は優しいです。でも、誰に対しても優しいわけじゃないの、私知ってますから」
独り言であるかのようなしおらしい声で七瀬は呟く。
「……そうかぁ」
「はい」
「……」
キーンコーンカーンコーン……。
……。
……。
「ほら、四時限目だ。教室に戻りな」
七瀬の頭をポンと軽く叩いて、努めて明るくそう言うと、七瀬は、はぁ、と小さく溜息を吐いた。僕が手を退けると七瀬はゆっくりと顔をあげた。その表情は思ったより穏やかなものだった。チャイムの音を聞いて興ざめしてしまったのかもしれない。
「ミト先輩、また放課後」
表情には少し硬さが残っていたものの、いつものかわいらしい声でそう言うと、七瀬は一気に階段を駆け下りていった。階段が終わったところで、首だけでこちらを振り返ると、唇の端だけでニッと笑って見せた。そしてそのまま教室へ駆けて行った。
「……はぁぁ」
僕はここでようやく、大きな溜息を吐いた。
その後、僕が教室に駆けて行ったのは言うまでもない。
最近見た夢の雰囲気がなかなか面白かったので書いてみようとしたら、全然違うものになってしまいました。ヤンデレホラーを書くつもりだったのに……。
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