↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR

ストレスが限界になると幼児退行する妻が可愛すぎる

作者: マモ
掲載日:2026/10/25

俺の妻には、本人も知らない秘密がある。


もちろん、俺は知っている。


夫婦間に隠し事はよくないと言うが、こればかりは仕方ない。教えたところで誰も幸せにならないし、何より俺が困る。


というわけで、今日も俺は妻に秘密を隠して生きている。


「ねえ、ちゃんとやってよね」


洗濯物を畳んでいると、妻から注意された。


「何が?」


「タオル。端が揃ってないし、そのシャツも裏返しのままだし」


「着るときに直すよ」


「今直してよ。ほんと、何回言ったら分かるの?」


「はいはい」


妻は呆れたようにため息をつくと、夕飯の準備をするためにキッチンへ向かった。


俺の妻は几帳面だ。


仕事も家事もそつなくこなし、時間にも正確。部屋はいつも綺麗だし、冷蔵庫の中身まで把握している。


一方、俺は冷蔵庫にプリンがあったら食べる。


誰のプリンなのかは、食べてから考える。


そして大抵、怒られる。


理不尽だと思う。


いや、理不尽なのは俺か。


まあ、妻の言い分が正しいのは分かっている。


分かっているのだが、タオルの端が多少ずれていたところで、体を拭く性能に影響はないはずだ。


もっとも、妻にそんなことを言ったところで、タオルの端が揃うわけではない。


俺は大人しく畳み直すことにした。




*


それから数日後の金曜日。


「ただいま」


玄関から妻の声が聞こえた。


「おかえり」


リビングから顔を出すと、妻は靴を脱ぎながら大きく息を吐いた。


「……疲れた」


「お疲れ。大丈夫?」


「大丈夫。ちょっと仕事が面倒だっただけ」


そう言って、妻は鞄を置くとキッチンへ向かった。


「今日、生姜焼きでいい?」


「もちろん。何か手伝う?」


「じゃあ、お皿出して」


「了解」


妻は仕事で疲れて帰ってきた日でも、こうして夕飯を作ってくれる。


ありがたい話だ。


俺なら帰宅して五分でソファと一体化している。


いや、五分もかからないかもしれない。


しばらくして、夕飯ができた。


「いただきます」


「いただきます」


肉を一口食べる。


うまい。


「これ、うまいね」


「いつもと同じだよ」


「いつもおいしいってことだよ」


「はいはい。冷めるから食べて」


妻はそう言って、味噌汁に口をつけた。


「今日、何かあった?」


「別に。ちょっと面倒なことが重なっただけ」


「そっか」


「……ほんと、なんで私ばっかりって感じ」


妻はため息をついた。


普段はあまり仕事の愚痴を言わない妻にしては、珍しい。


「今日、金曜だしね」


「うん。あとでワイン開ける」


「了解」


金曜の夜は、二人でワインを飲むことが多い。


一週間頑張ったご褒美、というやつだ。


もっとも、俺は別に一週間頑張っていなくても飲みたい。


その点、妻は律儀である。


夕飯を食べ終えると、妻は食器を俺に預け、先にリビングへ向かった。


「洗い物お願いね」


「はーい」


「ちゃんと油落としてよ」


「分かってるって」


「前もそう言ってたから」


信用がない。


まあ、前科があるので仕方ない。


俺は食器を洗い、ついでにシンクも軽く拭いてからリビングへ向かった。


妻はすでにソファに座っていた。


テーブルにはワイングラスが二つ並んでいる。


「ワイン持ってきて」


「はいはい」


冷蔵庫から冷やしておいた白ワインを取り出す。


妻は俺が注いだグラスを受け取ると、軽く持ち上げた。


「お疲れ」


「お疲れさま」


グラスを合わせ、ワインを一口飲む。


妻はしばらく黙っていたが、やがてぽつりと言った。


「……ほんと、今日最悪だった」


「まだ引きずってる?」


「引きずるよ。こっちはちゃんとやってるのに、余計な仕事ばっかり増えるんだもん」


「大変だねえ」


「他人事みたいに言わないでよ」


「いや、実際他人の仕事だから……」


「そういうことじゃないでしょ」


「ごめんなさい」


妻は呆れたようにこちらを見たあと、グラスに口をつけた。


どうやら今日は、いつも以上に慎重な発言が求められるらしい。


俺は余計なことを言わず、妻の話を聞くことにした。


妻は普段、弱音を吐かない。


だからこそ、こういうときくらいは好きなだけ愚痴を言えばいいと思う。


俺にできることは大してないが、話を聞くくらいならできる。


もっとも、相槌を間違えると怒られるので、難易度はそれなりに高い。


妻は二杯目のワインを注ぎながら、また仕事の話を始めた。


俺はそれを聞きながら、空になったグラスを差し出す。


「俺にもお願い」


「自分で注いでよ」


「はい」


今日も我が家は平和である。


少なくとも、今のところは。




*


「もうやだ」


妻がグラスをテーブルに置いた。


「何が?」


「仕事」


「辞める?」


「辞めない」


即答だった。


まあ、そうだろう。妻は俺と違って責任感が強い。仕事が嫌だからといって簡単に投げ出すような人間ではない。


俺なら投げ出す。


いや、実際には投げ出さないが、少なくとも勤務中に三回くらいは退職を決意している。


「明日も休みなんだし、今日は仕事のこと忘れなよ」


「分かってるけどさあ」


妻はソファの背もたれに体を預けた。


頬が赤い。


いつもより飲むペースが早かったせいだろう。


「水、飲む?」


「いらない」


「そっか」


「……ねえ、あなた」


「ん?」


「こっち来て」


妻が隣の座面をぽんぽんと叩いた。


俺は言われたとおりに移動する。


「どうした?」


「……ゆうま」


「ん?」


「ぎゅーして」


来た。


俺は心の中で小さく拳を握った。


これである。


俺の妻には、本人も知らない秘密がある。


ストレスが限界に達した状態で酒を飲むと、幼児退行するのだ。


いや、俺も初めて見たときは驚いた。


さっきまで普通に話していた妻が、突然幼い子供のような口調で甘え始めたのである。


最初は酒の飲みすぎでおかしくなったのかと思った。


実際、おかしくなってはいるのだが。


慌てて水を飲ませたり、熱を測ったりもした。妻は熱を測られている間も「ゆうまぁ、ぎゅー」と言っていた。


熱は平熱だった。俺の方がおかしくなったと思った。


翌朝になると妻は元に戻っていた。


しかも、昨夜のことをまったく覚えていなかった。


それ以来、何度か同じことが起きている。


どうやら、仕事などでひどく疲れているときに酒を飲むと、こうなるらしい。


普段は几帳面で、俺がタオルを少し雑に畳んだだけでも注意してくる妻が、である。


何という落差だろう。


そして何より、可愛い。


非常に可愛い。


ちなみに、俺はこのことを妻に教えていない。


教えたら恥ずかしがって、酒を飲まなくなるかもしれないからだ。


もちろん、妻にストレスを溜めてほしいわけではないし、無理に酒を飲ませるつもりもない。


ただ、せっかくこうなったのなら、存分に甘やかしたいと思う。


それが夫というものだろう。


たぶん。


「ゆうまぁ」


「あ、ごめんごめん」


妻が両腕を広げている。


「ぎゅー」


「はいはい」


俺が抱き寄せると、妻は胸元に顔を埋めた。


「んふふ」


笑った。


まずい。


可愛い。


「どうしたの、急に」


「んー?」


「甘えん坊だね」


「ちがうもん」


「違うの?」


「……ちがわない」


どっちだ。


いや、どっちでもいい。


妻は俺の服をきゅっと掴んだまま、離れようとしない。


普段なら、俺がこうして抱きついても「暑い」とか「邪魔」とか言われる。


実際、夏場に抱きつくと暑いので、そこは妻が正しい。


しかし今は違う。


妻の方から抱きついてきている。


しかも、離れない。


俺は結婚してよかった。


「ねえ」


「ん?」


「なでなでして?」


「いいよ」


頭に手を置き、ゆっくり撫でる。


妻は気持ちよさそうに目を細めた。


「もっと」


「はいはい」


「んー……」


俺は黙って撫で続けた。


普段の妻は、俺が髪に触ると「せっかく整えたのに」と嫌がることがある。


だから、こうして好きなだけ撫でられるのは貴重だった。


妻はしばらく満足そうにしていたが、不意に顔を上げた。


「ねえ、ゆうま」


「ん?」


「すき」


「俺も好きだよ」


「どれくらい?」


「めちゃくちゃ」


「んふふ。いっしょ」


妻は再び俺の胸に顔を埋めた。


俺は妻の頭を撫でながら、天井を見上げた。


世の中には、金で買えないものがあるという。


今、俺の腕の中にあるものがそれだ。


ただし、ワイン代はかかっている。


「……ねえ」


「ん?」


「のどかわいた」


「水持ってこようか」


「うん」


妻は頷いたものの、俺の服を掴んだ手を離さなかった。


「じゃあ、ちょっと離してくれる?」


「やだ」


「水、飲みたいんでしょ?」


「のみたい」


「じゃあ離して」


「……やだ」


困った。


口ではそう言いつつ、俺はまったく困っていなかった。


むしろ嬉しい。


ただ、妻が喉を渇かせているのは可哀想なので、ここは心を鬼にするしかない。


「すぐ戻ってくるから」


「ほんと?」


「ほんと」


「ぜったい?」


「絶対」


妻は少し考えてから、ようやく手を離した。


「……はやくね」


「はいよ」


俺は立ち上がり、キッチンへ向かった。


背後から、妻の声が聞こえる。


「ゆうまー」


「なにー?」


「はやくぅ」


まだ三歩しか歩いていない。


先が思いやられる。


俺は頬が緩むのを抑えながら、冷蔵庫を開けた。


冷蔵庫から水を取り出し、コップに注ぐ。


氷も入れておこうかと思ったが、妻は冷たいものを飲むとお腹を壊しやすい。


こういうところは、ちゃんと覚えている。


俺は妻のことが好きなのだ。


洗濯物の畳み方を覚えるのとは、話が違う。


「お待たせ」


「ゆうまぁ!」


妻がぱっと顔を上げた。


俺を見つけた途端、嬉しそうに笑う。


水を持ってきただけなのに、随分な歓迎である。


「はい、お水」


「ありがとぉ」


「どういたしまして」


妻は両手でコップを受け取り、こくこくと飲んだ。


「おいしい?」


「うん!」


よかった。


水道局にも聞かせてやりたい返事だ。


妻はコップをテーブルに置くと、俺を見上げた。


「ゆうま、えらいねぇ」


「……え?」


「おみず、もってきてくれた」


「ああ、うん」


「えらい、えらい」


妻は満足そうに頷いた。


褒められた。


水を持ってきただけで。


普段なら、コップを出しっぱなしにしただけで注意されるというのに。


どうやら今の俺は、相当偉いらしい。


「……そんなに偉い?」


「うん。すっごくえらい」


「そっか」


嬉しい。


予想以上に嬉しい。


「ゆうま?」


「ん?」


「こっちおいで」


「はい」


妻が隣をぽんぽんと叩いた。


俺は素直に腰を下ろす。


すると、妻が俺の頭に手を伸ばしてきた。


「……ん?」


「よしよし、してあげる」


そう言って、俺の頭を撫で始めた。


待ってほしい。


これは聞いていない。


「ゆうま、いいこ」


「……ありがとう」


「いつもがんばってるもんねぇ」


妻の手が、ゆっくりと髪を撫でる。


俺は動けなくなった。


普段の妻は、俺にこんなことをしない。


そもそも、頭を撫でられたのがいつ以来なのかも思い出せない。


「……ゆうま?」


「はい」

他は


「きもちいい?」


「……うん」


「んふふ。よかったぁ」


妻は嬉しそうに笑い、また俺の頭を撫でた。


おかしい。


俺が妻を甘やかしていたはずなのに、いつの間にか俺が甘やかされている。


しかも、悪くない。


いや、かなりいい。


俺は少しだけ妻の方に頭を傾けた。


「……もうちょっとお願いしてもいい?」


「いいよぉ」


即答だった。


俺は目を閉じた。


「ゆうまも、ねんねする?」


「まだ眠くないかな」


「じゃあ、ねんねできるように、よしよししてあげる」


妻はそう言って、俺の頭を撫で続けた。


ありがたい。


ただ、寝かしつけられる予定はなかった。


しばらくすると、妻の手が止まった。


「……ゆうま」


「ん?」


「ねむい」


「そっか。そろそろ寝ようか」


「……ねむくない」


「今、眠いって言ったじゃん」


「いってないもん」


言った。


つい三秒前に。


「じゃあ、もうちょっと起きてる?」


「うん」


妻は満足そうに頷き、俺の腕に抱きついた。


そのまま、こてんと頭を預けてくる。


「……ゆうま」


「ん?」


「だいすき」


「俺も好きだよ」


「……えへへ」


妻は嬉しそうに笑った。


そして、目を閉じた。


「……眠い?」


「ねむくないもん」


「そっか」


俺はそれ以上何も言わず、妻の頭を撫でた。


しばらくすると、小さな寝息が聞こえてきた。


早い。


まだ一分も経っていない。


「……おーい」


返事はない。


完全に寝ている。


俺は妻の寝顔を覗き込んだ。


普段はあんなにしっかりしているのに、今はすっかり無防備な顔をしている。


明日の朝には、何事もなかったように元に戻るのだろう。


そして俺は、またタオルの畳み方を注意される。


まあ、それも悪くない。


俺は妻を起こさないように、そっと抱き直した。


少なくとも今夜の俺は、偉いらしいので。




*


翌朝。


俺はキッチンに立っていた。


しかも、自分から。


フライパンではベーコンが焼けている。隣のコンロではスープを温め、トースターには食パンが二枚。


普段の俺なら、妻が起きてくるまでソファでスマホをいじっているところだ。


しかし、今日の俺は違う。


昨夜の妻が可愛すぎたのである。


俺の名前を呼びながら両手を広げていた姿も、頭を撫でられて嬉しそうにしていた顔も、眠くないと言い張りながら寝てしまったところも。


思い出すだけで顔が緩む。


あれが俺の妻なのだ。


普段はタオルの端が揃っていないだけで注意してくる、あの妻が。


まったく、結婚してよかった。


「……あなた?」


振り返ると、妻が寝室から出てきたところだった。


少し寝癖がついている。


可愛い。


「おはよう」


「おはよう。……何してるの?」


「朝ご飯作ってる」


「それは見れば分かるけど」


妻はテーブルに並んだ皿を見て、それから俺を見た。


「あなたが?」


「俺が」


「……珍しいね」


「たまにはね」


妻は不思議そうに首を傾げた。


「何かいいことでもあった?」


「まあね」


「何?」


「秘密」


「何それ」


妻は呆れたように笑った。


俺は焼き上がったベーコンを皿に盛りつけ、トーストを取り出した。


「ほら、座って。もうできるから」


「……うん」


妻は椅子に腰を下ろした。


昨夜のことは、やはり何も覚えていないらしい。


目の前にいるのは、いつもの妻だ。


しっかり者で、少し厳しくて、俺のことをよく注意する。


そして、いつ見ても可愛い。


「はい、お待たせ」


皿をテーブルに置く。


妻は朝食を見下ろしたあと、俺を見た。


「……ベーコン、ちょっと焼きすぎじゃない?」


「えっ」


「まあ、いいけど」


そう言って、妻はトーストに手を伸ばした。


いつもの妻だ。


俺は向かいの椅子に座り、昨夜のことを思い出した。


『ゆうま、ぎゅーして』


あの声をもう一度聞きたい。


できれば毎日聞きたい。


もっとも、普段の妻にそんなことを頼んだら、何を言っているのかと呆れられるだろう。


まあ、それも含めて可愛いのだが。


「……あなた」


「ん?」


「何にやにやしてるの?」


「いや、別に」


「気持ち悪いからやめて」


「はい」


俺は慌てて表情を引き締めた。


昨夜はあんなに甘えてきたのに、今朝はもうこの調子である。


まったく、可愛い妻だ。


できれば、あと一時間くらいは昨日のままでいてほしかったが。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
いいなあこういうの
こんな甘い生活を送りたい人生だった。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。