ストレスが限界になると幼児退行する妻が可愛すぎる
俺の妻には、本人も知らない秘密がある。
もちろん、俺は知っている。
夫婦間に隠し事はよくないと言うが、こればかりは仕方ない。教えたところで誰も幸せにならないし、何より俺が困る。
というわけで、今日も俺は妻に秘密を隠して生きている。
「ねえ、ちゃんとやってよね」
洗濯物を畳んでいると、妻から注意された。
「何が?」
「タオル。端が揃ってないし、そのシャツも裏返しのままだし」
「着るときに直すよ」
「今直してよ。ほんと、何回言ったら分かるの?」
「はいはい」
妻は呆れたようにため息をつくと、夕飯の準備をするためにキッチンへ向かった。
俺の妻は几帳面だ。
仕事も家事もそつなくこなし、時間にも正確。部屋はいつも綺麗だし、冷蔵庫の中身まで把握している。
一方、俺は冷蔵庫にプリンがあったら食べる。
誰のプリンなのかは、食べてから考える。
そして大抵、怒られる。
理不尽だと思う。
いや、理不尽なのは俺か。
まあ、妻の言い分が正しいのは分かっている。
分かっているのだが、タオルの端が多少ずれていたところで、体を拭く性能に影響はないはずだ。
もっとも、妻にそんなことを言ったところで、タオルの端が揃うわけではない。
俺は大人しく畳み直すことにした。
*
それから数日後の金曜日。
「ただいま」
玄関から妻の声が聞こえた。
「おかえり」
リビングから顔を出すと、妻は靴を脱ぎながら大きく息を吐いた。
「……疲れた」
「お疲れ。大丈夫?」
「大丈夫。ちょっと仕事が面倒だっただけ」
そう言って、妻は鞄を置くとキッチンへ向かった。
「今日、生姜焼きでいい?」
「もちろん。何か手伝う?」
「じゃあ、お皿出して」
「了解」
妻は仕事で疲れて帰ってきた日でも、こうして夕飯を作ってくれる。
ありがたい話だ。
俺なら帰宅して五分でソファと一体化している。
いや、五分もかからないかもしれない。
しばらくして、夕飯ができた。
「いただきます」
「いただきます」
肉を一口食べる。
うまい。
「これ、うまいね」
「いつもと同じだよ」
「いつもおいしいってことだよ」
「はいはい。冷めるから食べて」
妻はそう言って、味噌汁に口をつけた。
「今日、何かあった?」
「別に。ちょっと面倒なことが重なっただけ」
「そっか」
「……ほんと、なんで私ばっかりって感じ」
妻はため息をついた。
普段はあまり仕事の愚痴を言わない妻にしては、珍しい。
「今日、金曜だしね」
「うん。あとでワイン開ける」
「了解」
金曜の夜は、二人でワインを飲むことが多い。
一週間頑張ったご褒美、というやつだ。
もっとも、俺は別に一週間頑張っていなくても飲みたい。
その点、妻は律儀である。
夕飯を食べ終えると、妻は食器を俺に預け、先にリビングへ向かった。
「洗い物お願いね」
「はーい」
「ちゃんと油落としてよ」
「分かってるって」
「前もそう言ってたから」
信用がない。
まあ、前科があるので仕方ない。
俺は食器を洗い、ついでにシンクも軽く拭いてからリビングへ向かった。
妻はすでにソファに座っていた。
テーブルにはワイングラスが二つ並んでいる。
「ワイン持ってきて」
「はいはい」
冷蔵庫から冷やしておいた白ワインを取り出す。
妻は俺が注いだグラスを受け取ると、軽く持ち上げた。
「お疲れ」
「お疲れさま」
グラスを合わせ、ワインを一口飲む。
妻はしばらく黙っていたが、やがてぽつりと言った。
「……ほんと、今日最悪だった」
「まだ引きずってる?」
「引きずるよ。こっちはちゃんとやってるのに、余計な仕事ばっかり増えるんだもん」
「大変だねえ」
「他人事みたいに言わないでよ」
「いや、実際他人の仕事だから……」
「そういうことじゃないでしょ」
「ごめんなさい」
妻は呆れたようにこちらを見たあと、グラスに口をつけた。
どうやら今日は、いつも以上に慎重な発言が求められるらしい。
俺は余計なことを言わず、妻の話を聞くことにした。
妻は普段、弱音を吐かない。
だからこそ、こういうときくらいは好きなだけ愚痴を言えばいいと思う。
俺にできることは大してないが、話を聞くくらいならできる。
もっとも、相槌を間違えると怒られるので、難易度はそれなりに高い。
妻は二杯目のワインを注ぎながら、また仕事の話を始めた。
俺はそれを聞きながら、空になったグラスを差し出す。
「俺にもお願い」
「自分で注いでよ」
「はい」
今日も我が家は平和である。
少なくとも、今のところは。
*
「もうやだ」
妻がグラスをテーブルに置いた。
「何が?」
「仕事」
「辞める?」
「辞めない」
即答だった。
まあ、そうだろう。妻は俺と違って責任感が強い。仕事が嫌だからといって簡単に投げ出すような人間ではない。
俺なら投げ出す。
いや、実際には投げ出さないが、少なくとも勤務中に三回くらいは退職を決意している。
「明日も休みなんだし、今日は仕事のこと忘れなよ」
「分かってるけどさあ」
妻はソファの背もたれに体を預けた。
頬が赤い。
いつもより飲むペースが早かったせいだろう。
「水、飲む?」
「いらない」
「そっか」
「……ねえ、あなた」
「ん?」
「こっち来て」
妻が隣の座面をぽんぽんと叩いた。
俺は言われたとおりに移動する。
「どうした?」
「……ゆうま」
「ん?」
「ぎゅーして」
来た。
俺は心の中で小さく拳を握った。
これである。
俺の妻には、本人も知らない秘密がある。
ストレスが限界に達した状態で酒を飲むと、幼児退行するのだ。
いや、俺も初めて見たときは驚いた。
さっきまで普通に話していた妻が、突然幼い子供のような口調で甘え始めたのである。
最初は酒の飲みすぎでおかしくなったのかと思った。
実際、おかしくなってはいるのだが。
慌てて水を飲ませたり、熱を測ったりもした。妻は熱を測られている間も「ゆうまぁ、ぎゅー」と言っていた。
熱は平熱だった。俺の方がおかしくなったと思った。
翌朝になると妻は元に戻っていた。
しかも、昨夜のことをまったく覚えていなかった。
それ以来、何度か同じことが起きている。
どうやら、仕事などでひどく疲れているときに酒を飲むと、こうなるらしい。
普段は几帳面で、俺がタオルを少し雑に畳んだだけでも注意してくる妻が、である。
何という落差だろう。
そして何より、可愛い。
非常に可愛い。
ちなみに、俺はこのことを妻に教えていない。
教えたら恥ずかしがって、酒を飲まなくなるかもしれないからだ。
もちろん、妻にストレスを溜めてほしいわけではないし、無理に酒を飲ませるつもりもない。
ただ、せっかくこうなったのなら、存分に甘やかしたいと思う。
それが夫というものだろう。
たぶん。
「ゆうまぁ」
「あ、ごめんごめん」
妻が両腕を広げている。
「ぎゅー」
「はいはい」
俺が抱き寄せると、妻は胸元に顔を埋めた。
「んふふ」
笑った。
まずい。
可愛い。
「どうしたの、急に」
「んー?」
「甘えん坊だね」
「ちがうもん」
「違うの?」
「……ちがわない」
どっちだ。
いや、どっちでもいい。
妻は俺の服をきゅっと掴んだまま、離れようとしない。
普段なら、俺がこうして抱きついても「暑い」とか「邪魔」とか言われる。
実際、夏場に抱きつくと暑いので、そこは妻が正しい。
しかし今は違う。
妻の方から抱きついてきている。
しかも、離れない。
俺は結婚してよかった。
「ねえ」
「ん?」
「なでなでして?」
「いいよ」
頭に手を置き、ゆっくり撫でる。
妻は気持ちよさそうに目を細めた。
「もっと」
「はいはい」
「んー……」
俺は黙って撫で続けた。
普段の妻は、俺が髪に触ると「せっかく整えたのに」と嫌がることがある。
だから、こうして好きなだけ撫でられるのは貴重だった。
妻はしばらく満足そうにしていたが、不意に顔を上げた。
「ねえ、ゆうま」
「ん?」
「すき」
「俺も好きだよ」
「どれくらい?」
「めちゃくちゃ」
「んふふ。いっしょ」
妻は再び俺の胸に顔を埋めた。
俺は妻の頭を撫でながら、天井を見上げた。
世の中には、金で買えないものがあるという。
今、俺の腕の中にあるものがそれだ。
ただし、ワイン代はかかっている。
「……ねえ」
「ん?」
「のどかわいた」
「水持ってこようか」
「うん」
妻は頷いたものの、俺の服を掴んだ手を離さなかった。
「じゃあ、ちょっと離してくれる?」
「やだ」
「水、飲みたいんでしょ?」
「のみたい」
「じゃあ離して」
「……やだ」
困った。
口ではそう言いつつ、俺はまったく困っていなかった。
むしろ嬉しい。
ただ、妻が喉を渇かせているのは可哀想なので、ここは心を鬼にするしかない。
「すぐ戻ってくるから」
「ほんと?」
「ほんと」
「ぜったい?」
「絶対」
妻は少し考えてから、ようやく手を離した。
「……はやくね」
「はいよ」
俺は立ち上がり、キッチンへ向かった。
背後から、妻の声が聞こえる。
「ゆうまー」
「なにー?」
「はやくぅ」
まだ三歩しか歩いていない。
先が思いやられる。
俺は頬が緩むのを抑えながら、冷蔵庫を開けた。
冷蔵庫から水を取り出し、コップに注ぐ。
氷も入れておこうかと思ったが、妻は冷たいものを飲むとお腹を壊しやすい。
こういうところは、ちゃんと覚えている。
俺は妻のことが好きなのだ。
洗濯物の畳み方を覚えるのとは、話が違う。
「お待たせ」
「ゆうまぁ!」
妻がぱっと顔を上げた。
俺を見つけた途端、嬉しそうに笑う。
水を持ってきただけなのに、随分な歓迎である。
「はい、お水」
「ありがとぉ」
「どういたしまして」
妻は両手でコップを受け取り、こくこくと飲んだ。
「おいしい?」
「うん!」
よかった。
水道局にも聞かせてやりたい返事だ。
妻はコップをテーブルに置くと、俺を見上げた。
「ゆうま、えらいねぇ」
「……え?」
「おみず、もってきてくれた」
「ああ、うん」
「えらい、えらい」
妻は満足そうに頷いた。
褒められた。
水を持ってきただけで。
普段なら、コップを出しっぱなしにしただけで注意されるというのに。
どうやら今の俺は、相当偉いらしい。
「……そんなに偉い?」
「うん。すっごくえらい」
「そっか」
嬉しい。
予想以上に嬉しい。
「ゆうま?」
「ん?」
「こっちおいで」
「はい」
妻が隣をぽんぽんと叩いた。
俺は素直に腰を下ろす。
すると、妻が俺の頭に手を伸ばしてきた。
「……ん?」
「よしよし、してあげる」
そう言って、俺の頭を撫で始めた。
待ってほしい。
これは聞いていない。
「ゆうま、いいこ」
「……ありがとう」
「いつもがんばってるもんねぇ」
妻の手が、ゆっくりと髪を撫でる。
俺は動けなくなった。
普段の妻は、俺にこんなことをしない。
そもそも、頭を撫でられたのがいつ以来なのかも思い出せない。
「……ゆうま?」
「はい」
他は
「きもちいい?」
「……うん」
「んふふ。よかったぁ」
妻は嬉しそうに笑い、また俺の頭を撫でた。
おかしい。
俺が妻を甘やかしていたはずなのに、いつの間にか俺が甘やかされている。
しかも、悪くない。
いや、かなりいい。
俺は少しだけ妻の方に頭を傾けた。
「……もうちょっとお願いしてもいい?」
「いいよぉ」
即答だった。
俺は目を閉じた。
「ゆうまも、ねんねする?」
「まだ眠くないかな」
「じゃあ、ねんねできるように、よしよししてあげる」
妻はそう言って、俺の頭を撫で続けた。
ありがたい。
ただ、寝かしつけられる予定はなかった。
しばらくすると、妻の手が止まった。
「……ゆうま」
「ん?」
「ねむい」
「そっか。そろそろ寝ようか」
「……ねむくない」
「今、眠いって言ったじゃん」
「いってないもん」
言った。
つい三秒前に。
「じゃあ、もうちょっと起きてる?」
「うん」
妻は満足そうに頷き、俺の腕に抱きついた。
そのまま、こてんと頭を預けてくる。
「……ゆうま」
「ん?」
「だいすき」
「俺も好きだよ」
「……えへへ」
妻は嬉しそうに笑った。
そして、目を閉じた。
「……眠い?」
「ねむくないもん」
「そっか」
俺はそれ以上何も言わず、妻の頭を撫でた。
しばらくすると、小さな寝息が聞こえてきた。
早い。
まだ一分も経っていない。
「……おーい」
返事はない。
完全に寝ている。
俺は妻の寝顔を覗き込んだ。
普段はあんなにしっかりしているのに、今はすっかり無防備な顔をしている。
明日の朝には、何事もなかったように元に戻るのだろう。
そして俺は、またタオルの畳み方を注意される。
まあ、それも悪くない。
俺は妻を起こさないように、そっと抱き直した。
少なくとも今夜の俺は、偉いらしいので。
*
翌朝。
俺はキッチンに立っていた。
しかも、自分から。
フライパンではベーコンが焼けている。隣のコンロではスープを温め、トースターには食パンが二枚。
普段の俺なら、妻が起きてくるまでソファでスマホをいじっているところだ。
しかし、今日の俺は違う。
昨夜の妻が可愛すぎたのである。
俺の名前を呼びながら両手を広げていた姿も、頭を撫でられて嬉しそうにしていた顔も、眠くないと言い張りながら寝てしまったところも。
思い出すだけで顔が緩む。
あれが俺の妻なのだ。
普段はタオルの端が揃っていないだけで注意してくる、あの妻が。
まったく、結婚してよかった。
「……あなた?」
振り返ると、妻が寝室から出てきたところだった。
少し寝癖がついている。
可愛い。
「おはよう」
「おはよう。……何してるの?」
「朝ご飯作ってる」
「それは見れば分かるけど」
妻はテーブルに並んだ皿を見て、それから俺を見た。
「あなたが?」
「俺が」
「……珍しいね」
「たまにはね」
妻は不思議そうに首を傾げた。
「何かいいことでもあった?」
「まあね」
「何?」
「秘密」
「何それ」
妻は呆れたように笑った。
俺は焼き上がったベーコンを皿に盛りつけ、トーストを取り出した。
「ほら、座って。もうできるから」
「……うん」
妻は椅子に腰を下ろした。
昨夜のことは、やはり何も覚えていないらしい。
目の前にいるのは、いつもの妻だ。
しっかり者で、少し厳しくて、俺のことをよく注意する。
そして、いつ見ても可愛い。
「はい、お待たせ」
皿をテーブルに置く。
妻は朝食を見下ろしたあと、俺を見た。
「……ベーコン、ちょっと焼きすぎじゃない?」
「えっ」
「まあ、いいけど」
そう言って、妻はトーストに手を伸ばした。
いつもの妻だ。
俺は向かいの椅子に座り、昨夜のことを思い出した。
『ゆうま、ぎゅーして』
あの声をもう一度聞きたい。
できれば毎日聞きたい。
もっとも、普段の妻にそんなことを頼んだら、何を言っているのかと呆れられるだろう。
まあ、それも含めて可愛いのだが。
「……あなた」
「ん?」
「何にやにやしてるの?」
「いや、別に」
「気持ち悪いからやめて」
「はい」
俺は慌てて表情を引き締めた。
昨夜はあんなに甘えてきたのに、今朝はもうこの調子である。
まったく、可愛い妻だ。
できれば、あと一時間くらいは昨日のままでいてほしかったが。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。




