世界が彼女の唄を忘れるまで
――少女は、滅びた村で唄っていた。
最初にそれを見たとき、カイルは頭のおかしい女だと思った。
家々は焼け落ちていた。
道には折れた槍や鍬が転がり、その傍らには人間と魔族の亡骸が残されている。
三日前。
この村は魔族に襲われた。
珍しい話ではない。
北の大城壁が崩れてから十五年。
魔族は少しずつ、人の住む土地へ入り込んでいた。
街道から外れた小さな村が一夜で消える。
そんな話をカイルは何度も聞いている。
実際に見たことも一度や二度ではない。
だから彼が足を止めた理由は、死体ではなかった。
――歌だった。
女の声。
焼けた家々の向こうから聞こえてくる。
カイルは腰の剣へ手をかけた。
魔族の中には、人の声を真似て獲物を誘うものもいる。
慎重に広場へ進む。
そこに一人の少女がいた。
年は十六、七ほど。
淡い銀色の髪。
青い瞳。
生成り色の簡素なワンピースを着ている。
少女は道端に座り唄っていた。
すぐ近くには村人の亡骸。
少し離れた場所には魔族の死骸。
少女はそのどちらにも触れず、ただ、唄っている。
歌詞はなかった。
カイルの知らない歌だった。
けれど、足が止まった。
「……」
上手い。
そう思ったのは少し経ってからだった。
最初はそんなことすら考えなかった。
ただ、聞いていた。
風が吹く。
草が揺れる。
少女の銀色の髪が揺れる。
そのすべての中を声が流れていく。
悲しい歌だとカイルは思った。
だが、死を嘆いているだけではない。
もっと静かな、何かを送り出すような歌だった。
気づけば剣から手を離していた。
それに気づいてカイルは眉をひそめる。
やがて歌が終わった。
風だけが残る。
「……おい」
少女が振り返った。
「あ」
少し驚いた顔。
「こんにちは」
「……何してる」
「唄っていました」
「見れば分かる」
「そうですよね」
少女は少し恥ずかしそうに笑った。
「この村の人間か?」
「いいえ」
「違うのか」
「はい。三日ほど前に来ました」
カイルは眉を寄せた。
「三日前?」
「はい」
「何しに」
「特には」
「……は?」
「歩いていたら村があったので」
「それで?」
「泊めていただきました」
少女は周囲へ目を向ける。
「食事もいただきました」
焼け落ちた家。
倒れた人々。
「優しい方たちでした」
「誰に泊めてもらった」
少女は一人の亡骸を見る。
少し考える。
「……名前は聞いていません」
「三日いたんだろ?」
「はい」
「誰の名前も知らないのか」
「ほとんど」
少女は少し申し訳なさそうに言った。
「最初の日は、皆さん私を警戒していたので」
「まあ、そうだろうな」
「でも、パンをいただきました」
少女は少し笑う。
「お水も」
「それだけ?」
「井戸の使い方を教えていただきました」
「……」
「歌を聞いてくれた子もいました」
「名前は?」
「聞きませんでした」
カイルは少女を見る。
三日。
それなら。
こんなものなのかもしれない。
親しかったわけではない。
家族でも、友人でもない。
「じゃあ、ほとんど他人じゃねえか」
「そうですね」
少女はあっさり頷いた。
「でも――」
村を見る。
「優しくしてもらいました」
「だから歌ってた?」
「はい」
「死んでるぞ」
「はい」
「聞こえない」
「そうかもしれません」
「なら何のために唄う」
少女は少し考えた。
「分かりません」
「分からない?」
「はい」
困ったように笑う。
「ただ――」
周囲を見る。
「何もせずに行ってしまうのは、嫌だったので」
「……そうか」
カイルにはよく分からなかった。
だが、少女自身も分かっていないのなら聞いても仕方がない。
「埋めたりはしないのか」
何気なく聞いた。
少女が首を傾げる。
「埋める?」
「墓だよ」
「ああ」
少女はようやく理解したらしい。
それから不思議そうに亡骸を見る。
「このままでいいと思います」
「……いいのか?」
「はい」
少女は地面へ手を触れた。
「土に帰りますから」
「人が?」
「人も」
草を見る。
「草も」
遠くに倒れた魔族を見る。
「あの方たちも」
「魔族だぞ」
「はい」
「この村を襲った奴らだ」
「そうみたいですね」
「それも同じなのか」
少女は少し考える。
「死んだ後も、違うのですか?」
「……」
カイルは答えなかった。
「土になって」
少女は言う。
「草が生えて」
「……」
「それを何かが食べて」
空を見る。
「また、何かになるのでしょう?」
「多分な」
「なら」
少女は微笑んだ。
「帰れます」
カイルは何も言わなかった。
宗教か。
どこかの土地の風習か。
そう思った、このときは。
「……襲われたときは?」
「ここにいました」
カイルの意識が現実へ戻る。
「村に?」
「はい」
「魔族が来たときも?」
「はい」
「最初から?」
「いました」
「どうやって助かった」
少女は少し考えた。
「唄っていました」
「……は?」
「唄っていました」
「今じゃない。襲われたときだ」
「はい」
「そのとき何してたって聞いてる」
「ですから」
少女は不思議そうに――
「唄っていました」
「……」
話が噛み合っていない。
「魔族が村に入ってきたんだろ」
「はい」
「村の連中が襲われた」
「はい」
「お前もここにいた」
「はい」
「何をした」
「唄いました」
「何のために」
今度は少女が黙った。
「……怖かったので」
「怖くて歌った?」
「はい」
「普通は逃げるだろ」
「そうなのですか?」
「そうだよ」
少女は考える。
「逃げればよかったのでしょうか」
「生き残りたいならな」
「でも」
少女は亡骸を見る。
「皆さんを置いていくのは、嫌でした」
「戦ったのか?」
「いいえ」
「武器は」
「持っていません」
「魔法は?」
少女はまた。
「唄いました」
と答えた。
「だから――」
カイルは。
途中でやめた。
どうやらこれ以上聞いても同じ答えしか返ってこない。
改めて少女を見る。
怪我はない。
多少汚れてはいる。
だが、服は破れていない。
血もついていない。
これだけの襲撃の中にいて、戦わず、逃げず、ただ唄っていた。
それで生き残った。
「……意味分からねえ」
「すみません」
「謝るな」
少女が小さく笑った。
カイルはそこでようやく別の違和感に気づいた。
「お前」
「はい?」
「荷物は?」
「荷物?」
「三日前にここへ来たんだよな」
「はい」
「外から?」
「はい」
「……その格好で?」
改めて見る。
生成り色のワンピース。
薄い靴。
それだけ。
背負い袋も水筒も毛布もない。
財布すら持っているようには見えない。
「宿に置いてたのか」
「いいえ」
「魔族に取られた?」
「いいえ」
「じゃあ、どこにある」
「最初から持っていません」
カイルは黙った。
「その格好で来たのか?」
「はい」
「どこから」
少女は答えようとして止まった。
「分かりません」
「……は?」
「どこと言えばいいのか、分からなくて」
「町の名前は」
「知りません」
「村は見ていません」
「何日歩いた」
「覚えていません」
「金は?」
「ありません」
「食料」
「ありません」
「水」
「ありません」
「お前、本当にどうやってここまで来たんだ」
「歩いて」
「それは知ってる」
カイルは額を押さえた。
「名前は」
「あ」
少女はようやく思い出したように。
「リィナです」
「リィナ」
「はい」
「俺はカイル」
「カイル」
少女は確かめるように一度名前を口にする。
「よろしくお願いします」
「何が」
「?」
「よろしくする予定はない」
「そうなのですか?」
「俺はこの村を通りかかっただけだ」
「私もです」
「お前は三日いた」
「そうでした」
「……」
そのとき、ぐう、小さな音。
リィナが自分の腹を見る。
「お腹が空きました」
「だろうな」
「カイルは何か持っていますか?」
「なんで俺がやるんだ」
「持っていそうなので」
「そういう問題じゃねえ」
そう言いながらカイルは荷物を開いた。
固いパンを一つ。
半分に割る。
「ほら」
パンを投げる。
リィナが慌てて受け取った。
「ありがとうございます」
小さくちぎって食べる。
「美味しいです」
「固いだけだろ」
「パンです」
「パンだな」
「好きです」
「そうかよ」
カイルも残りを食べる。
不味い。
いつもの保存食だ。
だが、リィナは本当に美味しそうに食べていた。
◇
「――それで」
食べ終わってカイルが聞く。
「これからどうするんだ」
「これから?」
「ああ」
リィナは考えた。
「歩きます」
「どこへ」
「まだ決めていません」
「……」
「どこかへ」
「お前な」
「はい」
「魔族がいるんだぞ」
「知っています」
「昨日見ただろ」
「はい」
「怖くないのか」
「怖いです」
即答だった。
「なら少しは旅の準備をしろ」
「準備」
「最低でも食料。水。毛布。雨具。金。できれば武器」
「武器」
「ああ」
「人を傷つけるものですか?」
「人だけじゃない。魔族もだ」
リィナは少し考えた。
「唄には、必要ありません」
「……何?」
「武器は」
リィナは自分の胸元へ手を添える。
「唄うのに、必要ありませんから」
「歌の話なんかしてねえよ」
「そうなのですか?」
「旅の話だ。魔族に襲われたらどうするって話をしてる」
「どうしましょう」
「俺に聞くな」
「困りました」
「今さらかよ」
リィナは本当に困った顔で考え込む。
「昨日はどうした」
「唄っていました」
「それは聞いた」
「はい」
「毎回それでどうにかなるのか?」
「分かりません」
「だったら武器くらい持て」
リィナは首を横に振った。
「それは、いりません」
「なんで」
「私には、唄があります」
「……何の関係がある」
リィナは少し笑った。
「歌が好きなんです」
「……」
「とても」
カイルは少女を見る。
冗談ではないらしい。
「魔族はそんな事情を聞いてくれねえぞ」
「そうですね」
「怖くないのか」
「怖いです」
「死ぬかもしれない」
「それは嫌です」
「なら少しは考えろ」
「はい」
素直に頷く。
そして本当に真剣な顔で考え始める。
「……」
「……」
「どうしましょう」
「だから俺に聞くな」
カイルは額を押さえた。
やはりこの少女とはどこか話が噛み合わなかった。
「――じゃあな」
カイルは立ち上がる。
「はい」
リィナも立ち上がる。
「……」
歩く。
後ろから足音。
十歩。
二十歩。
カイルが止まる。
後ろの足音も止まる。
振り返る。
リィナがいた。
「なんでついてくる」
「道が同じなので」
「どこへ行くんだ」
「まだ決めていません」
「じゃあ同じかどうか分からねえだろ」
「あ」
リィナは目を瞬く。
「そうですね」
「そうですね、じゃない」
「カイルはどこへ?」
「西だ」
「では、私も西へ」
「今決めただろ」
「はい」
悪びれる様子もない。
カイルは大きく息を吐いた。
「好きにしろ」
歩き出す。
別に街道を歩くなとは言えない。
勝手についてくるだけなら放っておけばいい。
そう思った。
半刻後。
「カイル」
「なんだ」
「少し待ってください」
「今度は何だ」
「足が痛いです」
「……」
振り返る。
リィナは道端にしゃがみ込んでいた。
薄い靴。
どう見ても長旅をするためのものではない。
「どれくらい歩いたことがある」
「たくさん」
「どれくらいだ」
「昨日も歩きました」
「聞き方が悪かった」
カイルは空を見る。
まだ日は高い。
「休むぞ」
「いいのですか?」
「俺が休みたい」
「でも――」
「なんだ」
「私が足が痛いと言ったあとでした」
「お前、変なところだけ鋭いな」
「ありがとうございます」
「褒めてない」
二人は街道脇の木陰へ入った。
カイルが水筒を差し出す。
「飲め」
「ありがとうございます」
「全部飲むなよ」
「はい」
一口。
二口。
返す。
「少なくないか」
「全部飲むなと言われたので」
「加減しろって意味だ」
「難しいですね」
「何がだよ」
カイルは水筒を受け取った。
しばらくしてリィナが木にもたれた。
風が吹く。
葉が揺れる。
その音を聞きながら少女は小さく唄い始めた。
「……」
カイルは横目で見る。
知らない歌。
歌詞もない。
ただ声が流れている。
そしてまた聞いていた。
上手い。
という言葉だけでは足りない気がした。
気づけば耳を傾けてしまう。
何かをしていても手を止めてしまう。
もっと聞いていたい。
そんな声だった。
「何の歌だ」
歌が止まる。
「分かりません」
「知らないのか」
「今、できました」
「今?」
「風が気持ちよかったので」
「それだけで歌になるのか」
「はい」
リィナは。
少し笑う。
また唄い始める。
カイルは水筒へ手を伸ばし途中で止めた。
歌が変わった。
さっきまで風のようだった軽い歌。
それがいつの間にか懐かしいものへ変わっている。
「……」
家を思い出した。
昔の小さな家。
雨が降れば屋根が鳴った。
冬は隙間風が寒かった。
母親が夕食を作っている。
妹が椅子に座り足をぶらぶらさせている。
『兄ちゃん』
声が聞こえた気がした。
「……やめろ」
歌が止まる。
リィナが目を開けた。
「どうしました?」
「その歌」
「はい」
「何の歌だ」
「分かりません」
「さっきは風の歌だったんじゃないのか」
「最初は」
「途中からは?」
リィナはカイルを見る。
「カイルを見ていたら」
「俺を?」
「はい」
「何を見た」
「顔です」
「そういう意味じゃねえ」
「難しいですね」
リィナは少し考える。
「何か」
胸へ手を当てる。
「寂しそうだったので」
「……」
カイルは立ち上がった。
「行くぞ」
「もう休まなくていいのですか?」
「ああ」
「分かりました」
リィナも立ち上がった。
何も聞かなかった。
カイルも何も言わなかった。
――夕方。
二人は街道沿いの林で夜を過ごすことになった。
「枯れ枝を拾え」
「これですか?」
「それは生木」
「これは?」
「細すぎる」
「これは?」
「キノコだ」
「落ちていました」
「何でも拾うな」
「難しいですね」
「枝拾いの何が難しいんだ」
「初めてなので」
カイルの手が止まる。
「初めて?」
「はい」
「火は起こせるか」
「いいえ」
「料理」
「できません」
「野営は」
「初めてです」
「……」
カイルはしばらくリィナを見た。
「お前、今までどうやって生きてきた」
リィナは少し考える。
「分かりません」
「またそれか」
「すみません」
「謝るな」
カイルは火を起こす。
リィナは隣にしゃがみ、じっと見ていた。
「面白いです」
「何が」
「火が生まれました」
「大げさだな」
だが、リィナは本当に珍しいものを見るように炎を見つめていた。
夜――
干し肉とパンを食べた。
毛布を渡した。
リィナは火の傍で毛布に包まる。
「カイル」
「なんだ」
「今日は楽しかったです」
「どこが」
「たくさん歩きました」
「足痛いって言ってただろ」
「枝も拾いました」
「使えない枝ばっかりな」
「火も見ました」
「火くらい見たことあるだろ」
「作るところは初めてでした」
「そうかよ」
「それから」
リィナは少し笑う。
「カイルと話しました」
「……寝ろ」
「はい」
しばらくして寝息。
カイルは火を見る。
変な少女だ。
どこから来たのか分からない。
旅の仕方も知らない。
火の起こし方も知らない。
金も食料も武器もない。
なのに魔族に襲われた村で一人だけ無傷で生き残った。
唄っていた。
ただ、それだけだと言う。
そしてあの歌。
母親。
妹。
もう、ずっと思い出さないようにしていたもの。
「……面倒だな」
小さく呟く。
明日、次の町まで連れていく。
それで終わり。
そう決めた。
翌朝――
「起きろ」
「……」
「リィナ」
「……」
「置いてくぞ」
「起きます」
毛布の中から声。
「起きてねえだろ」
「心は起きています」
「身体も起こせ」
毛布が動く。
銀色の髪。
ひどい寝癖。
「おはようございます」
「……おう」
カイルはパンを渡す。
「美味しいです」
「昨日と同じだぞ」
「朝なので違います」
「意味が分からん」
そんな朝だった。
昼前。
森を抜ける。
小さな宿場町が見えた。
「あれだ」
「町ですか?」
「ああ」
石壁、門、行商人、馬車、多くの人。
リィナは興味深そうに見ている。
「ここまでだ」
「はい?」
「町に着いた」
「あ」
「中なら宿もある。飯も買える」
「はい」
「人もいる」
「たくさんいますね」
「だから」
カイルはリィナを見る。
「ここからは一人で何とかしろ」
リィナは少し黙った。
「分かりました」
「……いいのか」
「何がです?」
「いや」
自分から言ったくせに妙な気分になる。
カイルは腰袋から銅貨を出した。
「ほら」
「これは?」
「金」
「知っています」
「そこは知ってるのか」
「見たことがあります」
「宿と飯に使え」
「いただけません」
「貸しだ」
「返すのですか?」
「……返さなくていい」
「それは貸しではないのでは?」
「細かいな」
リィナの手へ銅貨を押しつける。
「いいか。知らない奴についていくな」
「昨日、カイルについていきました」
「俺はいい」
「なぜです?」
「……」
カイルは答えに詰まる。
「とにかく。暗くなったら町の外に出るな。金は見えるところに出すな。宿は先に値段を聞け」
「はい」
「飯も食え」
「はい」
「それから――」
「カイル」
「なんだ」
「お母さんみたいですね」
「誰がだ」
リィナが笑った。
「じゃあな」
「はい」
二人は別れた。
三日後。
カイルはまだ同じ町にいた。
「……何してんだ、俺」
酒場の壁。
依頼書。
護衛。
魔族討伐。
荷物運び。
仕事はいくらでもある。
普段ならもう町を出ている。
なのになぜか決める気にならない。
酒場を出る。
広場に人が集まっている。
「……?」
歌が聞こえた。
カイルの足が止まる。
すぐに分かった。
「まさか」
人垣へ近づく。
リィナがいた。
広場の片隅。
噴水の縁に座り唄っている。
周囲には大勢の人。
買い物帰りの女、荷物を抱えた男、遊んでいた子供。
老人、店の主人、皆、静かだった。
ただ、聞いている。
カイルも人垣の後ろで立ち止まった。
歌詞はない。
何の歌かも分からない。
だが、穏やかだった。
昼下がり。
柔らかな陽射し。
人々の生活。
焼いたパンの匂い。
子供の笑い声。
そんな何でもない一日をそのまま歌にしたようだった。
やがて最後の声が消える。
誰もすぐには動かなかった。
それから誰かが手を叩く。
一人、また一人、拍手が広がった。
リィナは驚いたように周囲を見る。
どうやらこれほど人が集まっていたことに今気づいたらしい。
「ありがとうございました」
頭を下げる。
人々が少しずつ散っていく。
子供が駆け寄る。
「お姉ちゃん、また歌ってね」
「はい」
リィナが笑う。
子供も笑って走っていった。
「人気者だな」
リィナが振り返る。
「あ」
顔がぱっと明るくなった。
「カイル」
「何してる」
「唄っていました」
「それは見れば分かる」
また、同じ会話だった。
「この町にいたのか」
「はい」
「三日も?」
「はい」
「金は」
「なくなりました」
「……だろうな」
「宿とご飯に使いました」
「仕事は?」
「していません」
「今の歌で金を取ればいいだろ」
リィナが驚いた。
「歌で?」
「これだけ人が集まるんだ。銅貨くらい置いていくだろ」
「歌を聞くのに、お金がいるのですか?」
「吟遊詩人はそれで食ってる」
「そうなのですね」
感心したように頷く。
「知りませんでした」
「お前、本当に何も知らないな」
「でも」
リィナは少し嬉しそうに。
「歌を聞いてもらえるのは、好きです」
「そうか」
「はい」
それだけは迷いのない返事だった。
「カイルは」
「ん?」
「これから、どこへ行くのですか?」
「南」
「何があるのです?」
「仕事」
「魔族ですか?」
「多分な」
「そうですか」
リィナは少し考える。
「私も行っていいですか?」
「駄目だ」
「なぜです?」
「お前は遅い」
「はい」
「金がない」
「はい」
「料理できない」
「はい」
「火も起こせない」
「はい」
「魔族と戦えない」
「はい」
「……少しは反論しろ」
「全部、本当なので」
「そうだな」
リィナは少し考える。
「でも」
胸へ手を当てる。
「私には、唄があります」
「それは知ってる」
「役に立つかもしれません」
「かもしれない?」
「旅のことは、まだよく分からないので」
「……」
「でも」
リィナは笑う。
「歌は好きです」
カイルはしばらく少女を見る。
「……次の町までだ」
リィナが目を瞬く。
「いいのですか?」
「次の町まで」
「はい」
「そこで終わり」
「分かりました」
嬉しそうに笑った。
次の町まで、そのはずだった。
町を出て二日目。
魔族が現れた。
三匹。
黒い獣のような姿。
狼より一回り大きい。
額に短い角。
「後ろへ」
カイルが剣を抜く。
リィナは素直に下がった。
「走れと言ったら走れ」
「はい」
一匹が飛びかかる。
カイルが斬る。
黒い血。
倒れる。
二匹目。
横から剣を返す。
浅い。
魔族が吠える。
三匹目がリィナへ向かった。
「リィナ!」
少女が息を呑む。
怖い。
その顔を見れば分かった。
足が竦んでいる。
魔族が跳ぶ。
カイルが走る。
間に合わない。
そのときリィナが唄った。
声が響く。
たったそれだけ。
だが、風が変わった。
リィナの銀色の髪がふわりと浮く。
魔族の爪が少女へ届かない。
「……!」
カイルが足を止める。
何かがある。
少女の周囲に見えない壁でもない魔力の盾とも違う。
カイルは魔術師と仕事をしたことがある。
魔法なら分かる。
術式、詠唱、魔力。
だが。
これは、何だ。
リィナはただ唄っている。
怖そうに震えながら。
それでも声は美しかった。
魔族が爪を振るう。
届かない。
何度も、何度も。
そして少しずつ動きが鈍くなる。
唸り声が弱くなる。
やがて地面へ降りた。
リィナを見る。
歌を聞いている。
しばらくして魔族は背を向けた。
森へ消える。
もう一匹も逃げていった。
歌が止まる。
風も止まった。
「……」
カイルは。
剣を持ったまま動けなかった。
「リィナ」
「はい」
「今の」
少女は少し息を切らしている。
「歌ったのか」
「はい」
「歌っただけ?」
「はい」
「……昨日の村」
カイルは思い出す。
『どうやって助かった』
『唄っていました』
「あのときも?」
「はい」
「これを?」
リィナは少し考える。
「同じかは、分かりません」
「同じじゃない?」
「あのときは」
声が小さくなる。
「もっと怖かったので」
「……」
「ずっと、唄っていました」
「それで魔族は?」
「近くまで来ました」
「でも触れなかった?」
「はい」
カイルはようやく理解した。
最初から彼女は答えていたのだ。
何一つ隠してすらいなかった。
ただカイルが歌にそんなことができるとは考えもしなかっただけだ。
「お前、魔法使いなのか」
「魔法使い」
「今のは魔法だろ」
リィナは少し考える。
「分かりません」
「自分で分からないのか」
「魔法を、よく知らないので」
「じゃあ、何をした」
「唄いました」
「それは分かってる」
カイルはもう怒鳴る気にもならなかった。
「どうして、ああなる」
リィナは胸へ手を当てる。
「唄っていると」
言葉を探す。
「ここにあるものが」
次に周囲を見る。
「外に伝わることがあります」
「何が」
「こうしたい、とか」
「さっきは?」
「怖い」
「……」
「来ないで」
リィナは魔族が消えた森を見る。
「傷つけないで」
「それだけ?」
「はい」
カイルは言葉を失った。
呪文もない。
術式もない。
ただ歌に想いを込める。
それだけで世界がその願いに応えた。
そのときリィナが地面を見る。
最初にカイルが斬った魔族。
もう動かない。
少女はその傍へ歩いていく。
「おい」
しゃがむ。
目を閉じる。
そして唄う。
静かな歌だった。
最初の村で聞いたものによく似ている。
「……そいつ」
カイルが言う。
「魔族だぞ」
歌が一度止まる。
「はい」
「お前を殺そうとした」
「はい」
「それでも歌うのか」
リィナは死んだ魔族を見る。
「死んでしまったので」
「だから?」
「帰るのでしょう?」
「……」
「土に」
リィナは地面へ触れる。
「この方も」
「こいつらが村を襲ったかもしれない」
「そうかもしれません」
「人を殺したかもしれない」
「はい」
「許せるのか」
リィナは首を傾げた。
「分かりません」
「分からない?」
「この方を知りませんから」
「……」
「知らない人を」
少し考えて。
「許すことは、できるのでしょうか」
カイルは答えられなかった。
「ただ」
リィナは死んだ魔族を見る。
「死ぬのは」
少し悲しそうに。
「寂しいと思うので」
再び唄い始める。
カイルは止めなかった。
ただ聞いていた。
それから二人の旅は続いた。
次の町までそう言って次の町へ。
そこへ着けば、また次の町まで。
リィナは少しずつ旅を覚えた。
靴を買った。
水筒を持った。
小さな鞄も持つようになった。
中には干し果物。
布。
少しの銅貨。
そして道端で拾った。
綺麗な石。
「なんで石を持ってる」
「綺麗なので」
「重いだろ」
「少し」
「捨てろ」
「嫌です」
「そこだけは即答だな」
火の起こし方も少しだけ覚えた。
料理はまだできなかった。
そして武器だけは持たなかった。
代わりにリィナはよく唄った。
朝日を見て川を見て雨が止んで唄った。
初めて雪を見た日も。唄った。
市場で真っ赤な果物を買い、一口齧ってあまりの酸っぱさに顔をしかめ、それでも唄った。
「何の歌だ、それ」
「酸っぱい歌です」
「そんな歌あるか?」
「今できました」
「……そうかよ」
宿でも、酒場でも頼まれれば唄った。
そしてリィナが唄うと人は自然と耳を傾けた。
酔っ払いが酒杯を置く。
女将が仕事の手を止める。
子供が床へ座る。
外から誰かが覗き込む。
歌が終わるまで誰も大きな声を出さなかった。
そして終わると笑う者がいた。
泣く者もいた。
ある老人は長いあいだ黙っていた。
「どうしました?」
リィナが聞く。
老人は少し笑う。
「女房を思い出した」
それだけ言って銅貨を一枚置いていった。
別の町では若い男が歌を聞き終えるなり立ち上がった。
「母ちゃんに手紙書く」
そう言って走っていった。
「なんだったんだ、あいつ」
カイルが言う。
「お母さんが好きなのでしょう」
「多分な」
「いいですね」
カイルはリィナを見る。
「お前は?」
「何がです?」
「母親」
リィナは少し考える。
「分かりません」
「覚えてない?」
「はい」
カイルはそれ以上聞かなかった。
二月目。
二人は小さな農村へ立ち寄った。
魔族には襲われていない。
人もいる。
子供も。
家畜も。
だが畑が死んでいた。
「今年は駄目だ」
老人が言った。
「雨が降らん」
井戸は底が見え始めている。
麦は黄色く枯れていた。
その夜、カイルは歌で目を覚ました。
「……」
隣を見る。
リィナがいない。
「またか」
外へ出る。
月明かり。
畑。
その真ん中。
リィナが裸足で立っている。
唄っていた。
「リィナ」
返事はない。
歌が続く。
カイルは畑へ入る。
そこで足を止めた。
麦が揺れている。
風ではない。
黄色く萎れていた葉。
そこへほんの少し緑が戻っている。
「……」
リィナは唄い続ける。
だが、少しして声が弱くなった。
身体が揺れる。
「おい」
カイルが腕を掴む。
歌が止まった。
「何してる」
「唄っていました」
「それは見れば分かる」
いつもの答え。
「全部やる気か」
「できれば」
「無理だ」
「でも」
「畑がどれだけあると思ってる」
「たくさん」
「朝になる」
「大丈夫です」
「大丈夫じゃない」
リィナは麦へ触れる。
「苦しそうなので」
「麦が?」
「はい」
「声でも聞こえるのか」
「いいえ」
「じゃあ、なんで」
リィナは枯れた麦を見る。
「見れば」
言う。
「分かります」
「……」
歌がまた始まる。
カイルは今度は止めなかった。
翌朝。
雨は降らなかった。
畑全部が蘇ったわけでもない。
ただ、リィナが唄っていた場所。
小さな一角だけ麦が緑を取り戻していた。
奇跡。
そう呼ぶにはあまりに小さい。
村を救うには足りない。
けれど老人はその麦を見て泣いた。
「まだ」
老人は土へ膝をつく。
「まだ、生きてる」
その日の朝。
村人たちは畑へ出た。
枯れた麦を抜き生き残ったものへ少ない水を回す。
カイルも井戸から水を運ばされた。
「なんで俺まで」
「カイルは力がありますから」
「俺は護衛だ」
「今は水運びですね」
「誰のせいだ」
「ありがとうございます」
「答えろ」
リィナは笑った。
村を出たあと。
カイルが聞いた。
「お前の歌」
「はい」
「何でもできるのか」
「できません」
即答。
「魔族を止めただろ」
「はい」
「麦も元気にした」
「少しだけです」
「十分おかしい」
「そうですか?」
「そうだよ」
リィナは歩きながら考える。
「何でもは、できません」
「例えば」
「雨は降りませんでした」
「そうだな」
「麦も全部は元気になりませんでした」
「ああ」
リィナは少し黙る。
「死んだ人も」
声が小さくなる。
「帰ってきません」
「……」
「だから」
前を見る。
「できることだけです」
「そのできることが分からねえんだよ」
「私も、よく分かりません」
「自分の力だろ」
「力?」
リィナが首を傾げる。
「違うのか」
「……」
考える。
「歌です」
「その歌の力だ」
「歌は」
また、少し考える。
「力なのでしょうか」
「少なくとも、俺の知ってる歌じゃない」
「カイルは歌わないでしょう?」
「そういう問題じゃねえ」
リィナが笑う。
そして歩きながら小さく唄い始めた。
カイルはそれ以上聞かなかった。
三月目。
南へ行くほど道は荒れていった。
魔族が増えた。
焼かれた家。
放棄された畑。
北へ向かう馬車。
荷台には家財道具。
子供、老人、怪我をした兵士。
「どこから来た」
カイルが一人の兵士へ聞く。
「ベルガ砦だ」
「落ちたのか?」
「まだだ」
「なら、なんでこんな人数が逃げてる」
「住民を後ろへ下げてる」
「魔族は」
「多い」
「どれくらい」
「知らん」
兵士は乾いた笑い。
「数える暇があったら代わってくれ」
そう言って歩いていった。
カイルは南を見る。
「道を変える」
「なぜです?」
「戦になってる」
「戦」
「ああ」
「魔族と?」
「そうだ」
リィナは南を見る。
「行きます」
「行かない」
「でも」
「でもじゃない」
「人がいるのでしょう?」
「いるからだ」
カイルはリィナを見る。
「お前は戦えない」
「はい」
「戦場は今までとは違う」
「どう違うのです?」
「大勢が」
カイルは少し言葉を探す。
「大勢を殺す」
「……」
「どこから何が飛んでくるか分からない。矢も魔法も飛んでくる。お前の歌がどういうものかは知らないが、間に合う保証もない」
「そうですか」
「そうだ」
リィナは逃げていく人々を見る。
「怖いでしょうね」
「だから逃げてる」
「逃げられない人も?」
「いる」
「その人たちも」
少し間を置く。
「怖いでしょうね」
「当たり前だ」
リィナは南を見る。
「行きたいです」
「駄目だ」
「カイル」
「駄目だ」
「でも」
「死ぬぞ」
強い声。
リィナが黙った。
「今までとは違う」
カイルは続ける。
「歌が聞こえる前に矢が刺さるかもしれない。魔族だって三匹や四匹じゃない」
「……」
「だから行かない」
リィナは俯く。
「……分かりました」
カイルは少しだけ安心した。
その夜、リィナはいなくなっていた。
◇
「……あの馬鹿!」
カイルは南へ走った。
街道。
足跡。
小さい。
間違いない。
「何が分かりましただ!」
遠く空が赤い。
ベルガ砦。
火。
戦場が近い。
音が聞こえ始める。
怒号、金属、爆発、咆哮。
カイルは剣を抜く。
丘を越える。
そして見た。
砦の前。
人間、魔族が入り乱れている。
土は血と泥で黒い。
その中を一人の少女が歩いている。
「リィナ!」
聞こえない。
矢が飛ぶ。
カイルが走る。
剣で弾く。
「馬鹿野郎!」
リィナの腕を掴む。
少女が振り返る。
「カイル」
「何してる!」
「来てくれたんですね」
「当たり前だろ!」
「ありがとうございます」
「礼を言うな!」
腕を引く。
「戻るぞ!」
「カイル」
「なんだ!」
「怪我をしている人がいます」
「見れば分かる!」
「たくさん」
「だから戦場なんだよ!」
リィナは周囲を見る。
倒れている兵士、動かない魔族、泣いている者。
叫ぶ者、剣を振るう者、逃げる者、追う者。
殺す者、殺される者。
少女の顔が青ざめる。
身体が震えている。
「帰るぞ」
カイルが言う。
だが、リィナは動かない。
「リィナ」
「……こんなに」
「見るな」
「こんなにたくさん」
「見るな!」
カイルは少女を自分の方へ向かせる。
「お前が見る必要はない」
「でも」
「お前には関係ない!」
言った瞬間、リィナの表情が少し変わった。
「……関係ないのでしょうか」
「そうだ」
「知らない人だから?」
「そうだよ」
「魔族も?」
「……」
カイルは答えなかった。
「私」
リィナは周囲を見る。
「この人たちの名前を知りません」
「……」
「何が好きなのかも」
「リィナ」
「どこから来たのかも」
少女は息を吸う。
「何も知りません」
最初の村と同じだった。
三日しかいなかった村。
名前もほとんど知らなかった。
それでも彼女は唄った。
「でも」
リィナが言う。
「怖いのは」
震える。
「分かります」
カイルは何も言えなかった。
リィナが一歩前へ出る。
「何する気だ」
「分かりません」
「は?」
「何を唄えばいいのか」
少女の目に涙が浮かぶ。
「分からないんです」
戦場を見る。
「こんなの」
声が震える。
「見たことがないから」
そのときカイルはようやく気づいた。
リィナは答えを知っているわけではない。
何が正しいか分かっているわけでもない。
ただ、目の前のものを見て悲しい、怖い、嫌だ。
そう感じているだけなのだ。
「なら」
カイルが言う。
「帰れ」
リィナは首を横に振った。
「嫌です」
「なんで」
少女は涙を拭う。
「歌が好きなんです」
「……」
「だから」
息を吸う。
「唄いたいです」
カイルは大きく息を吐いた。
「……勝手にしろ」
「はい」
「ただし」
剣を構える。
「俺から離れるな」
リィナがカイルを見る。
「はい」
その返事だけは少し嬉しそうだった。
少女は戦場で唄った。
最初は誰も聞かなかった。
剣と剣がぶつかる。
魔法が弾ける。
人が叫ぶ。
魔族が吠える。
その中では一人の少女の声などあまりにも小さい。
それでもリィナは唄った。
カイルはその前に立つ。
魔族が来る。
斬る。
矢が来る。
弾く。
「唄え!」
カイルが叫ぶ。
「お前は、それが好きなんだろ!」
リィナは唄う。
何の歌なのか分からなかった。
悲しいだけではない。
怖いだけでもない。
怒りもあるように聞こえた。
それでも不思議と優しかった。
一人の兵士が気づいた。
剣を振り上げたまま一瞬、少女を見る。
一匹の魔族が耳を動かした。
だが、戦いは止まらない。
歌一つで戦争が終わるはずなどない。
それでも歌は消えなかった。
怒号の中、剣戟の中、血の匂いの中、聞こえる。
なぜか聞こえてしまう。
兵士が家を思い出す。
夕暮れ。
妻。
まだ小さな息子。
魔族が遠い山を思い出す。
岩山の洞窟。
そこに残した幼い子。
別の兵士が母親を。
別の魔族が兄弟を。
歌は何も命じない。
剣を捨てろとも、戦うなとも、許せとも言わない。
ただ、そこにあったものを忘れていたものを胸の奥からそっと連れてくる。
「……なんだ」
誰かが呟いた。
剣を振るう手がほんの少し遅くなる。
それだけ槍の穂先がほんの少し逸れる。
それだけ逃げる兵士を追わなかった魔族がいた。
倒れた魔族へとどめを刺さなかった兵士がいた。
ほんの少し、ほんの少しだけ死ぬはずだった命が戦場からこぼれ落ちていく。
奇跡ではない。
戦いは続いている。
人は死ぬ。
魔族も死ぬ。
それでも何かが変わっていた。
カイルは剣を振るいながらそれを見ていた。
「リィナ!」
振り返る。
少女は。泣いていた。
涙を流しながら。
それでも唄っていた。
怖いのだ。
逃げたいのだ。
それでも唄っている。
そのとき黒い光が降り注ぐ。
「――!」
カイルがリィナを抱えて地面へ転がる。
「カイル!」
「平気だ!」
左腕が焼けている。
「怪我が」
「唄ってろ!」
「でも」
「俺は戦う!」
カイルは立ち上がる。
剣を握る。
「お前は」
少女を見る。
「好きな歌を唄え!」
リィナは目を見開いた。
そして唄った。
今までより大きく戦場の空へ。
戦いが終わったのは日が沈む頃だった。
魔族は退いた。
砦は残った。
それを勝利と呼ぶ者もいた。
だが、リィナはそうは思わなかった。
地面には人間と魔族が同じように倒れていた。
リィナは唄おうとした。
しかし、もう声が出なかった。
「もうやめろ」
カイルが言う。
リィナは喉へ手を当てる。
「今日は終わりだ」
首を横に振る。
「無理だ」
また首を横に振る。
死者を見る。
「明日だ」
カイルが言った。
リィナが彼を見る。
「声が戻ったら」
カイルも死者を見る。
「唄えばいい」
リィナはしばらくカイルを見ていた。
そしてゆっくり頷いた。
翌朝、少女は唄った。
人間のために。
魔族のために。
同じ歌を怒る者もいた。
「なぜ魔族まで」
そう言う兵士もいた。
リィナは何も答えなかった。
ただ唄った。
死んだものは土へ帰る。
そこから草が生える。
何かがそれを食べる。
そしてまた何かになる。
だから彼女は唄った。
カイルは少し離れたところで聞いていた。
魔族を許したわけではない。
忘れたわけでもない。
これからまた襲われれば剣を抜くだろう。
それでも歌が終わるまでそこにいた。
昼。
二人は砦を出た。
「カイル」
掠れた声。
「喋るな」
「一つだけ」
「なんだ」
リィナは少し考える。
「昨日」
「ああ」
「歌を聞いてくれましたか?」
カイルは前を向いたまま。
歩く。
「聞いてない」
「……」
「戦ってたからな」
リィナが少し残念そうな顔をする。
「ただ」
カイルは続ける。
「耳には入ってた」
リィナが笑った。
「それは」
掠れた声で。
「聞いていたというのでは?」
「うるさい」
リィナはまた笑った。
二人は歩いていく。
次の町までそのはずだった。
だが次の町へ着けば、また次の町まで。
山を一つ越えるまで。
雨季が終わるまで。
冬が来るまで。
冬が終わるまで。
そんな言い訳をカイルはこれから何度も繰り返すことになる。
そして二人ともまだ知らなかった。
少女が唄うたび世界のどこかで。
ほんの少しずつ古い何かが目を覚ましていることを。
人が生まれるより魔族がこの大地を歩くよりもっとずっと昔。
世界には歌で世界と話す者たちがいた。
そしてその最後の一人が何も知らず、何も持たず、ただ歌が好きだと言って今、世界を歩いていた。




