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投了

掲載日:2026/06/01

 盤上に、もう逃げ場はなかった。

 三勝三敗で迎えた名人戦。名人には詰み筋が見えていた。それでも盤上から目を離せなかった。希望がわずかでもある限り探し続ける。それが棋士というものだった。

 記録係のやや枯れた声が、静寂の対局室に時を告げている。外はすっかり暗くなっていることだろう。名人の持ち時間は、将棋に没頭し続けた日々のように、あっという間に過去になっていた。

 悪手という悪手はなかったと断言できる。じわじわと、自陣は攻め込まれたのだ。

 

 手が進むにつれて名人は、盤に倒れ込まんとするように背中を曲げ、瞬きを忘れたかのように盤上を睨み続けた。

 だが、詰みという二文字が、名人に残酷な現実を突きつけていた。

 

 ――本当に、詰んでいるのか。ここから逆転の一手はないのか。

 

 なんと都合の良い考えだと、脳内の自分が失笑した。これまでの将棋人生で何度も目にし、瞬時に読んできたではないか。

 それでも視線は、盤上をさまよい続けた。

 

 記録係の秒読みが迫り、名人はまた一手を指した。対局室に駒音が鳴る。盤に叩きつけるでもなく、置くでもなく、ただ正確に、潔く、駒は音を立てた。

 指し手の所作が狂わなかったことに、名人は安堵する。

 そして、ふと、張りつめていた緊張の糸が途切れた。

 

 ――指し手ではなく、所作について考えてしまった。

 

 身体の中に渦巻いていた熱が、じんわりと抜けてしまう。

 

 挑戦者の顔を、名人はちらりと見た。

 二十歳。自分が名人位を初めて獲った年齢よりも若い。額に汗もなく、ただ盤だけを見つめている。その静けさが恐ろしく、そして美しかった。こういう棋士が現れることを、どこかで待っていた。

 幾度も守り抜いた名人位だった。だが、将棋がこの青年こそ名人に相応しいと選んだのだろう。悔しさと誇らしさが、胸の中で奇妙に溶け合った。

 挑戦者は、迷いのない手つきで、勝ち筋へ駒を動かした。彼が読み間違えることなどないと断言できる。

 この一局に悪手はなかった。――実力で負けたのだ。

 

 ふと、挑戦者に昔の自分を見た。ならばここに座る自分は、先代の名人か。

 あのとき先代が見せた、深く淀みのない一礼。今になって、あの一礼の重みを肌で感じた。

 

 秒読みの声が、遠くで聞こえた。

 名人は湯呑みを取った。冷めた茶が、からからに渇いた喉を静かに下りていく。

 目を閉じた。まぶたの裏に、これまでの無数の盤面が浮かんでは消えた。泥沼の終盤、震える手で指した会心の一手、そして今日の、敗北の棋譜。

 名人は一つ、息を吐いた。背筋を伸ばす。先代の、名人の称号を、汚してはならない。

 そして深く――頭を下げた。

 口が開いた。声は出たのだろうか。それでも、確かに、盤を越えて伝わったようだ。

 沈黙の中で、名人は頭を下げ続けた。頭を上げれば、新たな名人の誕生を祝福しなければならない。

 それは元名人としての、将棋人としての、勝負師としての――最後のわがままだった。

【小説条件】1200字以内、テーマ『沈黙』、会話文使用不可。

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