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BY THE WAY 〜少しだけ立ち止まる美容院  作者: 末紀世(まつきよ)


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1/6

「会話は控えめでお願いします」



その日は朝から、一日中本降りの雨だった。


季節は五月の後半。

早めの梅雨入りか、というような空模様で、

湿った空気が街全体にまとわりついていた。


午後三時を少し回った頃。

ガラス張りの扉が、静かに開いた。


雨粒をまとったままの女性が一人、店内に入ってくる。


「いらっしゃいませ」


受付の声に、女性は小さく頭を下げた。


予約はないらしい。


だが、その時間、ちょうど一席だけ空いていた。


「本日でしたら、すぐにご案内できます」


女性は少し迷ったような顔をしたが、

やがて静かに頷いた。


担当は、吉岡ユメナ。


当サロンで最も指名の多いスタイリストの一人だ。


受付がタブレットを差し出す。


「恐れ入りますが、こちらに必要事項のご入力をお願いいたします」


女性は椅子に腰掛け、

画面を指でなぞる。


名前。

連絡先。

希望のスタイル。


そして——


【会話は控えめでお願いします】


その項目に、迷いなくチェックが入った。


珍しいことではない。


この店では、むしろよくある選択だった。


(……わかる)


ユメナは、ほんのわずかに目を細めた。


会話をしたくない。


そう書く人の多くは、

本当に会話が嫌いなわけではない。


ただ——


何か理由がある。


何かが、少しだけ疲れている。


ユメナは何も言わず、

静かに立ち上がった。


「本日は、雨の中ご来店いただきありがとうございます」


柔らかい声だった。


店内には、ゆったりとしたジャズが流れている。

少し落とされたダウンライト。

嗅いだことのないような、上品な香り。

加湿器から漂う、ほのかなアロマ。


女性の肩から水滴が落ちた。


ユメナは、ふわりとケープを広げる。


その動きは、

まるで小さなおまじないのようだった。


布が、やさしく体を包み込む。


女性の呼吸が、

ほんの少しだけ深くなった。


必要最低限の確認だけをする。


「長さはどのくらい切りましょうか」


「……少しだけ」


短い答え。


それで十分だった。


ユメナは、鏡越しに女性の表情を見た。


目線が、少し下がっている。

肩に力が入っている。

指先が、わずかに固い。


(……違う)


会話が苦手なのではない。


何かを、ためらっている。


ユメナは一度だけ、

店の奥へ視線を送った。


カウンターの向こうで、

店長がこちらを見ている。


目が合う。


ほんの一瞬。


店長は、

ごく小さく頷いた。


ユメナもまた、

小さく頷き返す。


「少し、失礼いたしますね」


それだけ言って、

ユメナは静かにバックヤードへ消えた。


数分後。


再び現れたのは、

別のスタイリストだった。


結城学。


当サロンのナンバーワンと呼ばれる美容師だ。


「こんにちは」


低く、落ち着いた声。


女性は少しだけ驚いたが、

拒む様子はなかった。


学は自然な動きで椅子の後ろに立つ。


黒いシザーケースに手を伸ばす。


使い込まれた革。


角が少しだけ丸くなっている。


そこから取り出したのは、

細身のはさみと、

琥珀色のコーム。


その形は、

つい先ほどまで

別の誰かが使っていたものと、

よく似ていた。


だが——


誰も、それを指摘しない。


はさみが持ち上がる。


店内の音が、

わずかに遠くなる。


——静かだ。


刃が閉じる。


音は、ほとんど聞こえない。


ただ、空気がすっと切れた気配だけが残る。


次の瞬間。


切られた髪が、

ふわりと浮いた。


落ちるはずのそれは、

すぐには落ちない。


桜の花びらのように、

ゆっくりと舞いながら、

静かに回転していた。


女性は、

思わず鏡を見つめていた。


気づけば、

肩の力が抜けている。


呼吸が、自然になっている。


会話も、少しだけ増えていた。


「この辺り、軽くしても大丈夫ですか」


「……はい」


言葉が、前よりも柔らかい。


ブローが終わる頃には、

女性は声を出して笑っていた。


鏡の中の自分を見て、

何度も頷く。


「ありがとう。

 また来ますね」


学は肩をすくめて笑った。


「予約してねぇ♪

 簡単には取れないかもだけどねぇ!」


軽い冗談だった。


女性は笑った。


そして帰っていく。


扉が閉まる。


雨はまだ降っている。


だが、

足取りは、

来たときよりも少し軽かった。


店内に、静けさが戻る。


学は、何も言わずに

はさみを閉じた。


そのはさみは、

先ほどまで

別の誰かが使っていた場所に、

静かに戻された。



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