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新宿を濡らす雨は、数日が経過しても止む気配を見せなかった。
2026年の東京において、雨は単なる気象現象ではない。ネオンの光が水溜まりに溶け、魔力の残滓を帯びた極彩色の泥水となってアスファルトを這い回る。それは、この世界が「マージ」によって変質してしまったことを、絶え間なく突きつけてくるノイズだった。
灰賀は、新宿のジャンク屋の裏手、地層のように重なる廃ビルの隙間に構えたセーフハウスで、独り、愛銃のメンテナンスに没頭していた。
作業机の上には、分解されたSIG MCXのパーツが、外科手術の道具のように整然と並べられている。ボルトキャリアの摩耗を確認し、微細な塵をブラシで払い落とす。オイルの匂いが鼻腔を突き、冷たい金属の感触が指先に馴染む。この静謐な時間だけが、彼が「旧い世界の論理」を維持できる瞬間だった。
「……灰賀、聞こえる? 悪いニュースよ」
耳元のインカムから、ルニの硬い声が響いた。灰賀は手を止めず、ルーペで薬室の傷をチェックしながら短く応じる。
「魔石の件か」
「ええ。シルヴィが遺したあの青い石……解析を始めたけど、構造が異常だわ。彼女自身のギフト――『空間把握』を演算回路の核にして、多重の指向性プロテクトが組まれている。パスワードを間違えるたびに、内部の魔導回路が物理的に書き換わる仕様よ。強引にこじ開ければ、中身は一瞬で揮発してただの石ころになる。……一種の生体鍵ね」
ルニの指先がキーボードを叩く、激しい連打音が通信越しに聞こえる。彼女の苛立ちは、その音の速さに現れていた。
「……解析にはどれくらいかかる」
「最短で五日。いえ、一週間は見て。別班から借りた並列処理サーバーをフル稼働させても、この『最適化された暗号』を解くのは骨が折れるわ。……まるで、私たちがこの一週間、何もできないように足止めされているみたい」
「……足止め、か」
灰賀はボルトをスライドさせ、銃を組み上げた。金属同士が噛み合う冷たい音が、狭い地下室に響く。
シルヴィの死。あの、一千メートルを越える超長距離からの精密狙撃。
あれは「不運な事故」ではない。狙撃ポイント、風向、弾道、そして彼女の心拍が停止するタイミングに至るまで、すべてが数学的に「処理」された結果だ。
敵――中島が名前すら出したがらない『黒幕』は、こちらの行動だけでなく、時間の流れすらも盤上の変数として組み込んでいる。
「五日間、ただ待つのは俺の性分じゃない」
「……そう言うと思ったわ。ちょうどいい『暇つぶし』が入ってる。中島さんの案件じゃないわ。外部の、それも帰還不能者たちの自治組織からのダイレクト・オファーよ。場所は渋谷。あそこなら、本拠点からもそう遠くないわね」
灰賀はマガジンに5.56mm弾を込め、チェストリグに差し込んだ。
中野の境界付近、物理法則が霧散したジャミングエリアの地下にある彼らの本拠地から、複雑化した地下回廊を抜ければ、渋谷の最深部へと繋がっている。
「詳細は現地で送るわ。……気をつけて。最近の渋谷は、少し『澱んで』いるから」
かつて若者の街だった渋谷は、今や幾重にも重なる「垂直の迷宮」と化していた。
マージの影響で重力異常が発生した駅周辺のビル群は、異世界の石造建築と物理的に癒着し、空へ向かって歪な樹木のように伸びている。かつてのスクランブル交差点は巨大なクレーターとなり、その周囲を、浮遊する看板や鉄骨が衛星のように回っていた。
灰賀は、かつての地下鉄構内から道玄坂の地下に広がる巨大なスラム、帰還不能者たちの自治組織『鉄狗』の本拠地へと足を踏み入れた。
通路には、魔導触媒を用いた鈍い光のランプが点灯し、カビと鉄錆、さらに異世界のスパイスが混じった特有の臭気が立ち込めている。
通り過ぎる者たちの姿は様々だ。ボロボロのローブを纏った人間、重厚な革鎧を最新のタクティカルベストで補強したドワーフ。彼らは転生者のような「チート級のギフト」を持たない。しかし、この狂った世界で生き残るために、自衛手段として、元々異世界で持っていた「魔法」という技術を現代環境に適応させていた。
ロストにとって、魔法は神秘ではなく、呼吸に近い泥臭い技術だ。
人一人を殺すには十分な力を持つが、現代兵器のような量産された効率性や射程には及ばない。だからこそ、彼らはこの10年、魔法と火薬を不恰好に繋ぎ合わせ、必死にこの世界へ適応してきた。
「……止まれ。ここは『鉄狗』の管轄だ。用件を言え」
検問所で、二人のロストが灰賀を止めた。一人は長弓を背負ったエルフの混血、もう一人は使い込まれたAR-15を構えた男だ。
灰賀は何も言わず、ルニから送られたデジタル認証キーを端末にかざした。
「……『デバッガー』か。噂は聞いている。……通れ。副長がお待ちだ」
男たちの視線には、警戒と、そしてどこか縋るような色が混じっていた。
案内されたのは、ハチ公改札跡地の地下深くに位置する、旧防空壕を改装した執務室だった。部屋の壁には、異世界の地図と現代の東京都内地図が重ねて貼られ、無数のピンが刺されている。
「……来たか。鉄と火薬の論理でこの街を渡り歩く死神よ」
部屋の奥、山積みにされた書類の間から、しわがれた声が響いた。
そこに座っていたのは、緑色の肌に深い皺を刻み、古い自衛隊の野戦服を不恰好に纏った老いたゴブリンだった。
名を、バロ。
異世界では一族の長老として尊敬を集め、現在はロストの互助ギルド『鉄狗』の副ギルド長を務める男だ。彼は骨張った手でパイプを燻らせ、灰賀のガスマスクを一瞥して短く頷いた。
「ロストが魔法を使うのは珍しくないが、あんたのように『あっち』の力に頼らず、旧時代の兵器のみでこの街を渡り歩く奴は貴重だ。……座れ」
「立ち話でいい。依頼の内容を」
灰賀は椅子には座らず、壁に掛けられたギルドの集合写真に目をやった。写真の中央で不敵に笑う、筋骨逞しい人間の男。
「ギルド長の、ヴォルガ・ヴァンを殺してほしい」
バロの言葉には、吐き捨てるような苦渋が混じっていた。
ヴォルガ。異世界から来た人間のロストであり、卓越した剣技とカリスマで、混乱する東京において、多くの同胞を救った英雄。
「……ギルドの連中は、今もヴォルガを英雄と信じている。この10年、彼がどれほどのロストを救い、この渋谷に居場所を作ってきたか。だが……あいつは変わった。……いや、あいつは自分自身を売ったのだ」
バロは震える手でパイプを置いた。ヴォルガは特定の転生者軍閥と密約を交わし、秘密裏に若いロストたちを「生きた依代」として引き渡しているという。
「『依代』だと?」
「そうだ。ヴォルガと繋がっているあの転生者は、この世ならざる化け物や、古代の英雄の亡霊を呼び出す力を持っている。だが、奴らをこの世界に定着させ、意のままに使役するには、魔力を持った『生贄』が必要なのだ。……ヴォルガは、定期的に行われる『特別訓練』と称して、才能ある若者を選別し、隔離施設へ送り込んでいる。……そして、彼らは二度と戻ってこない」
灰賀のレンズの奥で、冷徹な計算が走る。
英雄という虚像を維持しながら、その陰で同胞の肉体と魂を、強力な召喚体を生み出すための苗床として転生者に差し出す。実に効率的で、そして救いのないシステムだ。
「選ばれた若者たちは、名誉だと思って意気揚々と訓練へ向かう。残された家族も、英雄に認められたと涙を流して喜ぶ。……その肉体が、異世界の怪物を現世に繋ぎ止めるための『楔』として消費されるとも知らずにな。……ヴォルガの周囲を固める連中だけは、その真実を知りながら、英雄の甘い汁を吸っている。……あいつらは、もはや我々の同胞ではない」
「それが、グレイ・ハウンドか」
「そうだ。ヴォルガ直属の精鋭小隊――『グレイ・ハウンド』。八名の小隊規模だが、奴らは異常だ。この10年、自分たちの魔法を補助として使い、現代兵器の火力を最大化させる戦法を独自に練り上げてきた。……近代戦という化け物に、魔法の皮膚を着せたような代物だ。……我ら古臭い魔法使いの軍勢では、あいつらの無機質なフォーメーションは崩せない」
灰賀は、バロが提示したヴォルガの協力者の紋章に目をやった。絡み合う鎖と、折れた剣。それは、中島から渡された「黒幕」に関連する、組織の末端を示すマークだった。
「……依頼を受けよう。ただし、条件がある」
灰賀は冷たく言い放った。
「ヴォルガの通信記録、及び彼が接触した転生者のデータはすべて俺が回収する。……ギルドの自浄に、俺の目的を混ぜさせてもらう」
バロは深く、長く吐息を漏らした。
「……好きにしろ。我々が欲しいのは、かつての誇り高き『鉄狗』を取り戻すことだけだ。……ヴォルガの首と共に、な」
執務室を出た灰賀は、バロから提供された秘匿経路を使い、グレイ・ハウンドだけの訓練施設が見下ろせる廃ビルの隙間へと向かった。
ルニのハッキングによって監視カメラの映像を数秒ずつフリーズさせ、死角を縫って潜入する。
そこにいたのは、小隊『グレイ・ハウンド』だった。
彼らの装備は、ギルドの他の者たちとは一線を画している。全身を難燃性のタクティカルウェアで固め、プレートキャリアには魔法の触媒となる魔石のポーチと、5.56mm弾のマガジンが並列で差されている。
「……フォーメーション、デルタ! 術式展開、煙!」
小隊長らしき男の声が響く。
一人のロストが短い呪文を唱えると、魔石から噴出した不自然なほど濃密な煙が、瞬時にエリアを覆い尽くした。
通常の煙幕ではない。熱源を遮断し、電波を乱す「魔導煙幕」だ。煙の中から、抑制された銃声――サプレッサー越しの正確な発砲音が響く。
「……見なさい、灰賀。彼ら、煙の中に『透視』の魔法を付与したコンバットグラスを併用しているわ。視界を一方的に確保した状態で、弾丸を送り込んでいる。……無駄がないわね」
インカム越しに、ルニも舌を巻いていた。
「……独力でここまで辿り着いたのか」
灰賀は無機質に評したが、その眼は鋭く彼らの動きを追っていた。
彼らの動きは、決して既存の軍の教本通りではない。「魔法という現象」を最大限に活用するために、自分たちでゼロから構築し直した、歪で、かつ極めて合理的な戦法だ。
ロストにとって、一人を呪い殺す儀式を行うよりも、引き金を引く方が遥かに早く、確実だ。
彼らは魔法を「主兵装」にすることを捨て、「銃器の殺傷力を100%発揮させるための環境構築ツール」として最適化させていた。
「ルニ。あの小隊、自分たちで近代戦術を『翻訳』している。魔法の即時性と、弾丸の物理エネルギー……そのバランスを、実戦の中で煮詰めてきた動きだ。……魔法使いとしてのプライドを捨て、物理法則に殉じている」
「……変よね。魔法使いとしてのプライドを捨てて、ここまで徹底的に効率を求めるなんて。……灰賀、ターゲットが現れたわ」
ヴォルガの傍らには、仕立ての良いスーツを纏った転生者が立っていた。
その足元には、悍ましい紋章の刻まれた黒い棺が置かれている。そこから漏れ出る不自然な冷気と、時折聞こえる「生きた肉を叩くような音」が、灰賀の肌を粟立たせた。
中島が追っている標的――あの転生者が、なぜこのロストのギルドに執着しているのか。
あの棺の中に、ロストの若者を「依代」として受肉させようとしている「何か」が眠っている。
「……ターゲットを確認した。ルニ、退路の計算を。調査は十分だ」
『了解。……ねえ、灰賀。もし彼らが本当に自分たちだけでこの戦法を身につけたのだとしたら……その執念の裏にある『絶望』を、あなたはデバッグできるかしら? 英雄に憧れたまま消えていく若者たちに、真実を突きつけるのはあなたの仕事じゃないわよね?』
灰賀は応えず、渋谷の深い闇の中へ消えていった。
感傷はない。救済でもない。
だが、かつて自分たちが支配していた戦場の論理を、魔法という異物で塗り替え、英雄の皮を被って同胞を食らう「猟犬」たち。
「解析が終わるまでの五日間。……このバグを一つ、修正する」
灰賀は、愛銃のボルトを静かに引き、初弾が薬室に送り込まれる音を聴いた。




