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新宿を濡らす雨は、汚れたアスファルトを洗い流すことなく、ただ街の不快な熱気を閉じ込めていた。
サカキ暗殺から三時間後。中島から指定された合流場所は、四ツ谷の地下深く、かつて防衛省が有線通信の拠点として使用していた旧式の秘密シェルターだった。
重厚な防爆ドアが不気味な金属音を立てて開き、灰賀が中へ足を踏み入れる。
そこには、十年前の「マージ」の混乱の中で生き別れた戦友――中島がいた。
しかし、その姿は灰賀が知る特殊作戦群の迷彩服ではない。仕立てのいい、だがどこか血の匂いのするダークスーツに身を包み、その目にはかつての快活な輝きはなかった。
「……随分と出世したようだな、中島」
灰賀がガスマスクを脱ぎ、無造作にデスクに放り投げる。
中島は苦笑い一つ見せず、モニターに映し出された不鮮明な映像を指差した。
「出世と言えるかは怪しいところだ。今は、『防衛省 秘密保全企画調査室』……現場では便宜上、『別班』と呼ばれている組織を束ねている」
「政府の犬か。……まだ生きていたとは驚きだ」
「ああ。日本が、そして自衛隊が完全に死に絶えるのを阻止するために、泥水を啜りながらな。灰賀、お前を呼んだのは、新宿で仕留めたサカキの件だ。あのような小物を操り、裏で軍閥を統制している『黒幕』がいる」
中島は、サカキの背後の日陰にいた銀髪の女――シルヴィの写真を拡大した。
「この女、シルヴィを追え。彼女は黒幕のメッセンジャー……軍閥間の連絡員だ。彼女を確保し、通信経路を解析すれば、ネットワークの頂点に辿り着ける」
「……暗殺ではなく、確保か。難易度が上がるな」
「リスクに見合う報酬は用意する。……頼めるか」
灰賀は、中島の言葉に僅かな違和感を覚えた。
中島は「黒幕」の正体について、あまりに不自然なほど口を閉ざしている。単なる情報の秘匿ではない。そこには、正体を知る者だけが抱く、根源的な「恐怖」の匂いが混じっていた。
実際、中島はこの時、戦慄を抑え込んでいた。
彼は知っている。十年前、近代兵器と精鋭の自衛隊の防衛網や官邸、日本の政治機関をわずか数日で内側から崩壊させた男。自分たちの上官であり、あの日、誰よりも早く「向こう側」へ堕ちていった藍原元司令。あいつが生きている。それだけで、この国の均衡は既に詰んでいるに等しい。だが、その絶望を今、灰賀に共有するわけにはいかなかった。
数時間後。灰賀は新宿の廃ビルに戻り、ルニと共にシルヴィの調査を開始した。
「……灰賀、中島さんの依頼、受けるのね。はい、これがターゲットの解析データよ」
ルニがジャンクPCのモニターを叩くと、シルヴィの行動ログが表示される。
「名前はシルヴィ。異世界の現地人。魔法適性は高いけど、目立った攻撃魔法の使用記録はないわ。主に転生者たちの居住区を転々として、暗号化された文書を届けている。……でも、変なのよね」
ルニが眉をひそめ、データをスクロールさせる。
「彼女、移動ルートが『合理的』すぎるの。まるで機械が算出した最短経路をなぞっているみたい。それに、どの拠点でも彼女は歓迎されていない。……むしろ、死神でも見るような目で見られているわ」
灰賀はモニターに映る、感情の消えたシルヴィの瞳をじっと見つめた。
「……中島の言う『連絡係』か。ルニ、彼女の次の出現予測ポイントを出せ。まずは泳がせて、尻尾を掴む」
「了解。……ふふ、今回の仕事は少し手間がかかりそうね」
「……ああ。この手の作業には、まず徹底した観察が必要だ」
灰賀は無意識にその言葉を口にし、当然のようにルニが頷く。
かつての同僚である中島の前では、決して見せなかった顔だ。軍隊的な規律や公用語を捨て、ルニのハッカー的な感性に馴染みきった今の自分。それを「堕ちた」と自嘲する段階は、もう何年も前に通り過ぎている。
今の灰賀にとって、銃を整備し、ターゲットの行動ログを解析し、世界の歪みを一つずつ潰していくこと。その一連の工程を「デバッグ」と呼ぶことこそが、この狂った世界で正気を保つための唯一の儀式となっていた。
だが、中島が頑なに伏せている「黒幕」の正体。
そして、システムの一部であるかのように「空っぽ」な目で街を渡り歩くシルヴィ。
新宿の雨は、まだ止む気配を見せなかった。
灰賀は、かつて自分が守ろうとした「国」の残骸と、今から向き合うべき「未知の毒」を天秤にかけながら、暗い夜の底を見つめていた。




