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ビルの最上階に、乾いた一発の銃声が響いた。
それは断末魔ですらなく、狂った独裁を終わらせる事務的な終止符に過ぎなかった。
灰賀は、もはや物言わぬ肉塊となったハーレム王を一瞥もせず、返り血を拭いながら無線を叩いた。
「……ターゲットの排除、完了。これより離脱する」
『了解。……ビルのメインサーバーは落としたわ。ハーレム王がギフトを増幅させて維持していた「洗脳の呪縛」はこれで解ける。……でも、灰賀。彼女の場所、分かってるわよね?』
ルニの声は、どこか沈んでいた。
「……ああ。依頼範囲内だ」
灰賀は、奪ったカードキーで地下へ直行する専用エレベーターを起動した。
検問所直下の地下3階。
そこはかつての地下貯水槽を改造した「再処理施設」だった。
依頼主であるタクヤは、震える手で懐中電灯を握りしめ、灰賀が事前に伝えた制圧済みのルートを通って、一足先に辿り着いていた。
「……灰賀さん! 上の方は終わったんですか!? サツキは、サツキは無事なんですか!?」
駆け寄るタクヤに対し、灰賀は何も答えず、ただ一つのカプセルの前で立ち止まった。
中には、あの日見た写真の面影を残したままの女性――サツキが横たわっている。
「サツキ! サツキ、俺だ、タクヤだ! 目を覚ましてくれ!」
タクヤが狂ったようにカプセルのレバーを引き、彼女を抱き起こす。
やがて、サツキの瞼がゆっくりと持ち上がった。しかし、そこに映っていたのは、愛する婚約者を見つめる温かな瞳ではなかった。
「……あ……う……」
彼女の瞳は濁り、焦点はどこにも合っていない。タクヤの顔を見ても、何の感情も、恐怖すらも浮かばない。彼女の脳は、魔導回路を埋め込まれ、人格を削り取られた末に、修復不可能なほど摩耗していた。
「……灰賀さん、これ、どういうことだよ……! サツキ! なんで俺が分からないんだ!?」
「……彼女の精神は、組織のネットワークの一部として既に消費し尽くされた」
灰賀は冷淡に、だが事実だけを告げた。
「ハーレム王を殺せば元に戻る。それは、お前の身勝手な願望だ。壊された器は、原因を取り除いたところで元通りにはならない」
「そんな……嘘だろ……。俺は、彼女を助けるために、あんたに金を払ったんだぞ!」
タクヤが床に崩れ落ち、虚ろなサツキを抱きしめて号泣する。その絶望の声を、灰賀は感情の欠落した瞳で見下ろしていた。
彼にとって、依頼は「契約の遂行」がすべてだ。
「俺が受けた依頼は、『彼女を連れ戻すこと』と『元凶の駆除』だ。……対象は生きており、肉体はここにある。そして、王は死んだ。俺の仕事はここまでだ」
灰賀はタクヤに背を向け、暗い通路へと歩き出す。
「……待てよ! 彼女をこんな目にした連中を……あんたは……!」
「……殺した。頼まれた分は、すべてな」
灰賀の足音が、コンクリートの床に等間隔で響く。
彼は一度も振り返らなかった。タクヤの慟哭が遠ざかり、地下施設の静寂が戻ってくる。
一時間後。
新宿の街角、不気味に光るネオンから少し離れた路地裏。
灰賀は、血の匂いが染み付いたコートを脱ぎ捨て、新しい煙草に火をつけた。
『……灰賀。報酬の振込、確認したわ。……ねえ、次の仕事の話が来てる。今度は新宿御苑付近にある「民間人居住区」を根城にしてる帰還不能者の集団。配給食料を奪い、逆らう者を魔法で処刑してる連中よ。……依頼人は、その居住区を追い出された男。報酬は、彼が隠し持っていた貴金属のすべてだそうよ』
灰賀は紫煙を吐き出し、夜の闇を見つめた。
そこに正義感はない。ただ、誰かが対価を払い、異物を排除してほしいと願ったから、彼が動く。
「……受注しろ。明日、現地で合流する」
煙草を地面に落とし、ブーツの先で踏み消す。
男は再びガスマスクを装着し、ネオンの光が届かない闇の奥へと姿を消した。
異世界と混ざり合い、狂った法が支配するこの新宿で。
誰かが対価を差し出す限り、死神は何度でも「仕事」を完遂する。




