第9話 残業ゼロの甘い新婚生活
王都からの正式な返答は、呆れるほど早かった。
早いのも当然だ。辺境の「お荷物」と見下していた騎士団が、歴史的な魔物の大規模襲撃を『死者ゼロ』で退け、圧倒的な防衛力を見せつけたのだ。おまけに、王宮の中枢を担う文官の致命的な不正疑惑(しかも証拠は完璧にファイリング済み)までセットで叩きつけられたとなれば、王都はこれを一秒たりとも“放置できない”。
届いた書状の封蝋は、紛れもない本物の王印。
右肩には特務の登録番号が刻まれ、その紙質は最高級。
そして何より、以前の横柄な態度が嘘のように、文字の震えが伝わってくるほどへりくだった、やたらと丁寧な言い回し。
リアナは執務室の自分の――最高級のクッションが敷かれた――椅子に深く腰掛け、その文書を静かに、淡々と読み上げていた。
「……これまでの不遇に対する国王陛下からの正式な謝罪。莫大な慰謝料の支払い。並びに、当騎士団の予算の大幅増額と、私自身の今後の処遇・身の安全の絶対保証」
一つ一つの項目を声に出すと、ようやく現実味が増してくる。
王宮は、体裁のために有能な人間を切り捨てた。
だが、その身勝手な切り捨ては、結果として王宮自身の首を致命的に絞めることになった。
結果として、王都のトップが辺境の土に頭を擦りつけるようにして、謝罪と懇願の書状を送ってきている。
世の中は理不尽だ。だが、正しく帳簿をつけ、正しく証拠を残しておけば、こうして完璧に帳尻が合う時もあるらしい。
そして、問題の核心。
元婚約者であり、元上司であるディートリヒ・ヴァルトの末路について。
書状には、財務監査官からの最終報告書が添付されていた。
新税制案の盗用と偽証。軍資金の横領および不正送金。文官長代理印の私的・不正運用。そして、極めつけは王命文書の偽造による人員の不正召喚未遂。
下された判決は、極めて重かった。
文官長代理の役職剥奪、および貴族位の降格。
国家反逆罪に準ずる罪での、王都地下牢への無期禁固刑。
そして、横領に関与した親族商会の強制解散と、一族の全資産没収。
これ以上ない、完全無欠の“ざまぁ”だった。
リアナは分厚い報告書をパタリと閉じ、そっと、憑き物が落ちたような息を吐いた。
「……完全に、終わりました」
背後から、地を這うような低い声が返る。
「ああ、終わったな」
レオンハルトは、執務室の窓際に立っていた。腕を組み、外の訓練場で活気よく剣を振るう騎士たちを眺めている。いつもならピリピリとした戦場と血の匂いがするはずのその大きな背中が、今日は信じられないほど穏やかで、温かい空気を纏っていた。
リアナは視線を落とし、文書の末尾に記載されている金額のゼロの数を、指で数えた。
慰謝料。
桁が、おかしい。莫大すぎる。
王宮が必死になって「頼むからこれで許してほしい」「どうかこれ以上、王宮の恥部を暴かないでほしい」と土下座している姿が、数字の羅列からありありと目に浮かぶ。
リアナは小さく、真面目な顔で呟いた。
「……ものすごい額の、特別ボーナスですね」
「ボーナス、か。まあ、違いないな」
即答だった。
レオンハルトの声が、呆れたように、しかしほんの僅かに柔らかく響く。
「で、その莫大なボーナスの使い道は決めているのか?」
「はい。まず、来たる冬営に向けて、兵站の予備費を極限まで厚くします。毛布の予備を買い足し、保存食の質を二段階上げます。それと、治癒所の設備投資ですね」
「……自分の装飾品やドレスではなく、最初にそれか」
「当然です。私の愛するこの楽園(週休二日制)を守るには、何よりも盤石なインフラと積立金が必要です」
レオンハルトが、喉の奥で短く笑った。
不器用な男だから、笑い方が下手で、笑っているのか咳払いをしているのか分からない。だが、室内の空気がふわりと甘く和らぐ。
リアナは王都からの文書を丁寧に引き出しにしまい、代わりに、ずっと手元に残しておいた「もう一通の紙」を取り出した。
分厚く、ざらついた紙。
一番上に『終身雇用契約(案)』と書かれた、あの紙。
不思議なことに、国王の印が押された先ほどの文書よりも、この不格好な紙の束を見つめている時の方が、リアナの心臓は狂ったようにうるさく鳴るのだ。
「……団長」
「なんだ」
「この契約……正式に、受理していただけるのでしたら」
「する」
食い気味の即答。
リアナの逃げ道を一切塞ぐ、猛禽類のような速さだ。
リアナは口を開きかけて、小さく閉じる。
逃げ道がないのは、本来なら怖いはずだ。
でも、逃げ道がないほどに強く、絶対に手放さないと囲い込まれ、守られているという事実は――息が詰まるほど、怖いほどに嬉しかった。
リアナは、真っ赤になりそうな耳を必死に隠し、深呼吸して言った。
「では、労使協定の条件を、最終再確認します」
「言え。すべて呑むと言ったはずだ」
「第一項。残業ゼロを基本とする。緊急事態による時間外労働が発生した場合は、速やかに代休を必須とする」
「当然だ」
「第二項。完全週休二日制の厳守」
「当然だ」
「第三項。休憩は午前・午後各十五分、絶対に厳守すること」
「当然だ。破ったら俺が休ませる」
「第四項。……執務中の、高級な甘味の支給は……週二回までとする」
「…………それは、交渉だな」
「いいえ、しません。私は自分の健康と虫歯の予防を守ります。団長が際限なく甘やかすからです」
レオンハルトの金の瞳が、スッと細くなる。
あからさまに不満そうなのに、なぜか口角は微かに上がっていて、ひどく嬉しそうだ。
「……分かった。週二回だ。俺が我慢する」
「ありがとうございます」
リアナはインク壺にペンを浸し、ペン先を紙に落とした。
雇用主の署名欄には、すでに『レオンハルト』と、力強くも妙に整った文字で署名がされている。
書類の代筆はガルムに任せると言っていた彼が、この署名だけは、夜中に一人で何度も練習して書き入れたのだろう。
その不器用な情景を想像するだけで、胸が熱くなり、涙腺が緩みそうになる。
リアナは、自分の名を、その隣にもう一度、生涯消えないように深く書き込んだ。
リアナ・アルフェルト。
たった一枚の紙の上に、二人の名前が並ぶ。
終身雇用。
それはつまり、命が終わるその日まで、生涯を共にするということ。
リアナは、二つの名前が並んだ紙を見つめたまま、ぽつりと小さく言った。
「……ただの仕事の契約のはずなのに、心臓が、すごくうるさいです」
「仕事だけの契約じゃないからだ」
レオンハルトが、歩み寄りながらさらりと言った。
さらりと言ったのに、込められた破壊力が天文学的だ。
リアナの耳までが一気に真っ赤に染まる。
「だ、団長」
「レオンハルトだ」
「……レオンハルト様」
「様はいらない。他人行儀だ」
「では……レオンハルト」
「うん」
返事が、あまりにも軽くて、甘くて、ずるい。
冷血団長と呼ばれた男の見る影もない。
リアナは熱くなった顔を隠すように視線を逸らし、最後の事務的な確認をした。
「……では、雇用契約の更新に付随して、王都および教会への『婚姻の手続き』も、合わせて進めます」
「当然だ。最短で手配しろ」
当然が多い。
私のささやかな願いや、生きていくための条件を、すべて「当然だ」と受け入れてくれる存在がいる。
それが、リアナにとってはまだ、夢か奇跡のように感じられた。
◇◇◇
二人の結婚式は、決して派手なものではなかった。
王宮の貴族たちが好むような虚飾に満ちた夜会ではなく、辺境の駐屯地で、身内だけで簡素に、しかしこの上なく温かく、確かな祝福に包まれたものだった。
騎士たちはこの日のために、普段の泥と血に塗れた鎧を磨き上げ、あるいは着慣れない正装に身を包んで、朝から妙にそわそわしていた。
大男たちが小さなブーケの持ち方が分からずに震えているのを、兵站班長のガルムが怒鳴り散らしながら整列させている。
「おいバカ! 剣の柄みたいに力強く握るな! 花だぞ、花! 令嬢への祝いの花だ!」
「む、無理だ班長! 俺にとっちゃ、魔物の首よりこんな小さな花の方がよっぽど扱いの難易度が高くて怖え!」
「怖がるな! 卵を包むように優しく持て!」
リアナは控室でその微笑ましい怒声を聞きながら、鏡の前で思わず吹き出して笑った。
笑うと、胸の奥が温かくて、きゅっとなる。
王宮では、笑う余裕も、泣く権利もなかった。
でも今は、どれだけ大声で笑っても、誰にも怒られないし、理不尽な仕事も増えない。
増えないどころか。
コン、と扉がノックされ、レオンハルトが入ってきた。
いつもの漆黒の軍服ではなく、純白の意匠が施された最高級の礼装。硬い布地に身を包んだ彼は、王都のどの貴公子よりも気高く、“本物の貴族”に見える。
だが、その瞳の奥には、相変わらず鋭い戦場の光が宿っている。
ただし。
その光は、純白のドレスに身を包んだリアナを見た瞬間だけ、春の陽だまりのように劇的に温度を変えるのだ。
「…………似合う」
「あ、ありがとうございます」
まっすぐな賞賛の言葉に、反射的に「私なんかが」と謙遜と否定をしそうになる社畜の癖が出る。だが、リアナは今日こそ、それをグッと飲み込んだ。
「似合うと言われたら、素直に『ありがとうございます』と言う。……今日のために、一人で練習しました」
レオンハルトが一瞬だけ驚いたように目を見開いてから、喉の奥を低く鳴らして、本当に愛おしそうに笑った。
「……偉いな」
その、たった一言が。
なぜかリアナの涙腺を、物理的な衝撃のように強く殴った。
偉い。
よくやった。頑張ったな。
ただ、それだけの言葉。
王宮の終わらない夜の中で、どれだけ他人の仕事を肩代わりしても、どれだけ完璧な書類を作り上げても、絶対に誰一人として言ってくれなかった言葉。
リアナは、溢れそうになる涙を必死に瞬きして堪えた。せっかくの化粧が落ちてしまう。
「……泣きそうです。今日は、もう残業しません」
「当然だ。今日は、俺とお前の新たな契約の日だ」
レオンハルトは、まっすぐにその大きな手を差し出した。
「行くぞ、俺の副団長」
「……はい」
リアナは、その手を取った。
大きい手。
剣ダコだらけの、硬い手。
それなのに、繋いだその握り方は、壊れ物を包み込むように、不器用で、どうしようもなく優しかった。
◇◇◇
それから数週間後。
辺境のブラック騎士団は、王都からの正式な通達により、その名称と格付けを変えた。
――『王国軍辺境防衛騎士団・第一精鋭機動隊』。
書類には、誇り高いその名が記されていた。
理由は極めて明確だ。
死亡率が劇的に下がった。
部隊の戦闘力がかつてないほど跳ね上がった。
補給線が完璧に安定し、長年赤字だった予算が、大幅な黒字へと転換した。
彼らが「ブラック」だったのは、彼ら自身の資質や労働条件のせいではなく、単に“運用する頭脳”が腐っていただけだったのだ。
正しい文官が正しく運用を変えた瞬間、組織の色は、純白へと変わった。
そしてリアナは――
王都から正式な辞令を受け取り、新たな役職を得た。
『辺境防衛騎士団・副団長補佐 兼 兵站管理総責任者』。
名目と肩書きはやたらと硬いが、実態はもっと分かりやすい。
つまり、この最強の騎士団の胃袋と財布と命を裏で完全に支配して回す、「裏の団長」だ。
ただし、王宮時代とは決定的に違う点が三つある。
絶対の休日(週休二日)がある。
残業がない(月四十時間以内厳守)。
正当な給金(と、莫大なボーナス)がある。
そして何より。
この世の誰よりも強い男に、生涯を通して絶対に守られている。
◇◇◇
ある日の午後。
秋の気配が色濃くなってきた頃。
リアナは、時計の針が定刻を指した瞬間、手元のペンをピタリと置いた。
壁の大きな掲示板に書かれた「本日の業務予定」には、すべて完璧に『完了』の赤い札が付いている。
「よし。今日の業務は、すべて終わりです」
執務室の外から、重く規則正しい、いつもの足音が聞こえてきた。
ガチャリと扉が開き、レオンハルトが入ってくる。彼もまた、定時ぴったりだ。
組織のトップである団長が定時でさっさと帰宅するだけで、部下である騎士たちも無駄に残る理由がなくなり、勝手に定時退社が徹底される。権力の正しい使い方とは、まさにこういうものらしい。
「終わったか。帰るぞ」
「はい、お疲れ様でした」
リアナは立ち上がり、机の引き出しを丁寧に閉めた。
ガチャリ、と鍵をかける。
鍵をかけて、その日の仕事を完全に忘れて、家に帰れる。
その当たり前の事実が、どれほどの奇跡か。リアナは鍵を握りしめながら、まだ少しだけ夢見心地に思う。
駐屯地の一角に新設された、団長専用の広い宿舎――二人の新居の扉を開けると、すでにふわりと良い茶葉の香りが漂っていた。
レオンハルトが、執務棟から戻るや否や、部下に任せず自分で先に湯を沸かしていたらしい。
ティーカップに注ぐ貴族的な所作は相変わらず不器用で雑だが、茶葉を蒸らす湯の温度だけは、戦場の見切りのように妙に正確で完璧だ。
「……最近、すっかり淹れるのに慣れましたね」
「何にだ」
「この、甘やかされる天国のような生活に、です」
リアナが微笑みながら言うと、レオンハルトは向かいの席に座り、一拍置いてから真面目な顔で言った。
「慣れるな」
「え?」
「この環境に慣れると、それが『当然』になる。……当然のものだと思って胡坐をかいたら、いつか足をすくわれて守れなくなる」
リアナは少しだけ目を丸くし、それから、嬉しそうにくすくすと笑った。
「大丈夫です。私は、私の楽園を絶対に守ります。私が作った完璧な書類と、仕組みで」
「ああ。俺も守る。俺の力と、権限で」
夫婦の役割分担が、恐ろしいほど明確で頼もしい。
リアナは自分の前に置かれた紅茶に口をつけようとして、ふと、テーブルの中央に視線を止めた。
そこには、王都から取り寄せられた最高級の焼き菓子が、山のように積まれた皿がある。
リアナはジト目で夫を睨んだ。
「レオンハルト。……甘味の支給は、労使協定で『週二回まで』と決めたはずですが? 今週はすでに三回目です」
「……今日は金曜日だ。一週間の労をねぎらう特別な日だ」
「『特別』が増えると、決めたルールのタガが外れて、最終的に週二回の意味が崩壊します。労働環境の悪化はこういう小さな特別から――」
「崩さない。……来週の分から前借りして、ちゃんと帳尻を合わせる」
帳尻。
その事務官のような言葉の使い方が、完全にリアナの社畜思考に汚染されている。天下の冷血団長が聞いて呆れる言い訳だ。
リアナはやれやれと肩をすくめて諦め、美しい焼き菓子を一つ手に取った。
サクリと口に入れると、甘い。果実のジャムとバターの風味が、怖いほどに甘い。
でも今は、その脳が溶けそうな甘さが、少しも怖くない。
「……残業ゼロ」
「うん」
「休日あり。睡眠時間八時間」
「うん」
「危険手当、全額支給済み」
「うん」
リアナが一つ一つ確認するように呟くと、向かいに座る大男が、当然の権利を保証するように深く頷く。
リアナは紅茶の温かい湯気の向こうで、ようやく、心からの深い息を吐いた。
生きている。
毎日ちゃんと働いているのに、すり減らずに、生きている。
そして、安心できる場所で、愛する人と共に休めている。
リアナはティーカップを両手で持ち上げ、満面の笑みで静かに言った。
「……最高です」
レオンハルトは、少しだけ照れたように眉を寄せる。
そして、不器用な、けれどこの世で一番頼りになる顔で、力強く宣言した。
「これからも、一生最高にする」
その言い方が、まるで絶対遵守の軍務命令みたいで。
でも、彼の命令によって守られ、縛られるのは、もうちっとも嫌じゃない。
リアナは小さく笑い、窓の外の美しい夕暮れを見た。
防壁の向こう側、辺境の風は相変わらず冷たい。
けれど、この室内はどこまでも温かい。
机の上に、誰かに押し付けられた理不尽な書類の山はない。
ここにあるのは、明日やれば十分に間に合う仕事と。
今日という日を終えるための、甘いティータイムと。
誰にも奪われず、決して手放されなかった、自分だけの完璧な居場所だけだ。
リアナは、温かいカップの縁に唇をつけて、心の中で確信を持って呟いた。
ああ、ここは間違いなく、天国だ。
そしてこの天国は――私が生涯をかけて、守り抜く価値がある。
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