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第7話 崩壊する王宮と、愚か者たちのSOS

 王宮の朝は、本来であれば厳かで静かに始まる。


 小鳥が優雅にさえずり、磨き上げられた大理石の廊下に侍従たちの靴音が規則正しく響き、各部署の執務室には淹れたての湯気が立つ高級茶が運ばれる。


 ――本来であれば。


「ま、まだ終わっていないのか!? もう昼前だぞ!」

「無理です! 昨日の未処理分が今日の分に上乗せされて、さらに今朝の急ぎの案件が……!」


 王宮の中枢、筆頭文官室の前の廊下は、異様な光景に包まれていた。

 紙で、完全に埋め尽くされていたのだ。


 そびえ立つ紙の壁。

 無残に崩れ落ちた紙の雪崩。

 足の踏み場もない紙の海。


 書類箱が瞬く間に積み上がり、箱が足りなくなって麻袋に無造作に詰め込まれ、袋が足りなくなって床に直置きされ、ついに執務室という空間が限界を迎えて、廊下へと溢れ出たのだ。


 原因は、たった一つ。

 巨大で複雑な王宮という名の歯車の隙間に、自らの指を突っ込んで血まみれになりながら無理やり回していた“かなめ”がいなくなったからだ。


 伯爵令嬢リアナ・アルフェルト。


 彼女が身勝手な理由で辺境へ左遷されてから、王宮の事務機能はたった三日で露骨に鈍り、七日で完全に停止し、十日で悲鳴を上げた。

 そして今。

 筆頭文官室は、修復不可能なほど完全に崩壊していた。


◇◇◇


 謁見の間。

 豪奢な玉座に座る国王の前に立つ男――王宮文官長代理、ディートリヒ・ヴァルトは、額に浮かぶ冷や汗を必死に拭いながら、引きつった笑みを顔に貼り付けていた。


「ご、ご安心ください、陛下。各部署からの決裁書の進捗は、概ね順調で――」

「……順調、だと?」


 国王の声は、地を這うように低い。声が低いほど、その奥にある怒りは深い。

 王の背後には各省の重鎮や大臣たちが並んでいたが、皆一様に死人のような青い顔をしている。彼らの机の上もまた、何一つ“順調”ではない。なぜなら、彼らの机の上にあるべき決裁済みの重要書類が、すべて筆頭文官室の前の廊下で「紙の海」の一部になっているからだ。


「ならば聞くが、先日の御前会議で提出された『新税制の改善案』はどうなった。あの後の具体的な施行スケジュールの書類が、三日経っても上がってこないが」

「は、はい! そちらの資料につきましては、ただいまこちらに――」


 ディートリヒはわざとらしく胸を張り、慌てて手元の鞄から用意していた資料の束を取り出して差し出した。


 それは、かつてリアナが徹夜で命を削ってまとめたものと、よく似た形式の書類だった。

 いや、似ているのではない。一言一句、数字の一つに至るまで内容が全く同じだった。

 ただ一つ違うのは、表紙に「作成責任者:ディートリヒ・ヴァルト」と、彼自身の名前が堂々と書かれていることだけだ。


 王は差し出された紙をめくり、鋭い眼光で文字を追いながら、淡々と問うた。


「……なるほど。では、この第三ページの算定根拠は?」

「……こ、根拠、ですか」

「そうだ。第二項の隣国との関税の税率調整で、なぜこのような複雑な数値の算出になる。どのような計算式を用いた」


 ディートリヒの喉が、ヒュッと情けない音を鳴らした。


「そ、それは……当然、国内の流通全体と他国との貿易のバランスを総合的に見て、その……」

「見たのは誰だ」

「わ、私が、です! 私が全責任を持って――」

「ならば、その『総合的なバランス』とやらを構成する内訳の数字を、今ここで私と大臣たちに説明しろ」


 重い沈黙が、謁見の間に落ちた。


 ディートリヒは、口をパクパクとさせるだけで、一言も説明できなかった。

 なぜなら、彼は自分の名前で提出したその書類を“一行も読んでいない”からだ。


 彼がこれまでやってきたのは、完成した書類の表紙に自分の名前を書き、「俺が出してやる」と偉そうに上に提出する形だけの作業。

 中身の緻密な計算も、過去の判例との照合も、反対派を黙らせるためのQ&Aも、すべて深夜の執務室でリアナが一人で作っていたのだ。


 それが彼にとってはあまりにも当たり前の日常になりすぎて、彼は「書類の中身を読んで理解する努力」すら、とうの昔に捨ててしまっていた。


 国王の目が、絶対零度に冷え切った。


「……お前は、自分が提出したこの紙束が何なのか、何一つ分かっていないようだな」

「い、いえ! 決してそのようなことは――!」

「黙れ」


 王の言葉は短い。短いほど、そこに一切の言い訳(逃げ道)は存在しない。


「では、もう一つ聞く。現在、王宮全体の首を絞めている筆頭文官室の業務遅滞は、一体誰の責任だ」


 ディートリヒは、焦燥のあまり反射的に、今まで通り最も使い勝手の良い「盾」の名前を口に出してしまった。


「……左遷された、リアナ・アルフェルトです! 彼女が極めて要領が悪く、これまでも業務を故意に滞らせていたのです! 彼女が残した負の遺産が大きすぎて、優秀な私が懸命に処理しても――」


「――それは、事実と大きく異なります」


 ディートリヒの言葉を冷酷に遮ったのは、王の脇に控えていた財務監査官だった。

 灰色の外套を着た初老の男が、分厚い帳簿をバサリと開く。紙の端は何度もめくられて擦り切れているが、そこに記された文字と数字の列は、芸術的なまでに美しく整っていた。紛れもない、リアナの几帳面な筆跡だ。


「リアナ・アルフェルト殿が実質的な実務を担当していた過去二年間、王宮の重要書類における提出期限の遅延は『ゼロ』です。各部署からの差し戻し件数も、過去十年で最小。さらには、彼女の緻密な計算により、不要な予算の削減による余剰金まで毎年確認されています。……彼女がいなくなった途端、遅延と計算ミスが爆発的に増加し、現在に至るのです」


 大臣たちが、青ざめた顔を見合わせる。

 “無能”と言われて辺境へ追放された令嬢がいなくなったら、王宮のすべての仕事が止まった。

 その時点で、事実関係の証明は終わっていた。


 王の射殺すような視線が、ディートリヒの全身を串刺しにする。


「……では、お前が言う“無能”とは、一体誰のことだ?」

「そ、それは……っ!」


 ディートリヒの頭の中が、恐怖で完全に真っ白になった。

 ここで踏ん張らなければならない。何か、もっともらしい言い訳を構築して言い返さなければ。何とかして、すべてをリアナのせいにしなければ。


 だが――できない。

 自分の頭の中に散らばる浅はかな言い訳を、論理的で完璧な「答弁書」へと美しく整えてくれる便利な人間リアナは、もうここにはいないのだ。


◇◇◇


 絶望的な追い打ちは、同じ日の午後にやってきた。


 兵站局の長官が、血相を変えて文官室に飛び込んできたのだ。


「ヴァルト代理! 王都の食糧備蓄の計算が合いません! 補給の発注が滞り、このままでは来週にも地方都市への配給が完全にストップします!」

「なっ……! そ、その手配の停止の責任部署はどこだ! 早くそいつを――」

「ここ(筆頭文官室)です!! あなたの最終承認印が――承認印が三日前から一つも回ってきません!!」


 承認印。

 ただ紙に判子を押すだけなら、猿にでもできる。

 だが、膨大な書類の中から「どの順番で押すべきか」「どの案件は予算的に押してはいけないか」「押す前にどの部署に根回しして穴を潰しておくべきか」、そして「押した後の進捗をどうフォローするか」――。


 それらの見えない膨大な実務を、すべてリアナ・アルフェルトが一人でこなしていた。

 王宮という巨大な組織は、無自覚なまま、リアナという“最強のインフラ”に完全に寄りかかって生きていたのだ。


 上下水道が止まり、橋が落ちれば、都市の機能は死ぬ。

 インフラが消えた王宮は今、緩やかに、しかし確実に死に向かっていた。


◇◇◇


 夜。

 ディートリヒは、誰もいなくなった――正確には、書類の山から逃げ出した部下たちしかいない――薄暗い執務室で、一人頭を抱えていた。


 王から下された最後の言葉が、呪いのように耳にこびりついている。


『立て直せ。期日は十日だ。できなければ……分かっているな』


 その時、王の背後にいた監査官が開いた別の帳簿を思い出し、ディートリヒは全身の毛穴から冷や汗を噴き出した。

 そこに並んでいた数字は、恐ろしいほど綺麗に整っていた。整いすぎているのだ。

 ――不正の匂いが、プンプンとするほどに。


 ディートリヒはようやく、決定的な事実に気づいてしまった。


 リアナがいなくなったということは、ただ仕事が滞るだけではない。

 これまで自分が私腹を肥やすために誤魔化してきた帳簿の“見事な辻褄合わせ(隠蔽工作)”をしてくれる人間が、いなくなったということだ。


 自分が裏でやってきた横領。

 ミスを他部署に押し付けてきた記録。

 それらの見えなかった歪みが、彼女の補正を失ったことで、監査の場で一気にすべて表に露呈し始めているのだ。


「……っ、ふざけるな、ふざけるな……!!」


 ディートリヒは、息ができないほどの恐怖に駆られた。

 このままでは、地位を失うどころか、横領罪で間違いなく投獄される。最悪の場合は死罪だ。


 だから、彼はパニックの中で、最も短絡的で愚かな結論に飛びついた。


 リアナを取り戻す。


 あの大人しくて要領の悪い女さえ戻ってくれば、この机の上の書類は一晩で片付く。監査官に目をつけられた帳簿の穴も、彼女なら完璧に塞いでくれる。王の機嫌も――彼女にすべての責任を被せて上手く立ち回れば、何とかなる。


 辺境の過酷な環境で、リアナがどうなっているかなど、彼の知ったことではない。死にかけていようが、這いつくばってでも連れ戻す。

 自分にとって必要なのは、彼女の感情ではなく、ただペンを動かす都合のいい『手』だけなのだ。


◇◇◇


 ディートリヒは、雪崩を起こしている机の上の書類を乱暴に床に払い落とし、便箋を引き寄せて猛烈な勢いで手紙を書き殴った。


 令嬢に対する思いやりや、過去の仕打ちに対する謝罪の言葉など、当然一切ない。

 『直ちに王宮へ帰還し、本来の業務に復帰せよ』という、一方的で傲慢な命令文だ。

 彼の中で、リアナは永遠に自分に逆らえない“従順な部品”として認識が固定されている。


 本来、辺境騎士団の所属となった人間を呼び戻すには、王の署名か軍務局の正式な手続きが必要だ。だが、そんな悠長な手続きを踏んでいる時間はない。ディートリヒは残された権限を乱用し、半ば強引に王宮文官長室の封蝋を押した。


 そして、王都でも一、二を争う俊馬と屈強な使者を雇い上げた。


 行き先は、最果ての辺境。

 死の匂いしかしない、“辺境のブラック騎士団”だ。


 あの女を、力づくでも連れ戻せ。

 これは、王宮の――いや、俺の絶対の命令だ。


◇◇◇


 それから数日後。


 辺境防衛騎士団の巨大な防壁の前に、王都の紋章を掲げた豪奢な馬車が到着した。

 中から降り立ったのは、ディートリヒ・ヴァルト本人だった。


 もはや使者に任せて結果を待つ余裕など、彼には一秒も残されていなかった。監査の期日と、王宮の書類の雪崩は、文字通り彼の喉元にまで迫り、息の根を止めようとしている。


 土煙を上げる馬車から降りたディートリヒは、ハンカチで口元を覆いながら、嫌悪感に満ちた目で巨大な門を見上げた。


「……こんな泥と獣の臭いしかしない底辺の場所で、あの女は泣き喚いているはずだ。俺が迎えに来たと言えば、喜んで足元にすがりついてくるだろう」


 門の前で彼が声を上げると、重い鉄格子がギシギシと音を立てて開いた。

 内側には、歴戦の凄みを漂わせる黒鎧の大男たち(騎士)がずらりと並んでいる。


 そして、その屈強な男たちの列の中央に――

 彼女は、いた。


 リアナ・アルフェルト。


 その姿を見た瞬間、ディートリヒは自分の目を疑った。

 王宮にいた頃の、目の下に濃い隈を作り、幽霊のように青白い顔でフラフラと歩いていた彼女ではない。

 頬には健康的な血色が戻り、瞳には明確な光と意志が宿っている。何より、常に彼のご機嫌を伺うように丸まっていた背筋が、ピンと美しく伸びて“折れていない”。


 それが、ディートリヒには理不尽なほど腹立たしかった。


 壊れていないだと?

 俺がこの地獄の底へ突き落としてやったのに?

 俺がいなくても、平気な顔をして生きているだと?


 ディートリヒは己の苛立ちを隠すように、門の前に進み出て、赤い封蝋の押された封書を高く掲げた。そして、王宮で彼女を支配していた時の、あの“上から目線の声”を意図的に張り上げた。


「伯爵令嬢リアナ・アルフェルト! 王宮より、直々の命令である!」


 門の内側の騎士たちが、ピリッと険しい空気を放ち、ざわつく。

 リアナは逃げることなく、静かに一歩前へ出た。

 その動きが、王宮時代のような怯えではなく、あまりにも堂々として静かすぎたため、逆にディートリヒの目を引いた。


 ディートリヒは、内心でほくそ笑んだ。

 勝った。ほら見ろ、俺の前に出た。結局こいつは、俺の声を聞けば反射的に従うように躾けられているのだ。


 だから、彼は勝ち誇った顔で、最高の決め台詞を叩きつけた。


「戻ってこい、リアナ! 色々と手違いがあったが許してやる! お前がいないと、王宮は……俺はダメなんだ!」


 その身勝手極まりない言葉を聞いた瞬間。

 リアナの表情が、信じられないものを見るように一瞬だけピタリと止まった。


 ディートリヒは、その“止まり”を、かつてのように自分に対する恐怖と畏れによるものだと勘違いした。


 だが、次の瞬間だった。


 リアナの真横に、巨大な黒い影が音もなく落ちた。


 山のように大きく。

 氷のように冷たく。

 濃密な血と死の匂いを纏った、圧倒的な暴力の影。


 冷血団長、レオンハルトが、リアナを背に庇うように門のど真ん中に立っていた。

 漆黒の外套が辺境の風にバサリと揺れ、猛禽類のような金の瞳が、ディートリヒの急所を狙うように射抜く。


「……命令、だと?」


 レオンハルトの声は、地鳴りのように低かった。

 低いほど、相手に一切の反論(逃げ道)を許さない。


「誰が、俺の領地で、俺の女(部下)に命令している」


 その途方もない威圧感に当てられ、ディートリヒの喉がヒュッと情けない音を立てて痙攣した。


 辺境の空気は、王都の甘い空気とは全く違う。

 ここでは、言葉がそのまま物理的な鎧の重さになる。

 そして――相手の命を刈り取る、剥き出しの剣にもなるのだ。


 ディートリヒは、その本質的な恐怖を脳が理解する前に、王宮の肩書きという薄っぺらいプライドで口を開いてしまった。


「な、無礼な! 彼女は王命によって左遷された身だぞ! 王宮文官長代理である私が必要と判断した以上、王都へ戻るのが当然の義務――」

「必要?」


 レオンハルトが、ゆっくりと、地を踏み砕くような重さで一歩踏み出す。

 それに呼応するように、門の内側にいた歴戦の騎士たちが、一言も発することなく、チャキリ……と一斉に槍と剣を構えた。


 その圧倒的な『死(殺意)』の気配に、ディートリヒの背筋を氷水のような冷や汗が滝となって流れ落ちた。


 リアナは、レオンハルトの広く頼もしい背中の後ろで、静かに、そして深く息を吸い込んだ。


 王宮という名の終わらない地獄が、今、目の前にわざわざ迎えに来ている。

 けれど今の彼女の背後には――絶対に失いたくない、完璧な楽園(週休二日制)がある。

 守るべき騎士たちの命がある。

 そして何より、自分の前に立って、すべてから守ってくれる不器用で強大な人間がいる。


 リアナは、ディートリヒの掲げた封書を見るのではなく、彼自身の醜く歪んだ顔を真っ直ぐに見据えて、毅然と言い放った。


「……お話だけは、伺いましょう。ただし」


 リアナがその先を言う前に、レオンハルトの地を這うような声がピタリと重なった。


「ただし、ではない」


 絶対零度の、冷酷な断言。


「俺は最初から、貴様の言葉を聞く気など一切ない。帰れ」


 門前の空気が、抜身の刃の切っ先のように張り詰めた。


 王宮からの身勝手なSOSは、ここ辺境の地で初めて――

 自分たちが“絶対に手を出してはいけない相手(逆鱗)”に触れてしまったことに、遅すぎる後悔と共に気づこうとしていた。


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