第6話 最強のホワイト騎士団、誕生
巨大な防壁の門の外に立つ男は、むせ返るような王宮の匂いをまとっていた。
仕立ての良い豪奢な外套。これ見よがしに掲げられた赤い封蝋の封書。丁寧に磨き上げられた革靴のつま先は、「辺境の汚い泥など踏む気がない」と全身で主張している。
「――お久しぶりですね、伯爵令嬢リアナ・アルフェルト殿。あなたに、極めて重要なお話が――」
「ここは俺の管轄だ」
男のねっとりとした言葉を、レオンハルトの地を這うような低い声が真っ二つに切り裂いた。門の上の空気が、物理的に凍りついたかのように重くなる。
男は一瞬だけ言葉を詰まらせたが、すぐに口角を上げて笑みを繕った。王宮の人間が自己保身のために使う、薄っぺらい“笑みの盾”だ。
「お初にお目にかかります、レオンハルト団長殿。私は王命に関わる――」
「王命があるなら、正式な文書で寄越せ。貴様のような使い走りと直接面会する義務も、必要もない」
冷酷に切り捨てられ、男の視線が忌々しげにレオンハルトの肩越しへ滑り、リアナを捉えた。
その瞬間、リアナの胃がきゅっと不快に縮み上がる。
あの目だ。
書類の向こうから人を「使える道具か否か」で値踏みする、王宮特有の腐った目。
「これは王宮筆頭文官室の決定事項であり、アルフェルト令嬢本人に直接伝達する必要がございます。彼女の今後の身柄に関わる――」
男が一歩踏み出し、リアナが反論のために息を吸い込んだ、その時だった。
カンッ! カンッ! カンッ!
駐屯地の最も高い監視塔から、甲高い鐘の音が連続して打ち鳴らされた。
警報だ。
それも、ただの襲撃ではない。最高レベルの危機を知らせる乱打。
一瞬にして、辺境の空気が「日常」から「血みどろの戦場」へと切り替わった。
「団長! 北の監視塔から赤の信号弾! 魔物の大群が接近しています!」
「規模と距離は!」
「……デカいです! 観測史上、最大規模の群れ! ここまでおよそ十五分!」
使者の男の薄ら笑いが、そこで初めて完全にひび割れた。
門の内側では、騎士たちが怒号を上げながら動き始めている。重い鎧がぶつかり合う音、武器庫へ走る足音。巨大な訓練場が、一瞬にして完璧な殺意を持った出撃準備の場へと変貌した。
レオンハルトは門の外で腰を抜かしかけている男を見下ろし、氷のように冷たく言い捨てた。
「見たか。これが辺境の日常だ。――貴様のくだらない用件は後だ」
「し、しかし私は王命を――」
「帰れ。魔物に喰われて死にたいなら、そこで勝手に待っていろ」
“死”という現実の単語を突きつけられ、男は悲鳴を飲み込みながら反射的に馬車へ後ずさった。安全圏でしか生きられない人間は、本物の死の匂いを嗅ぐと逃げ足だけは異常に早い。
轟音を立てて、頑丈な正門が閉ざされる。
閉じた瞬間、レオンハルトが振り返り、リアナを見た。
「リアナ。執務棟へ戻り、後方の指揮を執れ」
「……はい」
リアナの喉がひどく渇く。
戦場が、来る。
怖い。手足が震えるほど怖い。だが、理由もなく人が潰されていく王宮の夜よりは――まだ、圧倒的に筋が通っている。
やるべきことは、ただ一つ。
守る。
私が作り上げた、この快適な楽園(週休二日)を。
◇◇◇
執務棟に駆け込んだリアナは、巨大な掲示板の前に真っ白な模造紙を叩きつけるように貼り出した。
手にした太い炭のペンで、迷いなく文字を書き殴る。
――『本日:大規模襲撃対応 ローテ表/補給線/治癒班配置』。
周囲に、各部隊の副団長格、兵站班長のガルム、治癒師長、そして伝令役の若手たちが集まってくる。かつては非常時に怒鳴り合い、互いに噛み合わなかった面々が、今はリアナの筆先に全幅の信頼を寄せて一転に集中している。
リアナは振り返り、一切の躊躇なく指示を飛ばした。
「前線の戦闘部隊は、完全に三班交代制とします! 第一班が出撃、第二班は正門内待機、第三班は完全休養。休養班は鎧を脱いで寝て、食べて、水を飲んでください。これは絶対の命令です」
「待て令嬢! この規模の群れ相手に、三分の一の兵力を休ませる暇が――」
「あります。無理やりにでも作ります。作らずに全員で特攻すれば、途中で全員が疲労で壊れて全滅します」
鋭く言い切ると、反論しようとした騎士は口をつぐんだ。
彼らはすでに、先日の小競り合いで「十分に休養した方が、結果的に部隊の生存率と殲滅力が跳ね上がる」という絶対の真理を、身をもって知ってしまったからだ。
ガルムが一歩前へ出る。
「兵站の指示をくれ、令嬢」
「通常の出庫票で出します。第一波の必要量はここに記載しました。矢弾、修繕材、応急処置キット、夜戦用の松明と油。補給袋は班ごとに規格化済みです。不足が出たら現場の判断を待たず、今ここで私に言ってください」
治癒師長が顔を上げる。
「この規模だと、現在の治療所はすぐに満床になる! 寝台を増やすなら――」
「第ニ倉庫の横の空き室を野戦病院として解放します! ガルムさん、毛布を五十枚そちらへ移動。お湯を沸かす人員は待機中の第二班から四名捻出。水汲みの動線は兵站班が確保してください」
伝令役の若手が、顔面を蒼白にして駆け込んでくる。
「令嬢! 北の森だけでなく、西の森からも魔物の反応が! 群れが二つに分かれて包囲してくる可能性があります!」
「想定内です。補給線を二系統に分割します。正門前と、西の小門の裏に仮設の補給拠点を設置。ガルムさん、物資の箱に夜でも見える蛍光塗料の札を貼ってください。極限状態の戦場で迷ったら、彼らは死にます」
「……お前さん、相変わらず言い方が怖いぜ」
「事実、死ぬからです」
リアナの声は恐ろしいほど淡々としていた。淡々と処理しなければ、自分の中の恐怖に呑み込まれてしまうからだ。
そして最後に、完全武装を終えたレオンハルトを見上げる。
「団長。出撃班の交代の合図は、鐘ではなく『赤い旗』と『青い旗』の視覚情報で行います。この規模の魔物の咆哮の中では、鐘の音はかき消されて混乱を招きます」
「……分かった」
即答だった。
レオンハルトは身の丈ほどある大剣を背負い、漆黒の外套を翻す。完全に、血と死を司る戦場の顔になっている。
部屋を出て行く直前、彼だけがリアナのそばに立ち止まり、周囲には聞こえないほど低い声を落とした。
「リアナ。お前は絶対に、防壁の前に出るな」
「私は、補給線と帳簿の数字を最前線に出します」
「……それでいい」
ほんの僅かに、その声の冷たい角が取れた。
その瞬間、リアナの胸の奥がじんわりと熱くなる。
守る。私がこの居場所を守るだけじゃない。
この人もまた、私を全力で守ろうとしてくれているのだ。
◇◇◇
防壁の上から見下ろす魔物の群れは、文字通り「黒い波」だった。
地平線を埋め尽くすほどのうごめく影。木々がへし折れ、大地が震える。発せられる鳴き声は獣のそれではなく、耳の奥の三半規管を直接削り取ってくるような不快なノイズの塊だ。
しかし、門の前に並ぶ黒鎧の騎士たちに、絶望の気配はない。彼らは恐怖を知らないわけではない。恐怖を知り尽くしているからこそ、自分が為すべきことを理解して動けるのだ。
「第一班、門を開け! 出るぞ!」
レオンハルトの雷鳴のような号令。
重い門が開き、騎士たちが一塊の刃となって波の中へ突撃する。矢の雨が降り注ぎ、槍が正確に急所を貫く。魔物が次々と地に伏す。だが、数が異常だった。倒しても倒しても、黒い波は押し寄せてくる。
一方、執務棟の中で、リアナは巨大な卓上地図と帳簿を広げ、全軍の『盤面』を支配していた。
出撃からの経過時間、各班の帰還予定時刻、負傷者の発生率、矢弾の消費速度、治癒薬の在庫減少グラフ。
無数の数字が、彼女の脳内で刻々と処理され、最適解へと変換されていく。
泥だらけの伝令が駆け込んでくる。
「第一班、西側部隊の矢の消耗が想定の倍です!」
「西の補給点へ予備の矢を三十束回してください! 出庫票の記入は省略、私が後で数字を合わせます。今は彼らの命と火力を優先して!」
別の伝令が叫ぶ。
「正門側、魔物の圧が強まっています! 第一班の陣形が押され気味です!」
「待機中の第二班の半数を遊撃として正門へ。残りはそのまま待機。第三班は絶対に起こさないで。まだ出さない」
「ま、まだ出さないんですか!? 正門が突破されたら終わりですよ!」
「はい。最後に最も必要になるからです。消耗戦は、最後に『無傷で立っている班』を持っている側が必ず勝ちます」
冷酷なまでに強い言葉だったが、そこには絶対の根拠がある。
王宮では、消耗戦になればただ人をすり潰し、気力だけで回して自滅していた。
ここでは、人を守り、休ませてから回す。
治癒師長が血まみれのエプロンで顔を出す。
「負傷者が増えてきた! 治療所の手が足りん!」
「軽傷者と中傷者を入り口で完全に分けてください! 軽傷者は応急処置班に任せ、治癒師の魔力は中傷者に集中。お湯の供給、追いついていますか!」
「足りてる! ガルムの奴らが意地でも切らさねえ!」
リアナは小さく頷き、保温ポットの紅茶を一口だけ飲んだ。
喉が熱い。手は小刻みに震えている。
怖い。だが、計算すべき数字と明確な仕事があれば、恐怖は単なる「対処すべきタスク」へと輪郭を変える。
輪郭を持てば、私は決して負けない。
◇◇◇
日が落ち、夜闇が迫る頃、前線で粘っていた第一班の体力が限界に近づいた。
帰還した騎士たちは泥と魔物の返り血に塗れ、息は絶え絶えだ。だが、誰一人として致命傷を負って倒れてはいない。倒れないまま、確実に次へと繋いだ。
「第一班、後退! 赤の旗! 第二班、前へ出ろ!!」
防壁の上で旗が振られる。
交代は、芸術的なまでに滑らかだった。前線が崩れる隙を与えず、無傷の第二班が壁となって魔物を押し返す。迷いがない。武具が足りなくて出撃が遅れることもない。すべてはリアナの規格化された補給線の上で回っている。
ガルムがすすだらけの顔で走り込んでくる。
「令嬢! 矢の効きが悪い甲殻持ちの個体が増えてきた! 物理攻撃が通りにくい!」
「槍と炎による攻撃に切り替えさせます。松明と油の樽、すぐに追加で出せますか!」
「出せる! 出せるぞ令嬢! 棚が……棚が俺に『ここにあるぞ』って喋りかけてきやがる!」
極限状態の興奮で、ガルムの叫びは半分泣き声になっていた。
リアナはそれを聞いて、張り詰めた空気の中で不謹慎にも笑いそうになるのを必死で堪えた。
笑っている場合ではない。
だが、確かな希望がある。
私が残業(※月四十時間以内)して整えたただの「書類の仕組み」が、今、最前線で何十人もの騎士の命を確実に救い、戦局を覆しているのだ。
◇◇◇
完全な夜。
空が暗くなるほど、魔物たちの赤い目が不気味に光って見えた。
奮闘していた第二班も激しく消耗していく。仮設の治療所も満床に近い。応急処置班が怒号を上げながら血止めの布を巻いている。白煙が立ち上り、濃密な血の匂いが執務棟まで漂ってくる。
リアナは、卓上の盤面を冷徹に見つめた。
各班の体力、残弾数、治癒師の魔力。すべての数字が、限界という名の崖の端に寄りつつある。
ここで陣形が崩れたら、防壁は破られ、すべてが終わる。
その時、監視塔の伝令が裏返った声で叫んだ。
「群れの動きが止まりました! 後方から、異常に巨大な反応……! ボス個体、出ました!!」
リアナは即断した。
「団長に伝達。ボスの首を落とせば、群れは統制を失って散ります。第三班、起床! 十分間で食事と水分を摂らせ、完全武装で出撃準備!」
傍らにいた若手の騎士が驚愕する。
「第三班を、今、この大群の真正面から出すんですか!?」
「今が最後の勝負所です。十分な睡眠を取らせて休ませた分だけ、彼らは誰よりも強い!」
十分後。
防壁の門が再び開かれ、第三班が出撃した。
彼らの顔色は、死闘を繰り広げている者たちとは全く違っていた。瞳には十分な睡眠による澄んだ光が宿り、温かいスープと塩分で満たされた肉体は、爆発的なエネルギーを秘めている。
そして、その無傷の第三班の先頭には、大剣を構えたレオンハルトが立っていた。
漆黒の外套が、夜の闇を鋭く裂く。
現れたボス個体は、形容しがたい巨体だった。獣の骨と腐肉が歪に絡み合い、無数の口から不快な咆哮を轟かせている。
空気が震え、騎士たちの足が竦みかけた、その瞬間。
レオンハルトが、単騎で弾丸のように突っ込んだ。
速い。重い。一切の迷いがない。
休養十分の第三班が完璧なタイミングで援護に回り、炎の魔法が視界を奪い、槍がボスの足止めをする。
その隙を突き、レオンハルトの大剣が、ボスの巨大な首を根元から一刀両断に斬り飛ばした。
どずん、と地響きを立てて巨体が崩れ落ちる。
倒れた瞬間、群れの動きがピタリと止まり、そして劇的に乱れた。
統制を失った魔物たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ惑い、暗い森の奥へと消えていく。
最後の魔物の気配が消え去った時、駐屯地の鐘が、今度は長く、ゆったりと鳴り響いた。
勝利の合図。
執務室でペンを握りしめていたリアナの膝から、ふっと力が抜け、その場にへたり込んだ。
終わった。
私たちは、生き残ったのだ。
◇◇◇
戦いの後始末は、ある意味で戦闘そのものより過酷だった。
負傷者の名簿作成、特別手当の計算、激減した物資の再申請、破損した防壁や装備の修繕手配。
そして、何より重要な「遺体の確認」と死亡記録の作成。
しかし、集計を終えたリアナは、その数字を見て自らの目を疑った。
重傷者、数名。
死亡者――ゼロ。
これほどの歴史的大規模襲撃を受けて、致命傷を負った者が一人もいない。
それは、リアナだけでなく、血まみれで帰還した騎士たちにとっても信じられない奇跡だった。
「死者ゼロ……?」
「嘘だろ。あの群れを相手にして、俺たち、誰も死んでないのか……」
「今まで、こんなことは一度だってなかった」
仮設治療所で手を洗っていた治癒師長が、疲れ切った顔で、しかし誇らしげに笑った。
「適切なタイミングで『休ませた』からよ。誰も、死ぬほどの無茶をせずに済んだのさ」
兵站倉庫の前で、ガルムが愛おしそうに整理された棚の札を撫でながら呟く。
「補給が、最後まで一度も切れなかった。……こんな戦い方、俺は三十年やってきて初めてだ」
騎士たちの熱を帯びた視線が、自然と執務棟の窓際に座るリアナへと集まった。
感謝。尊敬。そして、女神に対するような畏怖。
その数多の視線が重すぎて、リアナは少しだけ居心地悪そうに目を逸らした。
私は、ただ自分の快適な休日と睡眠時間を死守したかっただけだ。決して聖女のような崇高な目的があったわけではない。
けれど結果として、彼らの命も守ってしまったらしい。
レオンハルトが執務棟に戻ってきたのは、空が白み始めた夜明け前だった。
漆黒の外套はボロボロに裂け、甲冑には無数の傷が刻まれ、むせ返るような魔物の血の匂いがこびりついている。
それでも、彼の真っ直ぐな歩き方は微塵も揺れていなかった。
リアナは立ち上がり、いつも通り完璧な角度で礼をした。
「お帰りなさいませ、団長。最終的な被害報告と、王都への至急の補給再申請案が完成しております」
「……お前は」
レオンハルトの声が、いつにも増して低い。
「徹夜したのか。まだ起きているのか」
「緊急事態の例外規定による業務です。……ですが、この後の代休と合わせれば、月四十時間の残業枠の範囲内にきっちり収めてみせます」
王宮で染み付いた「怒られないための言い訳(生存戦略)」が、口をついて出た。
レオンハルトは眉をピクリと動かし、机の上に完璧に整頓された紙の山を見る。
そして、リアナの目の下にうっすらと浮かんだ疲労の影を見た。
彼の金の瞳が、スッと冷える。
それはリアナに対する怒りではない。彼女の身を案じるあまりの、怖いほどに純粋な「保護欲」の冷たさだった。
「休め」
「ですが、まだ王都への報告書が――」
「休めと言っている」
二度目は、反論を許さない絶対の命令だった。
リアナの喉が詰まる。
「……はい」
そう答えるしかなかった。
降参するように頷いた瞬間、足から急激に力が抜けそうになった。極限の緊張の糸が、彼の声によって断ち切られたのだ。恐怖も、重すぎる責任も、すべて。
よろめいたリアナに、レオンハルトが一歩近づく。
大きく分厚い手が、彼女の華奢な肩にそっと触れた。
その触れ方は、壊れ物を扱うように不器用で、力加減が分からないみたいに硬い。けれど、鎧越しではない確かな体温があった。
「……お前の作戦と仕組みのおかげで、死者が一人も出なかった」
「いえ。現場で戦い抜いた皆さんが、信じられないほど強いからです」
「強いのは辺境の前提だ」
レオンハルトの声が、少しだけ感情に揺れた。
「どんなに強い者でも、酷使されれば壊れる。……俺たちが壊れない仕組みを作り、生かして帰したのは、間違いなくお前だ」
嘘のない真っ直ぐな言葉が、リアナの胸の奥に深く刺さる。
リアナは小さく息を吸い込んだ。
他人に褒められるのが、ずっと苦手だった。王宮では、褒められるということは「お前ならこれもできるだろう」と次の理不尽な仕事を押し付けられる合図だったからだ。
でも、ここでは全く違う。
彼の褒め言葉は、仕事を増やすためではなく、ただ純粋にリアナの存在を肯定し、守るために落ちてくる。
それが、怖いほどに嬉しかった。
レオンハルトはリアナの肩からゆっくりと手を離し、懐から一枚の真新しい紙を取り出した。
王宮の豪奢な封蝋などない、ただのざらついた紙。だが、そこに書かれた字は定規で引いたように綺麗で、騎士団の荒くれ者たちが書いたものとは思えない。
――それは、リアナが作った「業務マニュアル」と同じ形式だった。
「それは……?」
「お前の書式を真似て作らせた。代筆はガルムに頼んだ。俺は剣しか握ってこなかったから、字が下手だ」
天下の冷血団長の、妙に真面目で可愛らしい言い訳に、リアナは一瞬だけ毒気を抜かれて肩の力が抜けた。
レオンハルトはその紙をリアナの机に丁寧に置き、真っ直ぐに彼女の目を見て言った。
「提案がある」
「提案……?」
リアナが視線を落とすと、紙の表題には、極太の文字でこう書かれていた。
――『終身雇用契約(案)』。
リアナの目が、文字通り点になる。
「……だ、団長。これは、一体」
「お前を、絶対に手放したくない」
執務室の空気が、完全に止まった。
レオンハルトは視線を一切逸らさない。魔物の大群のど真ん中に突っ込む男は、こういう時も決して退かないらしい。
「昨日の使者のように、王都の連中はまた必ず来る。お前の有能さに気づき、無理やりにでも連れ戻そうとするだろう。あるいは、嫌がらせで別の死地へ飛ばすかだ。……それを絶対に許さないための、法的な手段が必要だ」
「手段、とは」
「俺が直接雇う。一時的な出向ではなく、終身で。この辺境騎士団の、そして俺の――」
そこで、冷血と呼ばれた男の言葉が詰まった。
不器用すぎる男が、人生で初めて“感情”の言葉を探して迷っている。
リアナは無意識に息を止めた。
レオンハルトが、意を決したように低く、はっきりと告げる。
「……俺の、生涯の側にいろ」
その言葉は、もはや上官からの命令ではない。
一人の男からの、切実なお願いに近かった。
リアナの胸の奥が、火傷しそうなほど熱い。
熱すぎて、自分がどうにかなってしまいそうで怖い。
だから、リアナは極限状態の社畜が発動する防衛本能で、反射的に――自分を守るための、最も合理的な言葉を選んだ。
「……条件が、あります」
レオンハルトの眉が僅かに動く。
「言え。すべて呑む」
「残業は月四十時間まで。完全週休二日制。危険手当の明文化。休憩時間の厳守。あと、私の休日に突然の思いつきで業務命令を出すのは禁止です」
「……当然だ。俺が必ず守らせる」
「それと、現在の最高級寝具の品質維持と、定期的なメンテナンス」
「一生維持する」
「王都からの高級な甘味の支給は……少し過剰ですが」
「お前の脳の回転に必要だ」
「本当に必要なのですか?」
「俺の精神安定のために必要だ」
即答。しかも理由が重い。
リアナは喉の奥が熱くなり、視界がじんわりと滲むのを感じながら、最後の、そして最も我が儘な条件を口にした。
「……私が無理をして倒れそうになったら、また今日みたいに厳しく叱ってください。……でも、要領が悪いと、捨てないでください」
重い沈黙が落ちる。
レオンハルトの金の瞳が、一瞬だけ痛みを堪えるように大きく揺れた。
そして、彼は机に置かれた契約書の端を分厚い指で押さえ、誓いのように低く言った。
「絶対に、捨てない」
短い言葉だった。
短いからこそ、そこに一切の嘘や建前がないことが分かる。
リアナは、自分の心臓がこれまで聞いたことのないような大きな音を立てるのを感じた。
ずっと、自分の身を守るために働いてきた。
誰かに守られることなど諦めて、ただ生き延びるためだけに数字を合わせてきた。
なのに、今度は――私が、この途方もなく強くて不器用な人に、守られようとしている。
レオンハルトが、少しだけ照れ隠しのように咳払いをして言った。
「……条件に不満がないなら、契約書に署名しろ」
「……はい」
リアナはインク壺にペンを浸し、ペン先を紙に落とした。
手が小刻みに震えている。
でも、その震えは死の恐怖からくるものではなく――たぶん、生まれて初めて感じる、純粋な幸福感だ。
流麗な文字で、紙の下部に自分の名前を書く。
リアナ・アルフェルト。
レオンハルトはその署名が完成するのをじっと見届け、ほんの僅かに、長く深く息を吐いた。
まるで、魔物のボスを討ち取った時よりも大きな安堵を感じているかのように。
そして、彼女だけに見せる少しだけ不器用な微笑みを浮かべ、最後に言った。
「――今度は、俺がお前の楽園(居場所)を死ぬ気で守る」
その言葉に、リアナはもう笑いそうになって、堪え切れなかった。
泣きそうになって、それも堪え切れなかった。
ポタリと、涙が一滴だけ、署名の横に落ちる。
それを見て、レオンハルトが慌てたように眉を寄せる。
「……また、怖いのか」
「違います」
リアナはドレスの袖で乱暴に目元を拭い、震える声で、それでも満面の笑みで言った。
「……労働環境が天国すぎて、怖いくらい幸せなんです」
レオンハルトは一拍置いてから、やれやれと首を振り、低く優しい声で言った。
「……俺の隣で、ゆっくり慣れろ」
命令みたいな言い方なのに、この世の何よりも温かい響きだった。
執務棟の外では、死の気配を完全に拭い去った夜明けの風が心地よく吹いていた。
かつて「辺境のブラック騎士団」と恐れられた死地は、死者ゼロで大規模襲撃を退けた。
そして今、一人の有能すぎる社畜令嬢と、彼女を溺愛する不器用な団長によって、名実ともに最強無敵の「ホワイト騎士団」へと、完全な変貌を遂げようとしていた。




