第5話 冷血団長の重すぎる溺愛
「団長! 王都の使者が、どうしても今すぐ面会させろと騒いでいます! “国王陛下直々の急ぎの案件”だと!」
切羽詰まった伝令の声が執務棟の廊下に響いた瞬間、部屋の空気が一段と冷え込んだ。
急ぎの案件。王都からの使者。ろくな話ではないことなど、この場にいる全員が分かりきっている。
レオンハルトは無言で立ち上がり、重い足取りで扉へ向かった。そして、外へ出る直前で立ち止まり、肩越しに振り返る。
「リアナ。ここから先は俺が対応する」
「団長、ですが私も元王宮の文官です。同席した方が書類上の対応が――」
リアナが有能な事務官としての責任感からそう言いかけたところで、レオンハルトは鋭く、しかしどこか庇うような響きで言葉を遮った。
「お前は定時だ」
その言葉が、絶対の“命令”として執務室に落ちる。
リアナの口が、間の抜けた形で止まった。
――定時。だから、帰れ。
命令で定時退社をさせられる日が来るなど、睡眠時間二時間で極限状態だった王宮時代の自分に見せてやりたい。いや、話して聞かせても「疲労が見せた幻覚だ」と一蹴されるに決まっている。
レオンハルトは廊下へ出ていく。その大きく頼もしい背中が遠ざかる前に、もう一言だけ、低い声が飛んできた。
「帰ったら、温かいものを飲んですぐに休め。俺の許可だ」
許可。休むことが、団長直々の許可制。
リアナはその甘美すぎる単語を胸の中で何度も転がしてから、ゆっくりと、深く安堵の息を吐いた。
「……承知いたしました」
◇◇◇
翌日。
リアナが自室に戻ると、屈強な騎士が二人がかりで巨大な荷物を運び込んでいるところだった。
「おっ、令嬢。ちょうど良かった、荷物だぞ」
「荷物……? 私、王都からも行商人からも、何も頼んでいませんが」
騎士は妙に目を逸らし、頬をかきながら言いにくそうに告げた。
「団長命令だ。『今すぐ令嬢の部屋へ設置しろ』ってな」
荷物を覆っていた分厚い布が外された瞬間、リアナは石像のように固まった。
ベッドだった。
しかも、昨日まで彼女が「ふかふかだ」と感動して寝ていた簡素な藁のベッドではない。
最高級の綿が詰まった極厚のマットレス。雲のように膨らんだ純白の羽毛布団。肌触りの滑らかな絹のシーツ。王都の高級宿の貴賓室に置かれていても、何一つ不思議ではない代物だ。
「……なぜ、このようなオーバースペックなものが、最前線の兵舎に?」
「団長が言ってたぜ。『文官の睡眠の質は、直結して部隊の戦力だ。妥協は許さん』って」
「私の睡眠が……騎士団の戦力……?」
騎士が、大真面目な顔で深く頷く。
「令嬢が寝不足で倒れて、またあの『死んだ帳簿』に戻ったら、騎士団全体が予算不足で倒れる。つまり、お前の睡眠は俺たちの命(戦力)と同義だ」
「……論理が強すぎます」
あまりの極論にリアナが反論できずにいると、設置を終えた別の騎士が、今度は両手で恭しく小さな木箱を差し出してきた。
蓋を開けると、宝石のように艶やかな焼き菓子が整然と並んでいる。上質な砂糖と果実、そして貴重な香辛料の甘い匂いが鼻をくすぐった。
「これも団長からだ。王都から取り寄せた最高級の焼き菓子らしいぞ」
「王都の……?」
リアナは言葉を失った。
王宮で働いていた頃、こういう高価な菓子は“見栄えのいい高位貴族たちの優雅な茶会”のためのものであって、裏で徹夜している泥臭い令嬢の口に入るものではなかった。配膳の残りの欠片が、運良く皿の端に残っていれば御の字だったのだ。
「『勤務中に食え』って言付かってる」
「き、勤務中に……間食を……? そんなこと、王宮では不真面目だと叱責の対象でしたが」
「馬鹿言え。団長曰く、『集中力が落ちると判断が鈍る。判断が鈍ると戦場で死ぬ。だから甘いものを食って頭を回せ』だそうだ」
死ぬ。
この辺境においては、その単語が万能の説得力を持ちすぎている。
リアナは菓子箱を大切に胸に抱え、膝から崩れ落ちそうになるのを必死で堪えた。
「福利厚生が……あまりにも手厚すぎる……」
絞り出すように呟いた瞬間、騎士たちが「また令嬢が変な言葉を使ってるぞ」と微妙な顔で視線を交わした。
「ふこり……こうせい?」
「令嬢、たぶんそれ、一般的には『囲い込み』とか『溺愛』って呼ぶんだと思うぞ……?」
「違うのですか? 労働環境の改善の一環ですよね?」
騎士は純粋な目で首を傾げるリアナを見て、しばらく迷ってから、最終的にすべてを諦めたように言った。
「……まあ、令嬢が幸せなら、そういうことにしておけ」
◇◇◇
その日の午後。執務棟へ向かうと、事態はさらにエスカレートしていた。
リアナの机が、部屋の隅から「最も日当たりが良く、風通しの良い窓際」へと移動していたのだ。手元が暗くならない最高の立地。
さらに、簡素な丸椅子は、背もたれにふかふかのクッションが付いた高級品に替わっている。足元には冷え防止の小さな毛皮の足置き。机の端には、常に適温が保たれる保温ポットと、美しいティーカップのセットまで完備されていた。
そして極め付けは、リアナの机の目の前の壁に、新しい張り紙がデカデカと貼られていたことだ。
――『文官の休憩時間:午前・午後 各十五分/厳守』。
厳守。
休憩が、厳守。
リアナは目を疑い、何度もまばたきをした。
「ガルムさん……これ、誰が……」
「団長だ」
書類を届けに来ていたガルムが即答した。兵站班長になってからというもの、彼は理不尽な物資不足から解放され、妙に表情が穏やかになっている。仕事の先行きが見えると、人間はこうも優しくなれるらしい。
「団長が朝一で、自分で釘を打って貼ってたぞ。俺が止める間もなかった」
「団長自らが……私の休憩を……?」
リアナが呆然と張り紙を見つめていると、背後から突然、低く威圧感のある声が落ちてきた。
「休め」
レオンハルトだった。重い甲冑ではなく、動きやすい漆黒の軍服姿。執務室にいる時の彼は、戦場の血の匂いを一段落とし、どこか静謐な空気を纏っている。
「だ、団長。これはいくら何でも……」
「お前には必要だ」
必要。理屈では分かる。だが、その“必要”の矢印が、なぜ自分一人に向けてここまで極端に太く、重いのかが分からない。
リアナは恐る恐る口を開いた。
「騎士の皆さんの休養シフト制度は、私が提案したので理解できます。ですが、私の机や椅子までここまで豪華に替える必要は……」
「ある」
即答だった。有無を言わさぬ迫力。
「お前が過労で倒れたら、この居心地の良い仕組みがすべて止まる」
「いえ、仕組み自体は私が倒れても皆で回せるように、マニュアルを――」
「まだだ」
強い声で遮られた。
レオンハルトの金の瞳が、リアナを真っ直ぐに見下ろす。視線は冷たいはずなのに、言っている内容がひどく甘い。いや、甘いというより、逃げ道を塞ぐように重い。
「お前がいないと回らない部分が、まだ確実にある。……だから、絶対に倒れるな」
「……はい」
はい、としか言えなかった。
その日、リアナが指定された「十五分休憩」を無視して帳簿の計算を続けようとした瞬間、どこからともなくレオンハルトが現れ、机の横に仁王立ちして言った。
「休憩だ」
「あと少しで、この月の集計が終わりますので――」
「休憩と言ったはずだ」
声が一段低くなる。逆らえば、本当に物理的に机から引き剥がされそうな圧がある。
リアナは震える手でペンを置き、朝もらった高級菓子を一つ取って、小動物のように齧った。
……甘い。
怖いほど甘い。酷使された脳髄が、一瞬でとろけそうになる。
遠巻きにその様子を見守っていた騎士たちが、ヒソヒソと話し合っているのが聞こえた。
「おい、団長……顔は魔王みたいに怖いのに、やってることが過保護な親鳥みたいに甘いぞ」
「令嬢が大人しく菓子食べてるだけで、団長のピリピリした空気が一瞬で凪ぐの何なんだよ」
「令嬢、俺たちの命を救った上に団長の猛獣使いまでこなすとか、もはや女神か?」
女神。
その単語が聞こえて、リアナは甘い菓子を喉に詰まらせて咽せそうになった。
とんでもない。私はただの、労働環境に執着している狂った社畜です。
……訂正。元、社畜です。
◇◇◇
その日の午後、リアナは騎士団の大食堂に呼ばれた。
「おお! 今月分の危険手当と給金、きっちり全額出たぞ!」
誰かの声が上がり、食堂中に割れんばかりの拍手が起きた。
豪快な笑い声。弾むような会話。机の上にはいつもより明らかに肉の量が増え、パンはふかふかに温められ、スープからは豊かな香草の湯気が立っている。
リアナが案内された席に着くと、屈強な大男たちが一斉に立ち上がり、彼女に向かって深く頭を下げた。
「令嬢、本当にありがとう」
「助かった。今月は無理かと思ってたんだ」
「これで、故郷の妹に薬代の仕送りができる。あんたは俺たちの恩人だ」
リアナは、手にした木のスプーンを持ったまま完全に固まった。
「い、いえ、私はただ、散らかっていた書類を整頓して、当たり前の仕組みを回しただけで……」
「その『当たり前』が、俺たちにはどうしてもできなかった。それが一番すげえんだよ」
ガルムが白い歯を見せて笑った。
倉庫の札を誇らしげに語る騎士までいる。
「棚に札があるだけで、次に何が足りなくなるか、棚が喋って教えてくれてるみたいだ」
「補給の先が読めるって、戦場で背中を守られてるくらい安心なんだな」
その喧騒と喜びの輪の外で、レオンハルトは壁に背を預け、腕を組んで黙って見ていた。
相変わらず笑ってはいない。だが、彼が纏う空気の鋭い角が取れ、穏やかになっている。騎士たちの純粋な安堵が、彼にも伝わっているのだろう。
リアナは温かいスープを口に運びながら、ふと気づいた。
王宮では、誰かに「ありがとう」と感謝されることは、“次の新しい仕事を押し付けられる合図”でしかなかった。
しかしここでは、感謝が“皆が生き残り、負担を減らすための力”になっている。
胸の奥が、スープの温度以上にじんわりと温かくなる。
「……やっぱり、ここは天国です」
小さく呟くと、隣に座っていた傷だらけの騎士が、大真面目な顔で深く頷いた。
「そうだな。お前さんが来てから、ここは間違いなく天国になった」
その大げさな真面目さが可笑しくて、リアナは自然と、花が綻ぶように笑った。
笑った、その瞬間。
壁際にいたレオンハルトの視線が、真っ直ぐにリアナを捉えた。
鋭いのに、威圧感はない。代わりに、逃げ場をなくして絡め取るような、ひどく熱く重い引力がある。
リアナの背筋が、先ほどの居心地の良さとは別の種類の緊張で、ピンと伸びた。
レオンハルトがゆっくりと歩み寄り、食堂の喧騒の中で、リアナにだけ聞こえる低い声で言った。
「リアナ」
「は、はい」
フルネームではなく、ただ名前を呼ばれる。それだけで、最近心臓が変なリズムで跳ねるようになってきたのが、自分でも非常に困る。
「来月から、お前の給金を上げる」
「……え?」
リアナは驚きでスプーンを落としかけた。
「危険手当とは別に、事務総官としての正規の給金だ。今まで王都からの支給額が“曖昧”だった分をすべて俺の権限で見直し、最高額で整える」
「い、いえ、そんな! 私は今の待遇と睡眠時間だけで十分すぎるほど満たされて――」
反射的に遠慮の言葉が出たのは、悲しき社畜の癖だ。王宮では、正当な対価を要求すれば「強欲な女だ」と怒鳴られたからだ。
だが、レオンハルトはそんな遠慮を一切許さなかった。
「受け取れ。お前の働きに対する、当然の対価だ」
「……はい」
断れなかった。断る合理的な理由が見つからない。
そして何より、それが少しだけ怖かった。
優しさが怖いのではない。
“こいつを絶対に手放さない”という強烈な意志が、言葉の端々、視線の熱さから隠しきれないほどに滲み出ているのが、怖いのだ。
リアナが戸惑って俯いていると、レオンハルトはさらに爆弾を投下した。
「それと、明日からお前に専属の護衛を付ける」
「……はい? 護衛、ですか?」
「そうだ。今後、お前が一人で兵站倉庫や夜の廊下を歩くことを禁ずる」
「夜間に倉庫へ確認に行ったのは、着任した直後の一度だけで……」
「一度でもだ」
完全なる断言。
まるで、国宝級の貴重品を厳重管理するかのような扱いだ。
リアナは反論しようと口を開きかけたが、すぐに閉じた。
ここで彼に反論すると、説得のための話が長くなる。
話が長くなると、私の貴重な定時退社後の自由時間が削られ、実質的な「残業」になる。
リアナは、自らの快適な生活を守るという至上命題(合理)のために、スッと頷いた。
「……承知いたしました。団長の指示に従います」
その瞬間、レオンハルトの周りの張り詰めていた空気が、ふわりと緩んだ。
口に出して褒めはしないが、明らかに機嫌が良くなり、満足している顔。
その隠しきれない独占欲の匂いが、リアナにはひどく甘く、そして危険なものに感じられた。
◇◇◇
その夜。
リアナは自室の新しい、雲のようにふかふかなベッドに深く沈み込みながら、月明かりに照らされた菓子箱をぼんやりと眺めていた。
甘い匂い。温かい毛布。明日の業務予定は、絶対に定時内に終わる量に完璧に調整してある。
――完璧だ。
完璧すぎて、逆に不安になってくる。
こんなに手厚く与えられて、いいのだろうか。
こんなに過保護に守られて、いいのだろうか。
王宮では、守られ、甘やかされるのは“見栄えのいい偉い人”だけだった。裏で泥水すすって働く人間は守られない。働くからこそ、使い捨ての道具として扱われる。それが世界の常識だと思っていた。
リアナは、シーツをぎゅっと握りしめて目を閉じた。
複雑な思考は、極上のマットレスの心地よさの前に数秒で溶け去り、彼女の眠りは深く、そして速かった。
◇◇◇
翌朝。
リアナが清々しい目覚めと共に執務棟へ向かう途中、正面の巨大な防壁の門の周辺が、異常なほどざわついているのが見えた。
完全武装した騎士たちが集まり、腕を組み、槍の柄を握りしめ、極めて険しい顔で“何か”を半包囲している。
馬車だ。
豪奢な装飾が施され、王都の紋章がこれ見よがしに刻まれた馬車が、門の外に偉そうに止まっていた。
リアナの足が、ピタリと止まる。
胸の奥で、氷のように冷たいものがすっと広がった。
王都が、来た。
私の安寧の地、この完璧な楽園(週休二日制)を壊しにやって来たのだ。
その時、馬車の陰から一人の男がゆっくりと姿を現した。
戦場には不釣り合いな、仕立ての良い高価な外套。手には、赤い封蝋が押された分厚い封書を持っている。見間違えるはずもない、王宮文官長室の印章だ。
男は、辺境の泥臭い騎士たちを虫ケラでも見るような目で見下し、最後に、少し離れた場所に立つリアナを見つけた。
男の口元だけが、薄く、陰湿に歪んで笑う。
その笑みは、リアナの記憶にこびりついている「王宮の終わらない夜」の腐った匂いがした。
「――お久しぶりですね、伯爵令嬢リアナ・アルフェルト殿。あなたに、極めて重要なお話がございます」
男のねっとりとした声に、リアナの指先が冷たくなる。
だが、その男がリアナに向かって一歩を踏み出そうとした、その瞬間だった。
リアナの背後から、地響きのような重い足音が近づいてきた。
周囲の空気を一瞬にして凍らせる、圧倒的な威圧感。
レオンハルトだ。
彼はリアナの横を通り過ぎ、彼女を背中で庇うように立ち塞がると、門の外にいる王宮の男を冷酷に見下ろした。
抜刀こそしなかったが、その眼光はすでに相手の喉元を掻き切っている。
響いた声は、地底から這い上がってきたかのように低く、重かった。
「……誰の許可を得て、俺の陣地に来た」
男の薄ら笑いが、一瞬にして恐怖に引きつり、固まった。
レオンハルトの広く頼もしい背中を見上げながら、リアナは胸の奥で静かに、そして確かな闘志を燃やして思った。
――終わりではない。
私の快適なニート生活を守るための本当の戦いは、ここからが始まりだ。




