第3話 私の楽園は、私が守る!
その夜、リアナは食堂の隅に放置されていた帳簿箱を抱え、ひっそりと自身の宿舎へ戻った。
部屋のベッドは、先ほど確認した通りふかふかで、干した藁のいい匂いがする毛布も分厚い。今すぐあの布の塊にダイブして目を閉じれば、一秒で極上の眠りに落ちる自信がある。いや、むしろ身体の全細胞が「今すぐ寝ろ」「もう限界だ」と激しく命令を下している。
それでも。
リアナは冷たい水で顔を洗い、机の上に帳簿の束をドンと置き、小さなランプに火を灯した。
「……ここで寝てしまったら、すべてが終わる」
揺れる炎を見つめながら、小さく呟く。誰に聞かせるでもない、自分自身への戒めだ。
先ほど見た帳簿の惨状。あれを放置すれば、この騎士団は遠からず予算がショートして解散に追い込まれる。
ここが解散したら、どうなるか。当然、自分は王宮の筆頭文官室へ戻される。あの自己顕示欲の塊のような元婚約者の下で、再び睡眠二時間の地獄を味わうことになる。今度こそ、確実に過労死するだろう。
だったら、やることは一つしかなかった。
守る。
この奇跡のような「週休二日」を守る。
温かい食事が保証された「定時退社」を守る。
ベッドで横になれる「眠れる夜」を守る。
そのために、まずは現状という名の『敵』を正確に把握するのだ。
リアナは決意と共に帳簿を開き、インクと古い紙の匂いを深く吸い込んだ。王宮で毎日嗅ぎ慣れた、寿命が縮む地獄の香り。なのに不思議なことに、今の彼女は胸の奥がすっと落ち着いていくのを感じていた。
紙は、嘘をつかない。
嘘をつくのは、人間だけだ。
そしてこの辺境の騎士団の人間たちは、王宮の貴族たちのように「体裁を取り繕うための陰湿な嘘」すらつけないほど、書類仕事に対して不器用なだけなのだ。
◇◇◇
最初の作業は、果てしない分類だった。
箱の中身は「帳簿」と呼ぶのもおこがましい。単なる紙くずの寄せ集めだ。月ごと、案件ごと、品目ごと――何の体系もルールも存在しない。誰が書いたのかも分からないミミズの這ったような走り書き。なぜか血痕で汚れた受領印。計算が合わずに自暴自棄になってバツ印で消された朱書きの跡。
リアナは、机の上だけでなく床にも紙を広げ、まずは大きな三つの山を作った。
入庫。出庫。そして、支払い。
それだけで、完全に死んでいた数字の呼吸が、微かに見え始める。
次に、品目ごとの一覧を作成する。食糧、矢弾、傷薬用の薬草、武具の修繕材、馬の飼葉――どれも辺境で戦う騎士団の命綱だ。
そして、それらを王都から支給されているはずの月の予算枠と照らし合わせる。
「……足りない、というより」
リアナは、猛スピードで動かしていたペン先をピタリと止めた。
“消えている”のだ。
王都からの入庫記録はある。確かに受領印も押されている。なのに、現在の在庫数にまったく反映されていない。出庫記録がないまま、まるで神隠しにでも遭ったかのように物資が減っている箇所がいくつもある。
横領。盗難。あるいは裏流し。
王宮であれば、真っ先にその言葉が頭をよぎる事案だ。だが、リアナは即断しなかった。今日の昼間に見た、あの不器用で真っ直ぐな騎士たちの顔を思い出す。
まず確かめるべきは、もっと単純で、もっと致命的な可能性だ。
記録が抜けている。
記録が別紙に散らばったまま紛失している。
そもそも、記録をつける人間が「正しい数え方」を知らない。
リアナは深呼吸し、ランプの火に目を細めた。
「……倉庫を、見に行こう」
書類を睨んでいてもこれ以上は分からない。現物は絶対に嘘をつかない。
リアナは黒い外套を羽織り、整理した帳簿の一部とメモ帳を抱えて、冷え込む廊下へ出た。
夜の駐屯地は静まり返っていた。遠くの防壁の上を歩く見張りの足音だけが、等間隔で響く。山から吹き下ろす風は氷のように冷たく、微かに獣か魔物か分からない生臭い匂いが混ざっていて、リアナの肩が僅かに強張る。
だが、不思議と恐怖はなかった。
王宮の終わりのない夜に比べれば、魔物の気配など可愛いものだ。王宮の夜は、文字通り「終わり」がなかったのだから。
◇◇◇
一番大きな兵站倉庫の前には、厚い外套を着込んだ初老の騎士が立っていた。
「ん? こんな夜更けにどうした、新入りの令嬢」
「夜分に申し訳ありません。帳簿の確認をしたくて……少しだけ、中を見せていただけますか」
騎士は怪訝そうに眉をひそめたが、拒みはしなかった。冷血団長の机のすぐ隣に席を与えられた“得体の知れない文官”は、彼らの中でも少し異質な存在として認知され始めているらしい。
重い南京錠が外され、ギシギシと音を立てて倉庫の扉が開く。
中は暗く、底冷えがした。大量の木箱と樽が積まれ、壁際には棚が並んでいる。だが――ランタンの明かりで中を照らした瞬間、リアナは眩暈を覚えた。
並び方が、絶望的に雑だった。
同じ品目が、まったく別の複数の場所に散らばっている。新しい木箱の上に古い木箱が積まれ、下にあるものを取り出すには上の重い箱を退かさなければならない。回復薬の瓶の横に、なぜか馬の蹄鉄が転がっている。
これでは、数を数える前に迷子になる。
リアナは思わず唇を噛んだ。
「これでは、いざという時に目当ての物資を十秒で取り出せませんし、出庫記録も曖昧になりますね」
「そりゃ令嬢、俺たちに無茶言わねえでくれ。そもそもいちいち記録なんて、まともに書いてる余裕がねえんだよ。夜討ち朝駆けで襲撃が多いからな、魔物が出たら勘で掴んで走るしかねえ」
倉庫番の騎士の言い分は、痛いほど分かる。分かるからこそ、背筋が冷えるのだ。
余裕がないから、記録しない。
記録しないから、必要な時に物資がない(消える)。
物資がないから、さらに余裕がなくなる。
完全なる悪循環。死の螺旋だ。
リアナは膝をつき、足元にあった一つの箱を開けた。矢の束だ。数は――帳簿の記載より圧倒的に少ない。だが、振り返って別の棚の奥を見ると、埃を被った同じ箱が三つも重なっている。
やはりだ。これは“盗られた”のではなく、“全く管理されていない”だけだ。
「……大丈夫です。横領や盗難の類ではないようです」
「そ、そうなのか?」
「はい。たぶん、皆さんが悪いのではなく、誰もが守れる『仕組み』が存在しないだけです」
騎士がぽかんと首を傾げる。
リアナは木箱に「何がいくつ入っているか」を示す札が一切付いていないのを確認し、深く、深く息を吐いた。
「中身を示す札がない。定位置が決まっていない。持ち出した人が一秒で記録できるルールもない。これでは、真面目で急いでいる人ほど混乱して帳簿を壊します」
リアナは立ち上がり、パンパンとスカートの埃を払った。
「明日、私が全倉庫の棚卸しと整理をします」
「明日? おいおい令嬢、明日は土の曜日だぞ。お前さん、休みだろ」
「…………あ」
言われて、リアナは石像のように固まった。
休み。
明日は休日。
週休二日。天国の絶対ルール。
団長が「守れ」と言った権利。それを自ら放棄してどうする。守らなければ、何のために辺境へ来たのか分からない。
リアナは拳をぎゅっと握りしめ、数秒だけ激しく葛藤した。
狂った社畜の本能が「気になったんだから今すぐ全部徹夜でやれ!」と叫ぶ。だが、ようやく芽生え始めた人間としての本能が必死に囁く。「休め。休まないと、また王宮の時のように心が壊れるぞ」と。
「……棚卸しは、明後日の『勤務時間内』に実施します。……その代わり、今夜は計画だけを立てます」
「計画?」
リアナは真剣な顔で頷いた。
「人手と時間を割り振って、字が読めない者でも分かる手順書を作ります。絶対に、全員の勤務時間内で終わるように」
倉庫番の騎士は、呆れたように、しかし少しだけ優しく笑った。
「変な令嬢だな、お前さん。自分の『休み』を守るために、わざわざ夜中に仕事をするのか」
「はい。私の楽園を守るためなら、何だってやります」
言い切った瞬間、胸の奥の青白い火がさらに激しく燃え上がった。
これは労働ではない。私の安寧な生活圏を守るための、正当な防衛戦だ。
◇◇◇
部屋に戻ると、リアナは真新しい紙を何枚も机に広げた。
まず、やるべきことを徹底的に分解する。
一、帳簿の再構築とフォーマット化。
二、倉庫の整理手順の策定。
三、脳筋でもできる出入庫のルール化。
四、危険手当の支給遅延の原因究明とシステム化。
五、これらを踏まえた予算案の作成と、来月以降の運用計画。
王宮の社畜時代、リアナは他人が押し付けてきた一日百の案件を、ただ無心で処理していた。今は、自身の仕事を“未来永劫減らすために”、あえて百のタスクを抱え込んでいる。
矛盾しているのに、妙に気分が良くて筆が進む。
「……残業は、月四十時間まで」
リアナは自分に言い聞かせるように呟き、紙の端に小さく線を引いた。
今月の残業枠。今日の残業分。
時計を見る。計算すると、今夜はあと「二時間十五分」までなら枠の範囲内だ。
上限が決まっていて、それが許されている。その事実が新鮮で、リアナは思わずクスッと笑ってしまった。
そこからは、圧倒的な集中だった。
危険手当が出ない理由は、帳簿の混沌と同様に単純だった。「申請書が提出されていない」のではなく、提出はされているが、それが「集計表」にまとまっていないのだ。
リアナは一枚の紙に、直線を引いた。
『騎士の名前』『出動日時』『危険度(甲・乙・丙)』『支給額』。
項目を極限まで削り、誰でも一目で分かる一覧表を作る。複雑な計算は各自にさせず、リアナが横に置いた別紙で一括処理する仕組みにした。
次に、物資の出庫票。
『誰が』『何を』『いくつ』『いつ』。
この四項目だけ。文字が書けなければ、自分の認識番号と記号で丸をつけるだけでもいい仕様にした。
倉庫の棚札も同じだ。品目名、最大保管数、そして「この線を下回ったら文官へ報告」という赤い警戒ラインを引くだけ。
「……これなら、どんなに忙しい襲撃の後でも、数秒で回る」
リアナはペンを置いた。
最後に着手したのは、予算案の作成だ。現状の赤字の穴を塞ぐだけでは足りない。今後の魔物の襲撃頻度の予測、冬営に向けた装備の消耗率、食糧の必要量、そして負傷率。
すべてを「数字」という共通言語に落とし込む。数字にすれば、王都の財務局とも対等に交渉できる。
リアナは王宮で嫌というほど培わされた“反論を許さない根拠の作り方”を、今ここで初めて、自分たちを守るという善意のために使った。
王宮では、クズ上司の体裁を取り繕うために数字を捏造させられた。ここでは、騎士たちの命と自分の生活を守るために数字を整える。
同じデスクワークなのに、意味が天と地ほど違った。
ランプの油が切れかけ、火が小さくなった頃。
時計の針が、リアナが設定した「残業枠の限界」を指す五分前。彼女はようやくペンを置いた。
机の上には、紙の束が整然と並んでいる。
数時間前までただの混沌だった未処理の山は、一筋の美しい道筋へと変わっていた。
「……よし、定時(の残業)退社!」
リアナは深く息を吐き、そのまま後ろのベッドへ背中から倒れ込んだ。
ふかふかの毛布が、冷えた身体を優しく包み込む。
目を閉じる直前、胸の奥で小さく囁く声がした。
これで、私の楽園は守れる。
◇◇◇
二日後の朝。休日明けの月曜日。
レオンハルトが執務棟の自室に入った瞬間、彼の足がピタリと止まった。
いつもなら、扉の前からでも分かる“死んだ紙の腐臭”が薄い。いや、消えているわけではないが、ジメジメとした絶望の匂いがない。代わりに、乾いたインクと真新しい紙の、理路整然とした匂いがするのだ。
扉を開ける。
そこには――まったく別の部屋があった。
床に雪崩を起こしていたはずの書類の山はない。
自分の机の上に無造作に積まれていた未決裁の書類もない。
壁際にはどこから持ってきたのか新しい木棚が設置され、紐で括られた書類が「王都提出用」「内部決裁用」「保管用」と明確に分類されて整列している。
壁の掲示板には大きな模造紙が貼られ、今週の業務予定と提出期限が一目で分かるように色分けされていた。
そして、団長であるレオンハルトの机のど真ん中。
そこにポツンと置かれていたのは、たった一つの分厚いファイルだった。
表紙に、流麗で丁寧な文字でこう書かれている。
――『辺境防衛騎士団・予算案及び兵站管理改善計画(暫定版)』。
レオンハルトは無言で歩み寄り、そのファイルを開いた。
目に入ってきたのは、芸術的なまでの完成度だった。
現状の課題を端的に示す数字。それを解決するための根拠。誰が読んでも迷わない手順書。担当の割り振り。想定されるリスクとその対策。
すべてが、レオンハルトにも「一目で理解できる言葉」で書かれている。
理解できる、という事実そのものが彼にとっては異常だった。今まで王都から派遣されてきた文官の書類は、すべて自己保身のための言い訳が連なる“呪文”にしか見えなかったからだ。
レオンハルトの金の視線が、僅かに鋭さを増す。
彼は視線を上げ、扉の脇にある小さな机を見た。
そこに、リアナが座っていた。
目の下にほんの少しだけ薄い影があるが、姿勢は一切崩れていない。ペンを持つ指は迷いなく、優雅にさえ見える動きで朝のルーティン作業を進めている。
視線に気づいたリアナは顔を上げ、立ち上がっていつも通り完璧な礼をした。
「おはようございます、団長。勤務開始時刻です」
その言葉が、戦場に似合わないほど妙に落ち着いて響いた。
レオンハルトは、ファイルを机にゆっくりと置いた。完全に整頓された冷たい空気の中で、地を這うような低い声が落ちる。
「……これを、お前がたった一人で、休日の間にやったのか」
「いえ、休日はしっかり休ませていただきました。金曜の夜の残業枠内で終わらせたものです」
「……何?」
レオンハルトは眉間を揉んだ。たった数時間の作業量ではない。
「なぜ、ここまでやる。俺は適当に分類しておけとしか命じていないはずだ」
「騎士団が予算不足で解散すると、私が個人的に非常に困りますので」
「困る?」
リアナは一瞬だけ言い淀み、そして真っ直ぐに団長の目を見て正直に言った。
「はい。私の愛する『週休二日』が永遠に失われます」
間。
レオンハルトの眉が、今度は大きく跳ね上がった。
次の瞬間、彼の猛禽類のような視線が、リアナを射抜く。
「――お前、一体何者だ」
リアナは愛想笑いを作ろうとして、やめた。
この鋭い男には、薄っぺらい謙遜や嘘は通用しない。
「……元、王宮の筆頭文官補佐です」
レオンハルトの間に、重い沈黙が落ちた。
補佐と言いながら、この能力。実質的に王宮の中枢を一人で回していたのはこの細腕の令嬢だと、彼ほどの男なら一瞬で理解したはずだ。
レオンハルトは、ファイルの表紙を指先でトントンと叩いた。
「この計画通りに俺たちが動けば、うちの赤字予算は持ち直すのだな?」
「はい。確実に持ち直します。……ただし」
リアナは視線を落とし、引き出しから次の一枚の紙を差し出した。
「これを通し、徹底させるには、絶対的な権力を持つ団長の承認が必要です。あと、倉庫の管理責任者を一人、団長の権限で指名してください」
「責任者だと?」
「はい。どんなに優れた仕組みにも、現場の責任者が必要です。責任の所在が曖昧な仕組みは、三日で形骸化して壊れます」
レオンハルトは紙を受け取り、じっと見つめた。
そして、深く息を吐いて顔を上げる。
「……お前ほどの有能を、王宮の馬鹿共は自ら手放したのか」
その言葉に込められていたのは、リアナへの驚きではなく、王都の腐敗に対する純粋な呆れと理解だった。
リアナは小さく頷いた。
「はい。要領が悪いと、手放されました」
「……全く理解できん。国が滅ぶぞ」
「同感です」
その短いやり取りで、二人の間に奇妙な共犯関係のような空気が流れた。
レオンハルトは立ち上がった。重い椅子が軋む。黒い外套が揺れる。
「分かった。俺の全面的な許可を出す。今すぐ、全部隊の幹部をこの部屋へ集めろ。今日からやり方を変える」
リアナの胸が、熱くなった。
通る。この計画が実行されれば、この楽園は守れる。
だが同時に、別の嫌な予感が彼女の背中をスッと撫でた。
あの王宮が、自分という「最強のインフラ」を失って、いつまでも平穏でいられるはずがない。黙っているはずがないのだ。
レオンハルトが扉へ向かう直前、振り返って低く言い放った。
「……それと、お前の残業時間も正確に報告しろ」
「……はい?」
「月四十時間だ。嘘の申告は許さん。守れ。これは俺の絶対の命令だ」
リアナは、反射的に背筋を正した。
「承知いたしました」
守る。今度は、自分の生活だけでなく、この騎士団の制度ごと守り抜いてみせる。
そう決意を新たにした瞬間だった。
執務棟の外から、慌ただしい伝令の騎士の声が響き渡った。
「団長! 王都から、急ぎの使者が到着いたしました!」
リアナの心臓が、ヒュッと冷たい音を立てた。
早い。いくら何でも早すぎる。私が左遷されてから、まだ数日しか経っていないというのに。
レオンハルトの金の瞳が、スッと細められ、氷のように冷たく光る。
「……来やがったか」
リアナは、机の上の新しい紙束を、ギュッと抱え直した。
快適なニート生活(※週休二日)を守るための本当の戦いは――もう、始まっている。




