第2話 ブラック騎士団の真実(※個人の感想です)
冷血団長――レオンハルトの視線は、鋭利な刃物だった。
息を吸うだけで肺が切れそうな、そんな圧倒的な圧。並の人間なら、その金色の双眸に見据えられただけで膝から崩れ落ちるだろう。
しかし、リアナは背筋をピンと伸ばし、いつも通りの完璧な角度で礼をした。恐怖で足が竦むどころか、むしろ頭は冴えていた。
礼ができるということは、まだ生きているということだ。
「覚悟はできているか?」
団長の問いは短い。短いほど怖いというのが、一般的な見解だろう。
だが、王宮の男たちは違った。彼らは自身の無能を隠し、相手を精神的に追い詰めてコントロールしたい時ほど、蛇のようにねちねちと饒舌になった。何時間も立たされたまま、終わりのない嫌味を聞かされるのが常だった。
だからリアナは、この無駄のない短い問いに、逆に少しだけ緊張を解いた。
「はい。王命に従い、いかなる過酷な職務であっても全ういたします」
貴族令嬢としても、王宮の文官としても、完璧な模範解答を返したつもりだった。
しかし、団長は眉一つ動かさず、分厚い手で机の上の紙束を弾いた。王宮のような豪奢な封蝋も押されていない、粗悪でざらついた紙。だが、その紙から漂うのは、絶対的な“命令”の匂いだった。
「よかろう。では、ここで働くにあたっての条件を提示する」
条件。
その言葉を聞いた瞬間、リアナの胃がきゅっと小さく縮み上がった。
王宮で「条件」と言えば、それは必ず理不尽の押し付けと同義だった。
“今日の夜明けまでに終わらせろ”。“このミスの責任はお前が被れ”。“給金は王宮で働ける名誉だと思え”。“休日? 貴族の義務を果たさず何を怠けたことを言っている”。
リアナは無意識に、指先の震えを抑えようとドレスのスカートを固く握り込んだ。どんな地獄の宣告が下されるのか。睡眠時間は一時間を切るのか。
団長が、地を這うような低い声で淡々と読み上げる。
「いいか。まず、残業は月四十時間までとする。それ以上は俺の許可がいる」
「……え?」
聞き間違いかと思った。
月四十。
王宮なら、長引く無駄な会議と上司の尻拭いだけで、三日で超える数字だ。
「次に、週休二日だ。原則として土の曜日と太陽の曜日は休め」
「……?」
リアナの優秀な脳が、言葉の意味を理解する前に完全停止した。
週に二日、休む?
毎週?
月に一回でも、半年に一回でもなく?
それが、制度としてこの世に存在する?
「文官とはいえ戦場だ。危険手当は基本給に上乗せする。また、万が一魔物の討伐出動時に後方支援として随行した場合は、別途特別手当を支給する」
「……」
リアナの呼吸が止まった。さらに追い打ちをかけるように、冷徹な声が響く。
「そして深夜業務は固く禁ずる。例外は、魔物による緊急の拠点襲撃時のみだ。その場合も、事後に必ず代休を取らせる」
「…………」
リアナの視界が、じわっと熱く滲んだ。
涙だ。
涙が出る理由が、自分でも一瞬分からなかった。怖いからではない。悲しいからでもない。違う。これは、なんというか――
救済された、という感覚に近かった。
「――す、睡眠時間が……一日に六時間以上も、取れる……?」
押し殺した声が、震えた。団長の机の上に置かれたただの粗悪な紙束が、後光の差す神の啓示か、あるいは聖典のように見えてくる。
「休……日……? もらえるの……ですか? 毎週、本当に……?」
「……」
リアナがボロボロと大粒の涙をこぼし始めたのを見て、団長の険しい表情がわずかに硬直した。隣に控えていた片目の騎士が、気まずそうに咳払いをする。案内役だった男だ。
「団長。さすがに令嬢を初日で怖がらせすぎですぜ。辺境の死の掟を突きつけられたら、そりゃ絶望して泣きもしますよ」
「俺は事実を淡々と説明しただけだ。甘やかすつもりはない」
リアナは、自分の頬を伝う涙に気づき、慌てて袖で乱暴に拭った。王宮で女が泣くと、“面倒くさい”、“感情的で仕事にならない”と何倍にもなって罵られた記憶が、身体の芯にこびりついている。
「し、失礼いたしました! 決して不満や恐怖で取り乱したわけではなく……!」
「恐怖だと思ったがな」
団長が不機嫌そうに短く言う。
リアナは、必死で首を横に振った。ここで誤解されて「やっぱりお前には無理だ、王宮へ帰れ」と追い出されたら、それこそ本当の死だ。
「違います! あの、……あまりの好待遇に、嬉しくて」
口に出した瞬間、自分でも信じられなかった。
嬉しい。そんな純粋で前向きな感情を、仕事の条件を提示されて抱いたことなど、生まれてこのかた一度もなかった。
執務室の騎士たちの間に、奇妙な沈黙が落ちた。
何を言っているんだこいつは、という戸惑いの空気が満ちる。
団長が、ほんの少しだけ怪訝そうに目を細めた。
「……嬉しい、だと?」
「はい。生きていけます。ここなら、私は人間として生きていけます……!」
嗚咽を堪えながら絞り出した言葉は、あまりにも切実な本音だった。
団長の金の視線が、一瞬だけ揺れた気がした。だが、すぐに元の冷たい氷のような色に戻る。
「……変な女だ。まあいい、条件は絶対だ。守らせる。守れない者は俺が物理的に叩き直す」
「……ありがとうございます!」
深く頭を下げながら、リアナは心の中で歓喜のステップを踏み、絶叫していた。
天国。
ここは天国だ。
王都の噂では“ブラック騎士団”と恐れられていた。確かに、窓の外からは獣の遠吠えが聞こえ、男たちは血と泥の匂いを纏っている。死の匂いは濃厚だ。
でも、労働条件だけ見たら――王宮の漆黒より圧倒的に、純白のホワイトだ。
リアナはふらつく足元を、必死に床に踏みしめた。
私はこの楽園(※週休二日)を、何があっても絶対に失いたくない。
◇◇◇
その日の業務は、リアナにとっては朝飯前――いや、準備運動ですらなかった。
団長の執務机から少し離れた壁際に、小さな木製の机が一つ用意された。そこが今日からのリアナの城になるらしい。
ドンッ、ドンッ、ドンッ。
無造作に、巨大な書類箱が三つ、机の上に積まれた。
「とりあえずこれが、ここ一ヶ月の未処理の分だ」
「未処理……?」
箱の蓋を開けた瞬間、リアナは息を呑んだ。
紙が、紙が、紙が。
ぐちゃぐちゃに詰め込まれている。
中身をひと目見ただけで、その混沌ぶりが分かった。
血痕や泥のついた討伐報告書らしきもの、商人からの物資受領票の切れ端、破損した武器の補充申請、兵舎の屋根の修繕要望、負傷者の治療費申請……。それらが、日付も、優先度も、提出部署も一切区別なく、ただ丸めて突っ込まれている。文字も暗号のように乱筆だ。
王宮でこんな提出の仕方をすれば、即刻担当者を広場に引きずり出して吊し上げるレベルの惨状である。
普通なら、ここで心が折れるだろう。
だが、リアナの心は、逆に凪のように落ち着き払っていた。
慣れている。
他人がめちゃくちゃにした仕事を片付けるこの混沌には、実家でも王宮でも、呼吸をするのと同じくらい慣れすぎている。
「……なるほど。状況は把握いたしました。まず、全体の分類と優先順位付けから始めます」
「任せる。文官の仕事は俺の管轄外だ」
団長は、それだけ言って立ち上がった。重い椅子が軋む。黒い外套が翻る。扉へ向かうその大きな背中は、今から死地へ赴く戦士のそれだった。
「どちらへ?」
「西の森へ巡回だ。魔物の気配が濃い。夕刻には戻る」
それを言う声が、今日の夕飯の献立を語るように淡々としているのが少し怖い。ここでは死と隣り合わせの戦闘が、ただの日常業務なのだ。
団長が部屋を出て行った瞬間、遠巻きに見ていた騎士たちが、わらわらとリアナの机の周りに集まってきた。どいつもこいつも熊のように大柄な男ばかりで、太陽の光が遮られて手元が暗くなる。
「おい、新入りの令嬢。本当に大丈夫か? 泣いて逃げ帰るなら今のうちだぞ」
「あの書類の山、俺たちが見ても吐き気がするからな。三日坊主で逃げた前の文官は、あれを見て泡吹いて倒れたんだ」
心配しているのか、からかっているのか分からない。
リアナは紙束を器用に三等分に分けながら、真面目な顔で答えた。
「怖いです。でも、王宮よりは遥かにマシですので」
「……王宮よりは?」
「はい。王宮は、休みという概念がありませんでしたから」
書類を仕分けるリアナの手が止まらないまま、淡々と告げられた言葉に、歴戦の騎士たちの表情が一瞬にして凍りついた。
「……休みが、ない?」
「はい」
「一日もか?」
「ここ一年は、記憶にありませんね」
「す、睡眠は……?」
「平均して二時間くらいでしょうか。繁忙期は立ったまま気を失うこともありました」
リアナが世間話でもするように当たり前に言うと、魔物を前にしても顔色一つ変えない屈強な男たちの顔が、みるみるうちに青ざめていく。
「……おい、誰か団長を呼んでこい。王都の“闇”は、この辺境の森よりずっと深くてヤバいぞ」
「ああ……俺たち、案外恵まれてたんだな……」
誰かがドン引きした声で呟く。リアナは彼らの哀れむような視線を適当にスルーして、書類の分類に没頭した。
まず、日付順。
次に、案件と部署ごと。
最後に、決裁が必要なものと、記録として保管するだけのもの。
それだけで、死んでいた箱の中身が、少しずつ秩序を取り戻し、呼吸を始める。書類は、生き物なのだ。正しく並べ、正しい枠を与えてやれば、必要な答えを素直に返してくる。
リアナのペンが、踊るように紙の上を滑る。
彼女は久しぶりに、“仕事が正しく前に進み、片付いていく”という、麻薬のような手応えを感じていた。
◇◇◇
夕方。
リアナは案内され、与えられた宿舎の部屋に通された。
小さな個室。簡素な木のベッドに、小さな机と水差し。毛布は王宮からの馬車で渡されたものよりは厚いが、少し黴臭い。窓からは荒涼とした山と、高い防壁が見える。
王宮で与えられていた自室(※ほとんど帰れなかったが)より、何倍も粗末で狭かった。
でも――
リアナは、おずおずとベッドに触れた。
ふか、と少しだけ沈む。干した藁の匂いがする。
「……ふかふか……」
呟いた瞬間、喉の奥がまた熱くなった。
王宮では、どれだけ仕事をこなしても、寝る時間がなかった。天蓋付きの最高級のベッドは、ただの部屋の飾りだった。
ここには、寝るためにベッドがある。横になって目を閉じる時間が、許されている。
リアナは荷物を置き、窓を開けた。冷たい風が頬を撫でる。遠くの訓練場から聞こえる騎士たちの掛け声。規則正しい馬のいななきと、足音。
そして――カン、カン、カン、と響き渡る鐘の音。
食堂からの合図らしい。
「夕食の時間です。リアナ殿も食堂へ来てください」
廊下から、若い騎士の声がかかる。
夕食。
決まった時間に、温かい食事が提供される。
それも、食事の時間がちゃんと「休憩」として認められているのだ。王宮では、書類を見ながら片手で固いパンを齧るのが普通だった。
リアナは、胸の奥に詰まっていた重い泥のようなものが、ふわっと溶けて消えていくのを感じた。
私は、ここで生きていける。
そう思った瞬間、ふと冷たい不安が心臓を刺した。
――生きられる場所(楽園)は、失うのも早い。
王宮での理不尽な左遷で学んだばかりだ。自分が心地よいと思える場所は、誰かの身勝手な都合で、いとも簡単に壊される。
リアナは食堂へ向かう薄暗い廊下を歩きながら、心の中で静かに、そして強烈に誓った。
この快適な生活は、私の全存在を懸けて絶対に守り抜く。
私の安眠と週休二日を脅かすものは、相手が魔物であろうと王族であろうと、徹底的に排除してやる。
◇◇◇
食堂は熱気と喧騒に包まれていた。
大柄な騎士たちが、木のジョッキをぶつけ合い、下品な冗談を飛ばして大笑いしている。焼けた肉の匂い、香草の香り、そして大鍋から立ち上る白い湯気。
案内された席に座ると、リアナの前にも同じ配膳がドンと置かれた。
湯気の立つ具沢山のスープ、手のひらより大きな厚切りのパン、そして山盛りの肉の煮込み。
王宮での夜食は、徹夜明けに飲む冷めきった渋い茶と、歯が折れそうに固い焼き菓子だけだった。豪華すぎる食事に、リアナの胃が驚いて縮こまる。
「おい令嬢、遠慮せずにちゃんと食えよ。細すぎて折れそうだぞ。お前が倒れたら、また団長が『文官の手配が面倒だ』って機嫌悪くなるからな」
「……団長は、面倒くさがるのですか?」
「ああ。あの人は無駄と面倒を極端に嫌う。だからこそ、決まった規則や制度は絶対に守る。お前もその制度に守られてるんだ。辺境に飛ばされて運が悪かったなと思ったが、案外良かったな」
向かいに座った古参の騎士が、肉を頬張りながら笑う。
リアナはスープを木のスプーンで掬い、そっと口に含んだ。
温かい。塩加減と野菜の甘みが、疲労しきった身体の隅々まで染み渡るように優しい。あまりの美味しさに、三度目の涙が出そうになるのを必死に堪えた。
その時。
食堂の隅のテーブルで、一人の騎士がジョッキを叩きつけて大声で叫んだ。
「おい! 今月も危険手当、まだ出てねえぞ!」
「先月分もまだだぞ! 副団長に言っても『予算が下りない』の一点張りだ! 誰に文句言えばいいんだよ!」
どっと、自嘲気味な笑い声が食堂に響く。
だが、冗談ではない。笑いながらも、皆の目には明らかな不満と疲労が滲んでいる。困っているのに、どうにもならないと諦めている空気だ。
リアナの手の中で、スプーンがピタリと止まった。
危険手当が出ない?
団長が「制度がある」と明言したのに?
リアナは立ち上がり、食堂の壁際に置かれた掲示板へと歩み寄った。
そこには、様々な通達の紙が乱雑に貼られている。文字は乱れ、物資の数が書かれた数字は小学生の落書きのようだ。
そして、その掲示板の下に、無造作に置かれた古びた木箱。
木箱の中には、紐で束ねられた分厚い紙束が突っ込まれている。表紙には『会計録』と書かれていた。
帳簿だ。
リアナは周囲の喧騒をよそに、木箱から最新の帳簿を一枚、スッと抜き取った。
目で数字の列を追う。一秒、二秒、三秒。
次の瞬間、リアナの背筋を、氷を押し当てられたような悪寒が駆け抜けた。
数字が、全く合っていない。
王都から入ってきたはずの支援物資の数と、消費された数が一致していない。それどころか、単価の計算すら間違っている。手当の支給額も、出動記録と食い違っている。
そもそも、先月と今月の帳簿を繋ぐ繰越金の記録が丸ごと抜け落ちている。
これでは、手当が出ないどころの話ではない。
予算が底をつく。国からの支援金も、使途不明金が多すぎていずれ打ち切られる。
足りなくなる、というレベルではない。
――この騎士団は、遠からず倒産(解散)する。
王宮で耳にした貴族たちの噂話が、鮮明に脳裏をよぎった。
『辺境のブラック騎士団は、成果も上がらず金ばかり食うから、近いうちに解散になるらしいぞ』。
理由はこれだ。現場の騎士たちがどれだけ命を懸けて魔物と戦おうとも、それを支える兵站と帳簿が完全に死んでいる。
帳簿が死ねば、金が死ぬ。金が死ねば、組織が死ぬ。
リアナの喉が、ひゅっと乾いた音を鳴らした。
もし、ここが解散したら。
私は、どうなる?
当然、王宮の筆頭文官室へ戻される。
あのクズ上司の元で、再び睡眠二時間の生活に戻る。
休日ゼロ、食事は冷めた茶だけの、あの地獄の日々に――逆戻りだ。
リアナは、手にした帳簿の端を、指の関節が白くなるほど強く握りしめた。
両手が、小刻みに震えている。
恐怖だ。
冷血団長に凄まれた時とも、先ほどの嬉し涙とも違う、心臓を直接鷲掴みにされるような本物の恐怖。
けれど、その絶望的な恐怖の中で、リアナの胸の奥に、かつてないほど巨大で青白い炎がボッと燃え上がった。
私は、絶対に戻らない。
あの地獄にだけは、死んでも戻りたくない。
リアナはゆっくりと帳簿を閉じ、騒がしい食堂の隅で、一人静かに笑みを浮かべた。
その笑い方だけは、令嬢のものではなく、王宮の終わらない夜の中で極限まで磨き上げられた“狂気の社畜”のそれだった。
恐ろしく冷たく、そして有能な笑い。
「……私の楽園は、私が守る。絶対に」
小さく呟いた凄絶な声は、スープの湯気と騎士たちの笑い声にかき消された。
だが、最強の文官が覚醒したその決意だけは、決して消えることはなかった。




