表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

1/9

第1話 無能令嬢、地獄(天国)へ落とされる

 夜が明ける前の王宮は、静かだ。

 いや、静か――なはずだった。


「リアナ! まだ終わってないのか!」

「はい、ただいま……」


 筆頭文官室の重厚な木扉が、乱暴な音を立てて開かれる。吹き込んだ隙間風で数本しかない燭台の火が大きく揺れ、部屋に染み付いた古い紙と湿ったインクの匂いが、さらに濃く鼻をついた。

 机の上には書類の山。床にも山。椅子の背にも山。ここは王宮の中枢を担うはずの場所だが、現在この部屋で動いているのは、人間一人と、雪崩を起こす寸前の紙の軍勢だけだ。


 伯爵令嬢リアナ・アルフェルトは、ペンを握ったまま深く、ひどく深く息を吸った。吸っただけで、埃っぽさで喉が痛い。

 慢性的な寝不足の身体は、水を限界まで吸ってふやけた雑巾みたいに重い。指先はペンの形で固まり、小指の側面はインクで黒く染まったままだ。それでも、手だけは勝手に動く。動かないと――世界が終わる。

 いや、世界はどうでもいい。王宮の機能が完全に停止する。


「本日分の決裁書は、すでに署名待ちの状態でそちらの束に並べてあります。こちらが各部署への予算再配分案、そしてこちらが明朝の御前会議用の資料です。裏付けとなる過去五年分のデータも添付いたしました」

「言い訳はいい。お前が遅いから皆が困っているんだ!」


 苛立たしげな怒鳴り声の主は、リアナの上司であり、婚約者でもある男――王宮文官長代理、ディートリヒ・ヴァルトだった。

 年はリアナより三つ上の二十一歳。金髪に青い瞳という、絵に描いたような見目麗しい貴族の青年だが、声を張り上げた瞬間だけ、その瞳の奥が爬虫類のように冷たく濁る。


 リアナは濁った瞳から視線を外し、机の端に整然と積み上げた書類を示した。封蝋の位置、押印の順番、提出先ごとに色分けした絹紐。全てが王宮の厳格な規定通りだ。規定通りにしないと「見栄えが悪い」という理由だけで差し戻しが増え、結局、リアナの夜がさらに長くなる。

 リアナの平均睡眠時間は、ここ半年ほど二時間を切っている。

 休日は――最後に休んだのがいつか、もう思い出せない。春の祝祭の日は、たしか貴族たちの経費精算の処理で三徹したはずだ。今はもう秋風が吹いている。


「遅いのではなく、今日中に終わらせるよう急遽命じられた案件が、本日だけで二百三十六件ございましたので……。その中には、第二王女殿下の茶会のドレスの色に関する苦情処理や、近衛騎士団の馬の飼料代の計算ミス――これは本来、財務部の管轄ですが――の修正も含まれておりました」

「口答えをするな。お前は本当に要領が悪いんだよ」


 要領が悪い。

 その言葉を聞いた瞬間、リアナの頭の奥で何かがぷつりと切れた気がした。

 けれど、切れたのは怒りの糸ではない。たぶん、最後まで無意識にすがっていた“期待”という名の蜘蛛の糸だ。


 そう、要領が悪いと言われ続けてきた。

 実際には、ディートリヒをはじめとする他の文官たちが勝手に増やした仕事も、彼らが処理し忘れて放置した致命的な穴も、全部リアナが徹夜で埋めていた。

 例えば、彼が先週得意げに提出した『隣国への関税引き上げ案』。あれも、計算式が根本から間違っており、そのまま提出していれば国際問題に発展していたところを、リアナが三日徹夜して完璧な代案にすり替えておいたものだ。

 王宮の巨大な歯車が回っているのは、自分が歯車の隙間に血だらけの指を突っ込んで、無理やり回しているからだと、心のどこかで分かっていた。


 それでも。

 婚約者であるこの男だけは、自分の働きを見ている――裏で支えていることに気づいてくれていると、どこかで信じたかったのだ。


「……では、次の確認をお願いします。ここに文官長代理の署名がないと、明朝の会議で議題として上げられません」

「俺が署名しなくても、お前が何とかするだろう。いつもそうじゃないか」


 ディートリヒはリアナが差し出した書類をろくに見ず、机の端に置かれていた別の資料の束を無造作に掴み取った。

 そこには、リアナが寿命を削ってまとめた“新税制の改善案”が挟まっている。誤差の一つも許されない数字の列。根拠資料への参照も、あらゆる反論を想定したQ&Aも完璧に網羅されている。


 それを彼は、さも自分が作り上げたかのように、さらりと胸に抱えた。

「これは俺が明日の会議で出す。お前は同席してもいいが、余計な口出しはするなよ。女の――それも目の下に酷い隈を作った令嬢が前に出るのは、見栄えが悪いからな」

「……承知しました」


 見栄え。

 その一言で、リアナはようやく全てを理解した。

 王宮という場所は、働きの結果よりも体裁を愛する。ディートリヒは、その体裁の盾としてリアナを使いながら、功績という甘い蜜だけをすすり、自分の胸に勲章として飾っていたのだ。

 リアナは、もう反論しなかった。反論するエネルギーすら惜しかった。反論すれば、彼のご機嫌取りという無駄なタスクが増えるだけだ。

 今はただ、瞼の裏の暗闇が恋しい。ベッドという文明の利器が恋しい。真っ当な睡眠が――もはや神話のように遠い。


 書類の隅に置いた小さな砂時計が、最後の砂を落とした、その時だった。


 バァン! と、先ほどよりも乱暴に扉が再び開いた。

 今度は、王宮の正装に身を包んだ高位の侍従が二人。その背後には、王家の紋章が押された重々しい封書を持つ伝令官が立っていた。

 徹夜明けの澱んだ空気が、急に氷のように冷たくなる。


「伯爵令嬢リアナ・アルフェルト。王命を伝える」


 リアナは反射的に椅子から立ち上がろうとして、膝が嫌な音を立てて軋んだ。立ち上がるという動作だけで全身の関節が痛む。貧血で視界がぐらりと揺れた。

 伝令官が仰々しく封書を開き、冷徹な声で読み上げる。


「――筆頭文官補佐、伯爵令嬢リアナ・アルフェルトは、その職を解かれる。並びに、即刻、辺境防衛騎士団へ事務官として転属せよ。以上である」


 言葉の意味が、脳の処理装置を通過するまでに数秒かかった。


 職を、解かれる。

 転属。

 辺境防衛騎士団――通称、“辺境のブラック騎士団”。


 魔物討伐の最前線であり、王都から最も遠い過酷な地。常に補給は遅れがちで、騎士たちの死亡率は異常なほど高い。帰還できるのは、よほど運が良いか、人間離れした強さを持つ者だけだ。

 王都の貴族たちの間では、専らの噂だった。あそこに左遷された文官は、環境の劣悪さに三日で逃げ出すか、過労で七日で倒れるか、魔物に襲われて十日で死ぬ、と。


 リアナは、呼吸を忘れていた。

 背後で、ディートリヒがわざとらしく咳払いをした。


「ようやく決まったか。まあ、お前はここには向いていないからな」

「……え?」


 リアナがゆっくりと振り向くと、ディートリヒは意地悪な笑みを浮かべていた。その笑みは、これまで見たどの夜よりも冷酷で、そして愚かだった。


「俺が王に直接進言してやったんだ。お前の要領の悪さのせいで、我が部署の業務が著しく滞っているとね。筆頭文官室は、王宮の心臓部だ。お前のような無能ではなく、もっと優秀で『見栄えのいい』者が回すべきだろう?」

「……私が、業務を滞らせている、のですか」


 言葉が、自分でも驚くほどひどく乾いた音になって口からこぼれた。

 ディートリヒは大げさに肩をすくめてみせる。


「事実だろう? お前はいつも机にかじりついて働いているように見せて、結局結果を出すのが遅い。皆も迷惑していたんだ。――それと、婚約も白紙だ。左遷された無能な伯爵家の令嬢など、俺の経歴の傷になる。王宮でこれ以上、恥を晒すな」


 心臓が、すとん、と落ちた。

 冷たい石の床まで落ちて、さらに地の底へ沈んでいくような感覚。しかし、胸が張り裂けるような痛みは――不思議と、まったくなかった。あまりに疲労しすぎていて、悲しみや絶望といった高度な感情を処理する機能が、とうの昔に死んでいるのだ。


 代わりに、頭の片隅の冷めきった部分が、恐ろしいほどの速度で計算を始める。

 この人は、私が作った改善案を、自分の功績として明日出すつもりだ。

 そして、私という「すべてを裏で処理する歯車」がいなくなっても、この王宮が今まで通り回ると思っている。

 回るはずがない。

 だって、この一年間、実質的に王宮の事務を回していたのは私一人なのだから。


 けれど、それを今ここで口にしても、何一つ変わらない。むしろ、引き継ぎ資料を作れと脅されて、さらに睡眠時間を奪われるだけだ。


 リアナは、静かに目を伏せ、ゆっくりと深く礼をした。礼の角度は、貴族の令嬢としても、一介の文官としても完璧だった。完璧な礼が無意識にできるくらいには、身体が社畜として完全に最適化されている。


「……王命、謹んでお受けいたします」


 伝令官と侍従が、ぎょっと目を丸くした。泣き喚いてすがりつくか、絶望して倒れ伏すと思っていたのだろう。ディートリヒも一瞬だけ拍子抜けしたように眉を動かしたが、すぐに勝ち誇ったように鼻で笑った。


「ふん、やっと自分の無能さを自覚して従順になったか。良いことだ。辺境の地で、せいぜい反省してこい」


 リアナは何も言い返さなかった。

 反省すべきは、私の方ではなく、王宮の方だ。三日後には機能不全に陥って泣きを見るがいい。

 その呪詛めいた言葉は、喉の奥に固くしまい込んだ。

 今は――生きるために、ただ動く。


 転属命令には、期限がある。

 「即刻」。

 王宮は、どこまでも容赦がなく、そしてどこまでも私から休む時間を奪うつもりらしい。


◇◇◇


 その日のうちに、リアナは王都を追放された。

 伯爵家の立派な馬車が用意されることなど、もちろんない。彼女は“王命で辺境へ飛ばされる罪人同然の者”として、最低限の着替えだけを許され、物資を運ぶための粗末な荷車に乗せられた。

 幌すらない荷車の上で、御者から渡されたのは、馬の匂いが染み付いた古くて薄い毛布がたった一枚。


 それでもリアナは、その毛布を抱きしめた瞬間、思わずポロリと涙をこぼした。


 布だ。

 高級な羽毛布団ではないが、紛れもない布だ。

 しかも、ここは荷車の上。書類の山もなければ、インクの瓶もない。

 横になれる。

 眠れるかもしれない。


 ガタゴトと、容赦なく荷車が揺れる。整った石畳の道はすぐに途切れ、轍の深い荒れた土の道へと変わる。王都の華やかな景色がみるみる遠ざかり、代わりに泥と枯れ草、そして鬱蒼とした森の色が増えていく。

 お尻は痛いし、風は冷たい。道中の食事は、石のように硬い黒パンと水だけだった。


 しかし、リアナは荷車の上で毛布にくるまりながら、これまでの人生で最も深い眠りに落ちていた。

 四時間連続で眠り、目が覚めた時、リアナは「寝坊した! 決裁書が間に合わない!」と青ざめて飛び起きた。しかし、周囲にあるのは森の木々と空だけだ。自分が左遷されたことを思い出し、安堵で深くため息をついた。

 

 “辺境のブラック騎士団”。

 怖い。危険。運が悪ければ死ぬかもしれない。

 けれど――王宮に戻るよりは、ずっとましなのではないか。


 王宮にいれば、確実に死ぬ。いつか、そう遠くない未来に、過労という名の病で。

 辺境なら、まだ“死ぬ理由”が明確だ。魔物に喰われる。戦場の流れ弾。事故。理不尽ではあるが、少なくとも、他人の尻拭いのための帳簿の山に潰されて死ぬよりは……。


 いや、違う。

 リアナは、ひどく真面目に自分の思考を訂正した。


 私は、死にたくない。

 ただ、眠りたいのだ。

 ただ、休みたいのだ。

 ただ、日が落ちる前にその日の仕事を終えて――温かいお茶を淹れて、本を読みながらゆっくり飲みたい。


 そんなささやかな贅沢を思い浮かべた途端、喉の奥がツンと痛くなった。

 贅沢ではないはずだ。人間としての、当たり前の権利だ。けれど、その当たり前は、王宮では決して許されなかった。

 だから。もし辺境の地で、それがほんの少しでも叶うなら。

 そこが血みどろの地獄でも――私は、這いつくばってでもそこにしがみつく。


◇◇◇


 数日後。

 空気が、明確に変わった。

 肌を刺す風が鋭く冷たい。土と山の匂いに混じって、遠くで獣の鳴き声――いや、違う。もっと低く、腹の底を這いずるような不快な咆哮が風に乗って聞こえてくる。

 「魔物の気配」というものがあるとすれば、間違いなくこれだ。


 荷車が止まり、ずっと無口だった御者が、前方を顎でしゃくって言った。

「着いたぞ、お嬢ちゃん。……ここが辺境防衛騎士団の駐屯地だ。生きて帰りたきゃ、門の中からは絶対に出るなよ」


 リアナは毛布を丁寧に畳み、少ない荷物を抱えて外に出た。

 目の前にそびえ立っていたのは、美しい城壁などではなかった。巨大な丸太を組み合わせ、黒ずんだ鉄板で補強された無骨な防壁。そこかしこに、巨大な爪痕や炎で焦げた跡が残っている。

 門の上には、血のように赤い旗がはためき、騎士団の紋章――交差する剣と盾、そして牙を剥く狼の頭が描かれていた。


 門番を務める騎士は、鎧の上からでも分かるほど丸太のように太い腕をしていた。顔には額から頬にかけて古い刀傷が走り、獲物を狙う鷹のような鋭い目つきをしている。王都のひ弱な近衛兵とは違う、本物の“死線”をくぐり抜けてきた者の覇気。噂通りの恐ろしい場所だった。


「あんた、文官か?」

「はい。王命により、本日付で着任いたしました。リアナ・アルフェルトと申します」


 リアナが名乗ると、巨漢の門番は信じられないものを見るように眉をひそめた。


「はっ……伯爵令嬢だと? 本気か? 王宮の連中は、ついにこんな細腕の女まで嫌がらせで送り込んできやがったのか」

「冗談や嫌がらせではありません。辞令も持参しております」


 重い音を立てて、門が開く。

 駐屯地の中は、意外なほど整頓されていた。少なくとも、外見の荒々しさから想像するような無法地帯ではない。土を固めた広い訓練場、整備された武器庫、兵站倉庫、そして簡素な木造の宿舎。騎士たちの動きは慌ただしいが、無秩序ではなかった。

 ただ――すれ違う者全員の目つきが、ぎらついていた。いつ警報が鳴っても剣を抜けるように、神経が張り詰めている。

 文字通り、命を削る場所なのだ。


 リアナは、ぐっと背筋を伸ばした。それは貴族令嬢としての虚栄心や矜持ではない。ここで生き残るための、彼女なりの武装だった。


 案内役の片目の騎士が、無言で先を歩く。リアナはその大きな背中について行き、一番奥にある、ひと際頑丈な執務棟へと足を踏み入れた。

 重厚な扉の前で騎士が立ち止まり、振り返って短く告げた。


「団長が中でお待ちだ。……悪いようにはされねえだろうが、覚悟はしとけ」


 覚悟。

 またその言葉だ。

 リアナは、心の中で小さく、自嘲気味に笑った。


 王宮でも、毎日覚悟していた。

 永遠に終わらない仕事量への覚悟。休日が潰れる覚悟。誰にも感謝されない覚悟。そして、若くして過労死する覚悟。

 辺境で求められる覚悟が、果たしてそれよりも重いと、誰が決めたのだろうか。


 軋む音とともに、扉が開かれた。


 執務室の中にいたのは、一人の男だった。

 漆黒の軍服の上に、無造作に羽織られた外套。肩から背中にかけての筋肉は、服の上からでも威圧感を感じるほどに厚く、研ぎ澄まされている。机の傍らに立てかけられた大剣は、決して儀礼用の装飾品ではない。幾多の血を吸ってきた本物の得物だ。

 銀色の髪の間から覗く、氷のように冷たく、そして全てを見透かすような鋭い金の瞳が、入室してきたリアナを真っ直ぐに射抜いた。


 “冷血団長”レオンハルト。

 魔物よりも恐ろしいと囁かれる男の噂が、目の前の威容とぴたりと重なる。


 男は、椅子から立ち上がることなく、地を這うような低い声で言った。


「――伯爵令嬢リアナ・アルフェルト」


 名前をフルネームで呼ばれた瞬間、なぜかリアナの胸の奥が少しだけ落ち着いた。

 名を、正しく呼ぶ。王宮では、誰もが「お前」か「リアナ」と呼び捨てにするか、あるいは「おい」と雑な言葉で済ませていた。この恐ろしい男は、敵意を込めているかもしれないが、少なくとも一人の人間として自分を認識している。


 レオンハルトは、薄い唇をわずかに動かし、容赦のない言葉を叩きつけた。


「ここは戦場だ。お前のような貴族の小娘がピクニック気分で来る場所ではない。書類に埋もれて過労で死にたいなら止めないが――」


 金の瞳が、さらに鋭く細められる。室内の温度が、数度下がったような錯覚を覚えた。


「――ここで働く覚悟はできているか?」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
睡眠2時間が半年…設定だとしても、もう遥か高みに 上っているのではと思いますが。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ