バビロン講和条約
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──バビロン講和条約
講和会議にはコルホネン大統領自らがバビロンに乗り込んで行われた。
コルホネン大統領を乗せた輸送機はバビロンの空港に着陸し、魔王陸軍の儀仗兵たちによる僅かに出迎えを受けた。
「我々は講和の条件を全面的に受け入れる準備があります」
会議の冒頭で魔王国側から改めてサルミヤルヴィ地方とアークティラの割譲が求められるのにコルホネン大統領は重々しくそう述べた。
彼に交渉できることはなかった。
ルオタニア軍は崩壊寸前で、魔王軍はすでにサルミヤルヴィ地方とアークティラを占領している。
ここで相手に講和条件を甘くするように求めて講和交渉が長引き、休戦が定められた日時をすぎてしまえばノルトハーヴンは火の海になるのだから。
「では、サインを」
モロゾヴァ外務大臣が促し、コルホネン大統領が講和文書に調印する。
見るも痛ましい姿であり、列席しいたヴァヴェルは慰めの言葉でもかけたかったが、それはリュドミラによって禁止されていた。
今、コルホネン大統領と魔王国が親しくしていると思われるのは不味いのだと。
ルオタニア共和国内で軍の一部の右派勢力がコルホネン大統領を相手にクーデターを起こし、講和を阻止しようとする動きがあることを国家保安委員会が掴んでいたのだ。
ここでコルホネン大統領と魔王であるヴァヴェルが親しくすれば、せっかくの講和がおじゃんになってしまう。
「これから平和を望む」
ゆえにヴァヴェルはコルホネン大統領にそう伝えるにとどまった。
それから魔王軍はサルミヤルヴィ地方とアークティラまで兵力を撤退させ、ルオタニア共和国には苦い平和が訪れたのだった。
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バビロン講和条約の締結は各国に様々な影響を与えた。
当然ながらその影響をもっとも受けたのは魔王国とルオタニア共和国だ。
魔王国では民衆が勝利に酔っていた。
『魔王国、ルオタニアを破る!』
国家保安委員会が検閲している新聞は一面で勝利を大々的に報じており、それがお祭りムードを引き起こしていた。
多くの職場が国に許可されて戦勝記念日を祝うための祝日になり、魔族たちはウォッカを手に勝利を祝った。
しかしながら、その勝利に酔っていないものたちもいる。
それは軍部だ。
軍はルオタニアとの実戦を通じて、課題ができたことを認識していた。
ひとつは戦車の扱い方、もうひとつは空戦ドクトリンの在り方である。
魔王陸軍参謀本部は砲兵と歩兵に関しては問題ない完成度であったと評価しているが、戦車に関しては改善の余地ありとみていた。
というのも、この戦争では戦車がこれまでの想定を大きく崩したふたつの戦局があったからだ。
ひとつはソコロフスキー大将が強行したアークティラアへの突撃、もうひとつはカッリオ戦闘団による反転攻勢だ。
アークティラへの突撃では戦車の速度に歩兵が合わせることによって想定上の速度での進軍が達成され、アークティラ方面での損害の低下に貢献していた。
そのことを聞いたヴァヴェルもこの勝利を讃えており、さらにいえばヴァヴェルは魔王軍への戦車配備にもっとも熱心な人物だ。
カッリオ戦闘団による反転攻勢も大きな事態だった。
カッリオ戦闘団が僅か1個中隊の戦車と歩兵で魔王軍に迫ったのに、魔王軍が大混乱に落ちいり、第7軍司令部は慌てて逃げだすような羽目になっていたのだから。
もし、あのままカッリオ戦闘団が後方に突撃していれば……魔王軍の戦線は崩壊した可能性すらもある。
「つまりは、だ」
ジューコフ元帥が参謀たちに告げる。
「戦車は歩兵の支援にばかり従事させるより、戦車そのものの強みを生かすべきなのかもしれないというわけだ」
戦車の他の兵科にはない強みというのは一定以上の火力と防護力が、機動力を伴って存在しているという点だろう。
火力だけならば砲兵も有するし、機動力ならば姿を消した騎兵がいる。
だが、その両方を同時に持つというのは戦車だけだ。
「現在は戦車は自動車化狙撃兵師団を中心に分散して配備されていますが、この編成を改めますか?」
参謀のひとりがそう提案する。
「ソコロフスキー大将が成功した運用方法を見れば、現在の師団編成でも間違いはないだろう。だが、純粋な歩兵師団からは戦車を取り除き、機械化されている自動車化狙撃兵師団に集中させるべきかもしれない。戦車の速度についていける歩兵がいなければ、戦車だけで突破を行うのは無謀だ」
新たに戦車師団を編成するかどうかという話だったが、それは必要ないとジューコフ元帥は見ていた。
魔王国では自動車化狙撃兵師団が事実上の戦車師団になっている。
下手に師団の編成をいじって現場に混乱を呼びたくないという点からも、今の編成のままということになった。
「しかし、ドクトリンは大幅に改善せねばならない。我々はこれからは一番足の遅い歩兵に合わせるのではなく、もっとも速い戦車に合わせるのだ」
魔王陸軍でさらに課題となったのはA-26軽戦車の脆弱さである。
ヴュルガー軍団の戦車と交戦した際に口径45ミリ砲では威力不足であったり、装甲がいとも簡単に抜かれたりしたことが相次いだことから、魔王陸軍はこれ以上のA-26軽戦車の生産をやめ、後継となる中戦車と重戦車に完全にシフトさせることにした。
今も軍に残るA-26軽戦車は訓練車両にするほか、ある使い道が考えられている。
「急がなければならないぞ。敵戦車はそれなりに優秀だ」
ジューコフ元帥はそう言い、今回ヴュルガー軍団が使用したアルトライヒ帝国のルクス中戦車についての資料を見た。
* * * *
屈辱的な敗北を迎えたルオタニア共和国でも動きはあった。
これは大勢の市民が動員されて従軍した戦争だった。
まずは兵士たちを家に帰すことからルオタニア軍は始め、兵士たちはそれぞれの家に戻っていく。
「お帰りなさい、パパ!」
「ああ。ただいまだ」
父が、夫が、兄弟が、子が生きて戻ってきたことに喜ぶ場面がルオタニア共和国のあちこちで広がる。
たが、それと同じくらい大事な家族が帰ってこないことに悲しむ家庭の姿があった。
「我々は汎人類条約機構への加盟を急ぐべきだ」
敗戦の責任を取る形でのコルホネン大統領の退陣はほぼ決まった中、ルオタニア共和国議会では汎人類条約機構への加盟が急がれていた。
この戦争が起きた原因は魔王国の領土的野心にほかならず、アルトライヒ帝国などと最初から同盟していれば防げたのだという意見が議会では見られた。
もちろんそのような意見は後出しじゃんけんに等しいが、これでルオタニア共和国の汎人類条約機構への加盟は確実なものとなっていた。
戦争が終わった今ならばアルトライヒ帝国も加盟を歓迎するだろう。
「我々は新しい戦争への備えができていなかった」
リンドホルム元帥は戦争を終えたのちに議会に呼ばれてそう証言する。
「現代の戦いに必要な戦車や航空機が我が国では致命的に不足していた。それが魔王国が開戦を決断する一因になったものと思われる」
リンドホルム元帥はそう議会で延べ、新しい装備の購入を促した。
これを受けてルオタニア共和国はブリタニア連合王国から活躍したケストレルMk.II戦闘機の購入を、アルトライヒ帝国からルクス中戦車の購入を決定する。
この戦争で証明されたように戦争が始まってから装備を購入することは難しい。
国防とは平時に備えておなければならないものなのだ。
また、この敗北の日にルオタニア共和国の国民の多くは悲しみと、そして僅かな復讐心に燃えた。
もし、魔王国にやり返す機会があるならば喜んでそれを選ぼうという意識が国民の中で形成されていったのだ。
そのことはこれからのルオタニア共和国の将来を左右することになる。
* * * *
ルオタニア共和国の敗戦の知らせに動揺したのは、レヒスタン共和国だった。
西で全面的に魔王国と国境を接するこの国はルオタニア共和国の敗北に次は自分たちが攻め込まれるのではないかと、そう危惧し始めていた。
レヒスタン共和国はアルトライヒ帝国主導の汎人類条約機構に加盟してるが、彼らはそのアルトライヒ帝国が支援したルオタニア共和国が敗北したのを目にした。
そこでアルトライヒ帝国との同盟が完全に自分たちを守ってくれるのだろうかという疑問が生じてくる。
タデウシュ・レヴァンドフスキ首相はそのことに思い悩んできた。
「アルトライヒ帝国の支援だけでは我々は祖国を守れないのではないか?」
レヴァンドフスキ首相はそう率直に陸軍参謀総長であるミハウ・カチマレク元帥に尋ねた。
カチマレク元帥は魔王国内戦時に魔王国に侵攻し、魔王国に奪われて久しかったリヴィル地方を奪還した功績がある。
「その可能性はあります。そもそも他国任せで国防を行うというのは無責任です。国防はその国の人間が原則として責任を持たなければ」
首相の公邸に招かれているカチマレク元帥はそう述べ、出された紅茶出喉を潤す。
「では、元帥。必要なものは何だ?」
「戦車に戦闘機と言い出せばキリがありません。ルオタニア戦争の報告書は受け取りましたが、魔王軍は陸空の両方でルオタニア軍を圧倒していたようですから。正直、ルオタニア軍と我々では数が違うだけで装備の質そのものは団栗の背比べです」
「ふむ。軍拡が必要だというわけか……」
「ええ。可能であれば。ですが、外交的努力もしていただきたい。魔王国は今回の講和会議を見ても、昔のように完全に人類を攻め滅ぼしてやると思っている連中ではなさそうですぞ」
「その印象は確かに受けた」
魔王国は昔は人類を敵視し、隙あらば攻め滅ぼそうとする邪悪そのものだった。
だが、今回の講和会議ではむしろうと思えばもっとルオタニア共和国からむしれただろうにサルミヤルヴィ地方とアークティラの割譲にとどまっている。
「外務大臣を一度バビロンに派遣するべきかもしれないな……」
レヴァンドフスキ首相はそう言い、冷めた紅茶に口を付けた。
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