裏路地の惨状と運命の予感
トウヤが足を止めたのは、酒場の裏口からさらに奥まった、ほとんど人目につかないゴミ捨て場の脇だった。そこは常に湿気がこもり、壁には苔が生え、薄暗い。
その一角、崩れかけた木箱の陰に、一人の少女がうずくまっていた。
少女は、まるで穢れを知らない人形のように、驚くほど美しかった。しかし、その姿は周囲の惨状と異様に乖離していた。彼女が身に纏うのは、本来は淡い紫色の光沢を放っていたであろう、最高級の仕立てのドレス。だが、今は泥と油で汚れ、生地は引き裂かれ、見るも無残な状態だ。
トウヤの脳裏に、強烈な「警報」が鳴り響いた。
(間違いない。この服装、この顔立ち……平民ではない。しかも、この逃げたばかりの惨状。これは、王国の最重要スキャンダルだ)
彼は、転移前に知識として持っていた「ライトノベル」の物語設定を、恐る恐る現実と重ね合わせた。もし彼の予感が正しければ、目の前の少女は、物語のヒロインを虐げたとして、つい数日前に断罪され、地位と権力を全て失った「悪役令嬢」である可能性が極めて高い。
恐怖が、トウヤの腹の底から湧き上がってきた。関われば、日雇いの安息どころか、彼の存在そのものが王国によって抹消される。ここは、見て見ぬふりをして立ち去るのが、チートなしの一般人が異世界で生き残るための唯一の正解だ。
しかし、トウヤは動けなかった。
少女の髪は乱れ、顔色は青白い。額には浅い擦り傷があり、何よりも、上質な布の隙間から覗く手首と足首には、荒々しく拘束具を引きちぎったような赤く痛々しい痕跡が残っていた。それは、彼女がただ追放されただけでなく、過酷な監禁から命がけで逃れてきたことを雄弁に物語っていた。
(このまま放っておいたら、彼女はここで死ぬ。追手に捕まれば、どんな惨い目に遭うか……)
トウヤの心は、生存本能とささやかな倫理観との間で激しく揺れた。この世界の理不尽な運命に弾き出され、今にも消えそうな命を前に、「見て見ぬふり」をすることは、彼自身の人間性を殺す行為に等しかった。
トウヤは、重い決断を下した。彼は、自らの平凡な人生に、この王国の巨大な闇を背負い込む覚悟を決めた。彼のチートのない人生に、最も危険な「物語」が、今、唐突に割り込んできたのだ。彼は周囲を警戒し、少女にゆっくりと近づいた。




