かつて世界を救った勇者はどこに?
かつて、世界は滅びかけていた。
魔王〈ヴァル=ゼル〉の侵攻により、人も獣も、国も森も、光を失いかけていた。
そのとき、一人の若者が現れた。
名をライエル・オルド。
無名の村に生まれ、父も母も知らぬ孤児だったが、聖剣に選ばれた彼は世界の命運を背負い、仲間たちと共に魔王を打ち滅ぼした。
その日から人々は彼を「英雄」「救済者」「神の子」と呼び、各地の王は彼に城や財宝を与えようとした。
だが、ライエルは何も受け取らなかった。ただ一言、静かにこう言って姿を消したのだ。
――「人々が笑って暮らせるなら、それで十分だ」
それから三十年が過ぎた。
*
ライエルは今、小さな村の外れで独り、古びた小屋に住んでいる。
畑を耕し、山から水を引き、薪を割り、野菜と卵を市場に売る日々。
街に降りても彼を知る者はほとんどいない。
年老いた者で、時折「ああ、昔そんな人がいたような……」と呟く程度だ。
「……世界を救ったのは勇者様じゃなく、国の軍だったって話さ。今じゃどこの国もそう教えてる」
ある日、露店の少年がそう話していたのを耳にした。
ライエルは、黙っていた。怒りも、悲しみも、湧かなかった。ただ、少しだけ、風が冷たく感じられた。
*
ある冬の日のことだ。
村の入り口に、一人の若い兵士が立っていた。まだ二十代前半だろう、凛々しい鎧をまとい、顔立ちはどこかライエルに似ていた。
「……ここに、かつての勇者様がいると聞きました」
その言葉に、村の者は首をかしげた。
「勇者? そんなもん、もう何十年も前の話だろう」「たぶん爺さんの作り話じゃねえか?」
兵士は諦めず、やがてライエルの小屋に辿り着いた。
小屋の前で薪を割る老人に、彼は深く頭を下げた。
「あなたが……ライエル・オルド様、ですね?」
「……そう名乗っていた時期も、あったな」
ライエルは、しばらく振りに口にした自らの名に、ほんの少しだけ眉を寄せた。
「私は〈セリオ・オルド〉と申します。……あなたの、孫にあたる者です」
薪割りの手が止まる。
「母から聞きました。あなたは若き日に姿を消したと。英雄だった、と。……でも、どの書物にも、あなたの名は載っていませんでした。歴史から……消されているのです」
ライエルはゆっくりと斧を下ろした。
「それで、私に何の用だ?」
セリオは、手提げの袋から一冊の本を取り出した。それは手作りの書物で、表紙には『黄昏の剣 ライエル伝』と書かれていた。
「……母と、私と、そして幾人かの者が集めた記録です。あなたの旅路、仲間、戦い、言葉のすべてを……後世に残したくて」
「なぜそんなことを」
「……世界を救ったのは、間違いなくあなたです。私の中の誇りです。だから、せめて記憶に刻みたかった」
ライエルは本を手に取り、ページをめくった。
懐かしい名が並んでいた。
ガルドの笑顔、フィーナの歌声、師匠の杖、夜空の誓い、仲間の死、そして最後の戦い――。
「……よく覚えているものだ」
「あなたの仲間の末裔たちが協力してくれました。私と同じように……祖の偉業を忘れたくないと」
ライエルの指先が、本の一枚を震わせる。
そのページに描かれていたのは、一枚の古びた剣の絵だった。
彼が魔王を倒した聖剣、〈ラステリア〉。
「……もう、その剣はどこにもない。私が折った」
セリオは目を見開いた。
「どうして……?」
「剣は、争いを呼ぶ。私が消えたあと、あれを巡って国がまた血を流すかもしれなかった」
「でも、それでは――」
「……もう十分だ。英雄など、長く生きてはいけない。神話は死んでこそ、美しい」
*
春が来るころ、ライエルは病に倒れた。
村の者は「ただの風邪だ」と笑っていたが、セリオだけは分かっていた。
それが、最期の時だということを。
小屋の中、ライエルは木のベッドに横たわり、セリオに向かって笑った。
「……お前は、強いな。私より、ずっと……」
「そんなこと……」
「もう一度だけ……あの空が見たい。あの日、魔王を倒した後……皆と見た、青い空を」
セリオは窓を開けた。外は晴天。
風が、遠くの山から春の香りを運んできた。
そして、ライエルは穏やかに目を閉じた。
*
ライエル・オルド。
英雄にして、名もなき老人。
世界を救い、忘れ去られた者。
彼の墓は、草原の奥、一本の桜の下にある。
墓標にはただひとこと――
『ここに、ひとりの人間が眠る』
彼の名を知る者は少ない。
だが、彼の生き様を知る者の中で、記憶は燃え続ける。
英雄は、やがて黄昏に還る。
だがその剣の光は、誰かの心で、確かに生きているのだ。