口実
「よかった、冬春夏子がヒマで」
高校生の依頼人、門倉亜美はそう言い残して昨日の午前中このオフィスを出て行った。
私がヒマなおかげで、翌日の今日、作戦が決行できる。
現場を下見は昨日終えた。私の頭の中は嵐が通り過ぎた後のようにとっちらかって、収穫はゼロ。原宿駅から表参道の交差点まで、考え事をして往復しただけ。
どうもしっくりこない。嫌な予感がする。
想定ができれば危険は回避できる。依頼人の目的が果たせなければ、私の力不足だ。罵られるのは慣れている。問題はそこじゃない、モヤモヤする。
「奇妙な視線」というくらいだから、その正体は気持ちのいいものではないだろう。世の中には知らなくていいことはいくらでもあるが、知りたい気持ちに蓋はできない。自分でよくわかっているつもりだ。そして、自分の好奇心で誰かを問い詰め、重い口を開かせるなら、聞く側にも話す側にも覚悟がいる。その覚悟もないまま行動を起こせば、結末はきっとろくでもない。
門倉亜美に私のところへ行くように指示したのは、姉の鈴村まどか。しかも調査費用まで彼女持ち。助言ですむなら、身内がするべきだろう。私は仕事として関ることになった。依頼人の望むことをするのが私の仕事で、その結果依頼人が幸せにならなくても私が気にすることではない。つまり、私にとっては知らなくていい話だ。ただ、今回の依頼人は未成年。私は彼女に対し大人として接するべきじゃないか、と考えてしまう。本当にこれでいい?
私が彼女の年齢の頃に、大人から「そんなもの、気にしなければいい」と助言されておとなしく引き下がれたか? まさか! 自分にできなかったことを若い子に強要するなんて大人のすることじゃない。やはり、依頼を引き受ける以外の選択肢はない。おそらく、私の漠然とした不安が顕在化するのは依頼人の目的を果たした後だろう。姉妹の関係がこじれるとか、友人の友情に亀裂が生じるとか、人間関係が悪い方へ変化するだろうという、根拠のない予感。
「やっぱりヒマそうね、冬春夏子」ノックもせずドアを開けて制服姿の門倉亜美は言った。私は、昨日彼女に教えてもらったザ・カーズの「Just What I Needed」をYouTubeのループ再生でぼうっと見ていた。
「ヒマそうって、あなたを待っていたんじゃない?」そう言いながら、私はスマホのYouTubeを閉じた。時刻は15:58。
「友だち連れてきたわ、竹内園美ちゃん」
「こんにちは、よろしくお願いします」同じ制服を着た友人は、肌の色の白さが際立っていた。顔のパーツはすべて小さいが、赤い縁の眼鏡のおかげで、おそらく目が少し大きく見える。顔そのものも小さい。髪はポニーテール、身長は友人より5センチほど低い。見た目は真面目ちゃん…。
「来てくれてありがとう、って言えばいいかな…、二人を決して危険な目にあわさないよう今日は最善を尽くします」私は言った。
「それでジャージ?」濃緑色のフレッド・ペリーのトラックスーツの上下。今日の私の格好を見て門倉亜美は笑った。「いつでも逃げられるように?」
「まさか、万が一の時は体を張ってでも二人を逃がさないといけない、そのためのアタイアよ」
「もしかしてビビってるの?」
「そうよ」
「ダサ!」
「これでもあなたが生きた時間の半分近くは探偵という仕事をしているの、最初の頃は危険がどういうものか知らないから怖いものもない、経験を積めば積むほど、自分は何も知らないことがわかって、怖いものがどんどん増える、だから、ビビってるくらいがちょうどいい。神経が過敏になるから」
「へえ、そうなの?」
「それより、今日は奇妙な視線を感じた?」
彼女は返事をする代わりに首を横に振った。
「園美ちゃん」私は竹内園美に言った。「怖かったら断っていいわ」
「大丈夫です、私はあーみんにいつも助けてもらってるから」
私は竹内園美の眼をじっと見た。表情一つ変えない。言葉でも表情でも肝心なことは何も表に出そうはしない。まあいいでしょう。自分の意思で行動してるみたいだから。
「わかったわ」私は二人に言った。「いろいろ検討したけど、オーソドックスにスマホを使いましょう、二人は一緒に行動して、私は二人を見てる、亜美ちゃんは気配に集中して、その間私と園美ちゃんはスマホでずっと通話しましょう」
「あーみんでいいよ」私にそう言うと、門倉亜美は友人の方を向き、「あーみんは英語でオコジョ、オコジョはすごく獰猛だって冬春夏子が教えてくれた? この探偵ひどくない?」と笑顔を浮かべた。
「ひどいね」竹内園美はそう返すと、ここに来て初めて笑顔を浮かべた。
私はオフィスのスマホを1台、竹内園美に渡した。彼女はそのスマホでずっと私と通話をしながら、門倉亜美と並んでゆっくりと表参道を下っていく。私は二人の姿を後ろから追いかけるが、店のウィンドーの前で立ち止まったり、時々彼女たちを追いこしたり、とにかく二人と同じペースでは歩かないようにする。
二人の後ろ姿は眩しかった。一人でいるときは将来に対する不安がいっぱいでも、友達といるときは世界中のすべてを味方にできるかのように堂々とを振る舞える。微笑ましいと同時に、儚くて寂しい。彼女たちに目が行くのは仕方がないことだとも感じる。その視線が奇妙なものであるとしても。どのように奇妙なのだろう? 私はやはり知りたい。
「異常ありません」
「了解、とにかく気を付けて」
私も竹内園美も同じ言葉を繰り返している。
やがて二人はチェーンのカフェの前で足を止め、そちらを向いた。
「どうしたの?」
「あーみんが見つけたみたいです」竹内園美の声が答えると同時に、門倉亜美は建物の3階あたりを指さした。
「やめて、危ないから指なんか差さないように言って」
「大丈夫」会話の相手が門倉亜美に代った。「これは私に視線を集めるためのカモフラージュ、1階のカフェに私の探してるものがある」
「そこにいて」
「いま目が合った」
「どんな人?」
「おばさん」
「え?」
「奇妙な視線の正体はあの人、近づいてみる」
「ダメ、動かないで」
「この国でいきなり撃たれることはないでしょう?」二人はカフェの中に入っていく。
「電話切らないでよ」私はフレッド・ペリーのジャージの上下で全力疾走をした。
カフェのドアを開けると、満席の店内をゆっくりと歩く二人がすぐに見つかる。
「どの人?」私はスマホ越しに訊いた。
「窓際に一人で座ってる黒い服のおばさんです」会話の相手が竹内園美に戻った。窓際に眼をやると、黒い服の女がテーブル席に一人で座っている。茶色の前髪が目元を隠しているが、たぶん二人を見ている。年齢は私よりは明らかに上だが、いくつなのだろう…? 私はカップを持つ彼女の手に眼をやった。違う!
「園美ちゃん、亜美ちゃんと一緒にいますぐ後ろを振り向いて、私とは目を合わさないで」
二人は私の指示に従った。「なに?」怪訝そうな門倉亜美の声がスマホから聞こえる。
「あなたのリアクションを見せたくなかったの、おばさんじゃない、あれは男性の手、ここからは私に任せて、大丈夫、やり方があるわ」
「どんな?」
質問には答えず電話を切った。私はつかつかと歩き、彼の向かいに座ると同時に、用意した名刺を差し出した。
「私立探偵の冬春夏子と申します」私は穏やかに囁いた。
「私立探偵」と書かれた名刺を見せられて、怒ったり声を荒げたりといったリアクションはまず返って来ない。誰でも多少は脛に傷がある身だ。周囲の視線と聞き耳を気にして、たいがいは落ち着いて会話の相手になってくれる。
私はジャージのポケットからボールペンを取り出し、自分の名刺の裏に走り書きをした。
「あなたの女装癖の件で調査依頼を受けています」もちろん嘘。
女装した男の口元がピクリと動いた。ここからは普通に会話ができる。
「ここでもいいですが、私のオフィスはすぐ近くです。御足労いただいてオフィスで話しませんか? 心配しなくていいです、この時間は事務所には私しかいません」私は少し間をおいて言葉を継いだ。
「ただカメラはあります、所長は警察のOBなので、万が一私に危害をくわえようとするならすぐに警察につながります。一応、事務所で依頼人以外の方と面会するときの決まり文句です、あなたがそういうことをする人だとは思っていません」
「…わかりました」男は男声でそう発するとはゆっくりと立ち上がり、椅子の横においたハンドバッグとテーブルの上のコーヒーを手に私の顔を見た。「行きましょうか?」
男がコーヒーの始末をしている間に、私は竹内園美に渡したスマホに電話をして、「二人で話すから今日のところは帰って」と告げ、返事も聞かずに電話を切った。
遠目には女に見える黒ずくめの小柄な男と、濃緑色のトラックスーツの上下を着た女は、店を出ると、無言で適度な距離を保ったまま並んでゆっくりと表参道を上った。
上り坂の途中で、知っている顔が二つ現れた。私は表情と手ぶりでどくように合図をしたが、こちらを見たのは竹内園美だけ、依頼人の門倉亜美は私の横を歩く男の顔をじっと見ている。落胆しているようにも怒っているようにも見えない。
男の足が止まる。私は彼を見たが、彼は私を見ないで言った。
「まさか依頼人はあの子たち?」
私は軽くため息をつき、逆に訊いた。「心当たりでも?」
男は足を止めたままじっと二人を見ている。私は胸の前で腕を組み、彼の反応を待っている。
「僕に興味を持ってくれるとは驚きだなあ」男は奇妙なことを言う。
「とりあえず」私は言葉を返す、「あなたに接触したことは間違いではなかったみたい、そこはよかった、ただ彼女たちがあなたに興味を持っているとは言ってないわ」
「じゃあ、なんですか? 僕は法に触れるようなことは何もしてませんよ」
「そうでしょうね、態度を見ていればわかるわ、あなたは二人と目が合った時も平然としていた、盗撮をするような人間なら対象者と目を合わすなんてできないわ」
「ああ、…僕は右目が見えないです、こっちは義眼ですよ」男が右目にかかった髪の毛をかきあげると、目元がきらりと光った。
まさか、門倉亜美が感じた奇妙な視線の正体は義眼の輝き?
だったら、私はごめんなさいした方がいいのか?
でも、この男が彼女を見て口が軽くなったのはどうして?
男の声が届いたわけでもないのに、二人はゆっくりとこちらへ歩いてくる。門倉亜美は表情一つ変えない。竹内園美は訝しむように首を少し曲げて口元が少しだけ開いている。私たちとの間が3メートルまで詰まり、これ以上近づくなら制しないといけないと思った時に、園美が口を開いた。
「海谷先生ですか?」
「僕の名前、知ってるんだ?」私の隣りの男の声のトーンが変わった。が、言葉が続かない。
「誰?」亜美が訊いた。
「予備校の先生」園美は平然と答える。門倉亜美が、竹内園美と一緒の時だけ奇妙な視線を感じたのには理由があったということだ。そして、その結果が片方の視力を失い、何らかの事情があって女装をしているこの小柄な男を侮辱している可能性もある。そうなったら、彼女たちは未成年。非があるなら私だ。やはり引き受けるべきではない案件に足を突っ込んでしまったのかもしれない。
「僕の授業を取ってるわけでもないのに、この格好でよくわかりましたね?」海谷先生と呼ばれた男は園美に言った。
「私、一度顔を見たら忘れないんです」
「へえ、そうなんだ…、やっと僕をわかってくれそうな人に会えた」
「どういうこと?」私は訊いた。
「そのまえに僕が訊きたい」彼は答えた。「どうして僕を調べたんです?」
「あなたを調べたわけじゃない、調べていたらあなたにたどりついた…」
「視線を感じたの」門倉亜美が私を遮った。「奇妙な視線だった」
「盗撮かと思った?」男は言葉を用意していたかのように訊いた。
「いいえ、絶対に盗撮じゃないと思った、だから探偵を雇ったわ」
「君が?」
「そう」
「意外だな…、僕の視線に気がつくなんて…」男は私に訊く。「僕の女装癖を調査していたというのは嘘か?」
「ごめんなさい、あなたに話を聞くための口実だった」
「へえ、僕の話を聞くための口実…」男はそこで一度言葉を止め、私たち三人の顔を一人ずつ見た。「僕は確かに二人を見ていた。知っている顔が眼の前を歩いていたからね、僕がやっていたことはそれだけ」男は竹内園美の顔を見た。「君は一度見た顔を忘れないと言ったけれどそれは写真記憶かな? 僕の場合は似てるけどちょっと違う、動画記憶なんだ、記憶をいつでも頭の中で再生できる、スマホのカメラは僕には必要ないんだ」つづいて門倉亜美に言った。「見たいものを見るのは当然のことだよ、僕は君を見た、君も僕を見た、外にいる以上誰かに見られることはしかたがない、そこには何の罪もない」最後に私を見た。「そこはわかってくれるよね?」
「ええ」私は答えた。
「ありがとう」女装した男は安堵の表情を浮かべている。まだ油断はできない。豹変する可能性はゼロではないから。
「とにかく、私のオフィスに行きましょう、二人は少し離れてついてきて」私は女子高生二人にそう指示をすると男に向かって言った。「ごめんなさい、あなたを信用しないわけじゃない、商売柄、簡単には気を許せないだけ」
男は何も言わず、私についてまた歩き出した。しばらく無言だったが、急に口を開いた。
「盗撮をしたことはないし、したいと思ったことはない…」
「そうでしょうね」私は相槌を入れた。
「いまやっと盗撮をする人間の気持ちが分かった気がする」
え? 私は睨むような視線を向けたが、男は私のリアクションなどにまったく興味がない様子で遠くを見ている。
少しだけでも二人を遠ざけておいてよかった。