繊細な自意識
すれ違った男たちの会話の端が私の耳に残る。
「あの女、生まれながらの嘘つきだ、地獄に落ちろ!」
「まあまあ、もう忘れようぜ」
二十代のサラリーマン風の二人。午前中から、フラれた女の話。怒りか、未練か、あるいはこれも愛の言葉か。彼女がふらっと現れないかな。どんな顔をしているのだろう。生まれながらの嘘つきと罵る側より、罵られる側の方がきっと毎日は楽しい。
綻びた糸が一本、スカートの裾から出ている。みっともない、オフィスに着いたら切ろう。誰かを心の中で嘲笑すると、いつもこんなふう。
表参道や明治通りに新しい店がオープンすれば人の流れが変わり、ショーウインドーのディスプレイが新しくなれば街の景色も移る。
「ここ、前は何だったっけ?」
「この前まで、どんなディスプレイだった?」
人間は簡単に記憶を消せる。街に同じ景色は二度と現れない。だから人が集まる。いつまでも変わらない景色には磁力がない。
竹下通りから少し入った場所にある5階建ての雑居ビルは、昭和が終わる寸前に建てられた何の印象もない地味な建物。都内のメインストリートから一歩入れば、すぐ脇の華やかさのおこぼれもない、新陳代謝の滞った通りがいくらでも見つかる。この建物も、この通りも、誰の記憶からも簡単に抜け落ちる典型的な東京の姿。
建物の二階に掲げられた「FOR RENT」の看板は明日も明後日も外されることはないだろう。このビルは古くて狭くて使い勝手が悪いのに、場所柄家賃だけはバカみたいに高い。
雑居ビルの入り口の横には目立たない看板が一つ。記載事項は「原宿探偵事務所は4階です」の文字と電話番号の10ケタの数字だけ。
建物に足を踏みいれるとすぐに、殺風景な灰色のエレベーターホールが現れる。向かって左がエレベーター、正面がクリーム色の金属のドア(クリーム色のクリームって本当にあるの?)、その向こうに階段。右側にシルバーの郵便受けと赤い火災報知器。その裏は三台分の駐車場。ビルの入り口にはセキュリティさえないのに、その右側の駐車場は色あせたターコイズブルーのシャッターで通りからは厳重に閉ざされている。
郵便受けを開けても、中は空っぽ。私は踵を返し、エレベーターの赤いドアの前に立つ。狭くて人間が二人横に並んで乗り込むには無理がある。3階に上がり、「原宿探偵事務所」という表札のかかったドアの鍵を開けた、
大学の頃に所長に出会わなければ、探偵になることもなかっただろう。子どもの頃から推理小説は好きだったけれど、将来の探偵という職業につながる線が見えたことは一度もない。「君はきっといい探偵になるよ」所長の言葉で私はその気になり、彼の推薦で、ある探偵事務所に就職をした。所長はもともと大手法律事務所のパートナー弁護士で、本業は大手企業と探偵事務所を顧客に持つコンサルティング会社の社長。1年前に大きな病気が見つかり、事務所を開店休業するのはもったいないと、雇われたのが私。所長は半年前から復帰したが、探偵としては個人的に依頼される案件を月に一件受けるか受けないかだ。この事務所に飛び込みでやってくる顧客の依頼は私が担当している。とはいっても、飛び込みの依頼も週に一件あれば良い方だ。ウェブサイトは信用を担保できる程度の見てくれはあるが、SEOもSNSもやっていないから集客力はゼロ。それでも時々、私を指名した依頼が来る。私はまったく有名人ではない。ただ、おせっかいで、人生を満喫していて、お金の心配のない大学時代の友人たちが、「貧乏な私立探偵が飢え死にしないよう」に、仕事を回してくれる。所長だって探偵の仕事をする必要もない。コンサルティングで十分すぎるほどの収入はあるし、半年間病気で仕事をまったくしなくてもコンサルティング会社の収益には一切の影響がなかった。
私の元勤務先の探偵事務所は、所長のコンサルティング会社の顧客でもある。そこの探偵は調査員という肩書だが、調査員の半分近くはハッカーだ。彼らはターゲットとなる個人のスマホやPCに侵入して、行動を調査している。企業からの依頼で昇進予定の社員の素行を調査し、企業の訴訟代理人となった弁護士事務所からの依頼で相手企業や相手の弁護士を調査して訴訟を有利に進める材料を見つける、都市伝説のような仕事。25年も前にその仕組みを作ったのが所長。ほとんどは調査の痕跡さえ残せない案件なので、信用こそすべて。顧客側も簡単に関係を切ることができない。
「冬春夏子は探偵とか向いてそう、口固いし」と学生の頃言っていた友人たちは、私が実際に探偵になると、そんな危険で不安定な仕事では、運動神経はたいしたことはないのに逃げ足だけは速く、ティーンエイジャーになった時点ですでに貧乏に対する耐性を身につけていた私でも、殺されるか飢え死にするのではないかと、バカにしながらも心配して仕事を作ってくれたりする。前の探偵事務所がそんな案件に携わっていることを私は口外しないし、もし今の事務所でこの先仕事が一つもとれなくても、所長は私が食うに困らないだけの給料は払ってくれるだろう。つまり私は、食うに困るわけではないのに、周りが勝手に見下してくれる。こういうのは楽でいい。自分を盛る必要もさらけ出す必要もないから。
デスクの引き出しから鋏を取り出して、スカートの裾の綻びた糸を切った。
換気のために窓を開け、椅子に座り、PCのスイッチをいれてしばらく考え事をしていると、珍しくドアをノックする音。
「どうぞ」と応答すると、ゆっくりとドアが開く。
この辺りで時々見かける、白い制服の女子高生が背筋を伸ばして入ってきた。明らかに私よりもメイクに時間をかけた小さな顔、肩まで伸ばした艶のある髪、短いチェックのスカートと黒いハイソックス。10年かあるいはもう少し前の私の友人たちの伝統を継承しているよう。つい見とれる。
閉めたドアの前で、彼女は私と視線を合わせて口を開いた。「あなたが探偵の冬春夏子?」口調ははっきりしているが、声が幼い。
「そうよ」私は返す。郵便受けにも表札にもウェブサイトにも私の名前は書いていない。誰かの紹介だろう。
「門倉亜美といいます、姉と大学の同級生だそうですね?」
「門倉…さん?」聞き覚えのない苗字。
「姉は鈴村まどか」
「ああ…」私は納得が行ったが、女子高生は私の反応がお気に召さないらしい。
「なあに、そのすべてがわかったような対応? 姉妹なのに名字が違うって驚いたりしてくれないの?」
「ごめんなさい、この前お姉さんから電話があったのよ、元気? って訊かれて、ええと答えたら、じゃあねって切られたわ」
「ああ…」彼女は明らかに私の口調を真似している。「元気だってわかればすぐに電話を切る、ただの生存確認、姉のやり口よ」
「なるほど」
「貧乏な探偵が、仕事がなくて野垂れ死にしていないか心配だったんじゃない?」
「仕事がないのは美徳よ、依頼人の要求にいつでも応えられるから」
「依頼人がいればの話でしょう? ねえ、冬春夏子、あなたってリアルでいい、だってドラマの主人公って貧乏な設定でも必ずブランドの洋服着てるのよ、本当に貧乏だったら買えるわけないのに、でもあなたは高そうな服は着てない、現実感があるわ」この子、最初からグイグイ来る。私を見て、でも決して背中は見ないで、と叫んでいるみたいに。
「それはどうも」私は余裕をかましてみた。
「ねえ、その服ポリエステルでしょう?」彼女はまだ来る。
「探偵は肉体労働なの、ストレッチが効いて動きやすいのよ、でもまいったわ、そんな言い方されるなんて」
「まさか、その服すごく高いなんて言わないでよ」
「言わないわ、…私は仕事柄目立ちたくない、誰かの印象に残るような恰好はしたくないの、そういう意味では最高の装いだと思っていたのに、あなたに突っ込まれた、私の上げ足を取りたくてうずうずしていたことを差し引いても、たいした感受性だわ」
「姉の言う通りね、冬春夏子は褒め上手だって、しかも変なところしか褒めてくれない」
「感受性が鋭いのは素晴らしいことだと思うけど」
「へえ」彼女は少しだけ嬉しそうな表情を見せた。
「私の母は鈴村の愛人だったの、昭和の言葉では私みたいなの、妾の娘って言うんでしょう?」
「みたいね、でも私も昭和生まれじゃない、あなたと同じ平成よ」
「どっちでもいい、…私は鈴村に認知してもらってるの、だから鈴村が亡くなったら姉と同じだけ財産がもらえる」
彼女が生意気な理由がわかってきた。こういう子は嫌いじゃない。
「2013年に民法が改正されてよかったわ」私は言った。「先人に感謝しないとね」
「ねえ」友人の妹は感謝などする気がないらしい。「将来、遺産目当てで姉を殺したくなったら上手くやってくれない? 報酬は弾むわ」
「残念だけど、それは探偵の仕事じゃないの、それがお望みなら他をあたって、それより目の前のことを話しましょう、私は何をすればいいのかしら? あなたのベビーシッティング?」
「それが依頼人に対する口のきき方?」
「悪いわね、未成年と契約するには保護者の同意が必要なの、友人の妹の相談ごととしてなら付き合うわ」
「筋は通すんだ?」
「もちろん」
「ねえ、ここ一人でやってるの?」
「まさか、所長は別の案件があって今日は来ないわ」
「他の人は?」
「私だけ」
「じゃあ、今は依頼がないってこと?」
「そうよ」
「たいへんだわ、ここつぶれちゃう、冬春夏子が失業しちゃう」
「ふふふ」私は微笑んだ。
「はい、これ」彼女はバッグの中から、白い封筒を一枚取り出して私に差し出した。
「何?」
「私も筋は通す、姉の同意書、印鑑証明付き」
封筒を中は三つ折りの鈴村まどかの印鑑証明と白い紙に書かれた手紙。
原宿探偵事務所 冬春夏子殿
妹である門倉亜美による貴殿への調査依頼の契約を保護者として同意いたします。
なお、調査に関わる費用の全額は、貴殿の請求通り全額私が支払いに応じます。
日付、住所、電話番号、鈴村まどかの名前と実印が押してある。しかもすべて達筆な手書きだ。
「あきれた…」私は唸った。
「どう? 仕事ができる女って感じで鼻につくでしょう?」
「まさか」
「報酬は冬春夏子の言い値で払うって書いてあるでしょう? 断る理由はないでしょう?」
依頼人の女子高生は自信満々の表情で私を見ている。
「わかりました、そちらのソファでお話を伺います。」私は依頼人に応対する口調に変えた。事務所はワンルーム。丸見えのソファの前にはパーテーションもない。
「プ!」相手は噴き出した。「感じ悪!」彼女は口をとがらせて言葉を継いだ。「冬春夏子はいい相棒になってくれると思ったのに」
「相棒?」
「そう、だからタメ口にして」
「お望みなら」私は彼女の顔を見たまま、指でソファの方向を指示した。彼女はわかったという表情を浮かべてソファに歩を進める。私は彼女に背を向けて、エスプレッソマシンに向かった。
ものごとを悪い方に考える癖がいまだに抜けない。子どもの頃は防衛本能からくるおまじないのようなものだった。最悪な状況は想定さえしていれば起こらない、最悪な状況とは想定していない状況のことなのだから、そのことを本能的にわかっていたのだと思う。それくらい私には悪いことしか起こらなかった。環境依存型のペシミストだった。今は違う。世の中なんて結局どうにかなってしまうもので、悩む価値さえない。それでも悪い方に考えるのは、それはそれで面白いかもしれないと期待するから。
私の言い値で報酬を支払うかあ…、鈴村まどかのように安定した大企業で働いている人間の視点に立てば、探偵など吹けば飛ぶような稼業だろう。いまだけはこちらの言い値で仕事を得ることができても、一年もしたら滑稽に思えるような金額をありがたがるようになるかもしれない、それが探偵稼業。いまは依頼がなくても人並の給料がもらえると強がったところで、後ろ盾がなくなれば真っ逆さまにアトラクターに向かって落ちていく。でも、悪い経験さえもしないよりはする方が人生は楽しいのかもしれない。そんな思いを巡らせながら、私はエスプレッソマシンから噴き出す蒸気を見ていた。
「へえ、いいソファじゃない」
コーヒーの入ったカップを手に振り返ると、依頼人はそのいいソファに浅く座り、私には関心がないかのようにスマホの画面を見つめていた。耳にはイヤホン。せわしない子。こんな隙間の時間でさえ、私のようにぼうっとすることなく動画で情報を収集している。
私の気配に気づいたのか、門倉亜美は顔をあげて、イヤホンを外した。
「コーヒー飲める? ダメなら他にするけど」
「コーヒーがいい」
「ああ、そう」
彼女のコーヒーをソファの前のテーブルに運ぶ途中で私は訊いた。「何を見てたの?」
「どう、カッコいいでしょう? この人がミュージシャンの中で一番イケメン」彼女は私にスマホの画面を見せる。
「誰?」
「ザ・カーズってバンドのベーシストのベンジャミン・オール、もう死んじゃったの、知ってる?」
「知らない、いつの人?」
「80年代前半かな? 生まれてたでしょう?」
「しつこいわね、1989年の1月まで昭和よ」
「聞いて」彼女はスマホから音楽を鳴らす。心地よいビートと声、新鮮な驚き。
「本当にいい」
「Just What I Needed、いい曲でしょう? 僕に必要なのは君だけなんだ、なんて冬春夏子は言われたことあるかしら?」
「こういう仕事してると隙のある女だと思われる、似たような言葉を何度か言われたわ、言葉なんてしょせん記号の組み合わせだから」
「ああ、私も冬春夏子みたいに面白い名前がよかったな」彼女は聞いていない、「秋がない、飽きが来ない…、私なんて門倉亜美、通称あーみん、平凡だもん」
「平凡とは思わないけど」
「でも、面白くはない」
「そうかしら? 門倉あーみんなんて強烈な名前よ」
「どこが?」
「“かどくら”って苗字には真ん中に“どく”が入ってる、気づいてた? それに、英語でアーミンと言ったら動物のオコジョのことよ、オコジョってわかる?」
「ああ、なんかかわいいやつ?」
「見た目はね、でも、あれほど凶暴な動物はいないらしいわ、食べるわけではないのに他の動物を殺す、殺戮マシーンよ、あなたが二次元の世界に没入して鎖鎌でも振り回してる姿が想像できる、とても魅力的よ」
「へえ、いつもそんなこと考えてんだ? だから貧乏でも楽しいんだ?」
「かもね」
「本当は姉から電話があった時、仕事の期待したんじゃない?」
「私は期待しない、何事にも、待っているのは疲れるから、連絡をもらったことはあなたがここに来るまで忘れてた、…それより早速本題に入りましょう、話して」
「奇妙な視線を感じたの」
「いつ?」
「高校から帰る途中、場所はこの近く」
「この近くって…、人はたくさんいるし、あなたみたいにかわいい高校生だったら視線を感じるのは当然よ」
「私だって、いちいち気にしてるわけじゃない、その視線は普通じゃなかった、なんかすごく無機質な感じがするの」
「カメラのレンズじゃない? 盗撮されてるとか?」
「盗撮されたことはある、でも違う、もっと得体のしれない感じ」
「センシティブな質問させてもらうけど、あなたはそんなに繊細なの?」
「そうみたい」
「自意識―」そこまで言いかけた時、彼女が言葉を遮った。
「自意識過剰って言いたいんでしょう? 違うわ、だってその視線が狙ってるのはきっと私じゃないから、友達よ、感じるのはその子と一緒の時だけ」
「じゃあ友達が狙われてるってこと?」
「たぶん」
「友達はどう言ってるの?」
「何も感じないって」
「じゃあ、狙われた本人が感じない奇妙な視線をあなたが感じて、正体を突き止めたいってこと?」
「そう」
「なぜそこまでこだわるの?」
「こだわったらいけないの?」
私は少し間を置いてから答えた。「いけなくない、いいわよ」
「ただ知りたい、それだけ、好奇心だけで行動する冬春夏子と一緒」
「なるほど」
「引き受けてくれるでしょう?」
「何をしてほしいの?」
「私と友達がおとりになるから、視線の正体を捕まえてほしい」
「おとりなんて、軽々しく口にしていい言葉じゃない」
「ビビってる?」
「ええ、ビビるわ、今のあなたには怖いものはないかもしれないし、それでもすべてがうまくいくかもしれない、でもね、経験を積むと怖いものが増えるのよ、自分だけならともかく、今回の仕事は依頼者やこの依頼を全く望んでいないかもしれない依頼者の友人を危険に晒す可能性もある、しかも二人は未成年、良識ある人間なら断るべきよ」
「でも、冬春夏子は良識がある人間ではないから断らないでしょう?」
「いい? 想定できるのは4通り。ケース1,ターゲットが現れない。空振りね。この場合は無料でいいわ。もし日をあらためて依頼したいならもう一度契約して。その時は空振りでも料金は請求する。ケース2は1日ですべて終わる。これが成功。ケース3はターゲットに逃げられて特定できない。これは失敗。ケース4はターゲットは特定できても奇妙な視線の正体がわからない。これが一番厄介よ。盗撮だったら証拠が出てくるけど、あなたは盗撮ではないと感じてる。つまり怪しい人物は特定できても、肝心な奇妙な視線の正体がわからない。このケースは、そうなってから考えた方がいいと思う。どうしても正体を掴みたいならターゲットを数日監視する必要があるかもしれないし、その後はもう私が出る幕ではないかもしれない。成功する保証はない」
「いいよ」
「やめる?」
「やめない、やってよ」
「本気なの?」
「当り前じゃない」
「学校は?」
「なに今頃言ってるのよ、サボってるに決まってるじゃない、プライオリティはこっちだから」
「呆れた、これから学校に行くなら受けるわ、それが条件」
「頭痛で遅刻するって連絡したから大丈夫、家庭が複雑だと先生が優しいのよ、冬春夏子ならよくわかるでしょう?」
「私のこと、お姉さんからどこまで聞いてるの?」
「子どもの頃父親が亡くなって貧乏な母子家庭で育った、でもおじさんが起業して成功して中学から大学まで私立で全然お金に困らなかった。貧乏と裕福の両方を経験して貧乏を選んだ女、でしょう?」
「いいわ、乗りましょう、契約書作るわ」私は立ち上がった。