第四話 蛍石(三/四)
ふと気づけば、その場に立ち尽くしていた。
もうこれで何度目だろう。さすがに苦笑すら浮かばず、この現象に気味の悪さを感じ始めていた。
視線は足元にある。今の信号は何色だろうか。内心でため息をつきつつも、そんなことを思いながら顔を上げると――
そこにあったのは思いがけない光景だった。
横断歩道の代わりに橋がある。真っ直ぐに続く橋板に、両端は赤く塗られた欄干。金具は金。それは間違いなく豪奢で立派な橋だった。
驚いて、思わず後ずさる。ためしに首を振ってみたり、頬を手のひらで叩いてみたりしたが、間違いようのない確かな感覚があった。これが夢であるとは思えない。
橋の向こう側は霧にかすんでいる。しかし、橋であるからには何かを渡すためのものだろう。そう考えて、欄干に近づきおそるおそる下をのぞいてみた。
そこにあったのは、たゆたう水面だ。大きな川か、それとも――
水の動きはゆったりとしていて、流れているのか、そうでないのか判然としない。よく見ると、そこには蓮の花が咲いていた。花弁の先端から徐々にピンクに染まった可憐な花が、緑の葉に囲まれて、水面からいくつも茎を伸ばしている。
幻想的な風景だ。しかし、その様子からは、ここがどこなのかという答えを得ることはできなかった。むしろ、こんな光景が近場にあった覚えもなく、自分の知識ではどこにいるのか全く見当もつかない。
視線を転じて後方へと目を向けてみると、そこにあったのは、意外にも普通の街並みだった。
ふと、誰かに見られている気がして、辺りを見回す。目の前に並んだ建物は背の低いありきたりなビルで、特におかしなところはない。しかし、あることに気づいて、ぞっとした。
窓という窓に人影がある。そして、皆そろってこちらを見ていた。表情は、はっきりとはわからない。しかし、どの人影も身じろぎもせずに、こちらの方をじっと見続けている。
思わず顔を背けた。しかし、そうしたらそうしたで追ってくる視線を幻視してしまい、どうにも居たたまれなくなってくる。それを避けるように歩き出すと、自然と橋のたもとへとたどり着いた。
伸びた橋の向こう――その先の霧が少しずつ晴れていく。橋が尽きるところは砂州になっているようで、白く煌めいて見えた。おだやかな風に霧を払われて、やがて姿を現したのはきらびやかな御殿だ。
輝く岸に建てられたそれは、透明な水の上に夢のように浮かんでいる。赤や黄、紫に緑と色あざやかな装飾が施されていて、およそ現実のものには思われなかった。
呆気にとられて、ぼんやりとながめていると、ふとそこに人影があることに気づく。それが誰なのかがわかった途端、思わず息をのんだ。
命を落としたはずのあの人が、生きていた頃の姿でそこにいる。
こんなことが、あるはずがない。そう思うと同時に、間違いなくあの人であることを確信していた。
向こうにいるあの人は、こちらに気づいてはいないようだ。しかし、あそこに行けば、もう一度あの人に会える。そんな考えが、呆然とした頭に浮かぶ。それでも――
でも、まだ。
――渡れない。
「私はまだ、渡れない」
確かめるように呟いて、橋から離れた。あの人の姿に背を向けて、振り切るように歩き出す。
建物の間に伸びた道を進んで、街の中へと入っていった。窓という窓から、自分の行動を見られていることを感じる。しかし、それらの視線はあえて無視した。後ろを振り返ることもしない。ただ一心に歩いて行く。
あの場所には、まだ行けない。その決意が揺らぐことが、何より怖かった。
しばらくは足早に歩いていたが、はたと気づいて立ち止まる。自分は一体、どこへ向かえばいいのだろう。元の場所には、どうすれば戻れるのか。
そのとき、道の先に人影が現れた。着物姿の青年。ごく普通の人のように思えたが、彼の髪色は淡い青か、あるいは緑にも見える不思議な色だった。よく見ると、瞳も同じ色をしている。
人ではない、のだろうか。
彼はこちらに目を向けて、まるで自分のことを待っているかのようにその場に佇んでいた。手にしているのは細長い棒の先にぶら下がった形の提灯。炎の明かりではない。それは、どこかで見た覚えがあるような、強い光を発していた。
「お帰りになられるなら、こちらです。僭越ながら、私が道案内をいたしましょう」
目の前の彼は、そう言った。信用してもいいのだろうか。戸惑っているうちに、青年はこう続ける。
「あなたのことを、心配されている方がおられます。ですから、私がお迎えに参りました」
「心配? 私のことを? 一体、誰が……」
「うちのお客様です」
何のことかわからずに首をかしげる。しかし、彼はそれ以上何も言わずに、ただほほ笑んだ。
「どうぞ、こちらへ。ついて来てください」
そう言って、こちらの答えを待たずに歩き始める。ついて行くべきか、しばし迷った。しかし、見失ってしまうことも怖くて、少し遅れて歩いて行く。
進む先には、やはりどこかで見たような、それでいて初めて訪れた場所のような、そんな曖昧な街並みが続いていた。相変わらず窓には人影。それがあまりに不気味で、自然と早足になる。
先行く彼が、前を向いたままこう言った。
「ご安心ください。あれらは橋を渡ることが叶わず、さりとて戻ることもできない哀れな魂。あそこに囚われたまま、どうすることもできません」
横断歩道の前で呆然と佇んでいたことを思い出す。自分もまた、いずれあれと同じものになっていたのではないだろうか。そんなことを考える。
「……あれらは、ずっとあそこに?」
先行く彼が軽く振り返った。そして、窓にある人影をちらりと見やる。
「そうですね。時が来るまでは。今は無害ですので、お気になさらず。どちらかというと、足元を注意された方がいいでしょう」
「足元?」
彼は立ち止まると、手にした明かりをこちらに向けて足元を照らし出した。
その光の輪から逃れるように、近づいていたものが、さっと離れる。何だろう。何かの生きもの。猫だろうか。いや、どちらかというと小さな猿のような――
違う。ただの動物じゃない。
物影でこちらをうかがっているそれを目にして、思わずぎょっとした。そこにいたのは、痩せぎすで角の生えた見たこともない生きものだったからだ。
――鬼?
そんな言葉が頭に浮かぶ。
「あなたに取り入ろうとしているようですが、それほど力のあるものではありません。あなたなら、問題ありますまい」
彼はそう言って、また歩き始める。慌ててついて行くと、小鬼も動き出した。よく見ると、ぞろぞろとたくさんついて来る。しかし、提灯の光を恐れているのか、それ以上はこちらに近づいてくる気配はない。
「私の光がそれらを遠ざけます。滅することはできずとも、近づかぬように道先を照らすくらいはできますので。ただ、少々惑わしてくるかもしれません。そんなときはこの明かりを頼りに」
惑わすとは、どういうことなのか。たずねる前に、ふいに背後から自分を呼ぶ声がした。
懐かしい声。死んでしまったあの人の。思わず振り返りそうになるが、応えてはいけない気がして思いとどまる。
着物の青年は黙ってうなずくと、また先導し始めた。今度は離れないよう、彼のすぐ後ろを歩いて行く。
周囲の街並みが、はっきりと見知った場所になっていることに気づいた。
あの人と出会った場所。初めて訪れたところ。二人のお気に入りの店。懐かしい景色が歩く度に後方へ流れていく。
捨てがたい幸福だった日々。その幻が涙でにじんだ。あの橋を渡れば、それを取り戻せるのだろうか。自分は、それを捨て去ろうとしているのか。それでも。
――それでも、私はあの橋を渡れない。まだ。
青年の持つ提灯の明かりから、ひとつ、またひとつと小さな光が分かれいく。その光が周囲を飛び交うと、取り巻く幻がおぼろになって遠ざかった。
そうか、これは蛍の光だ。幼い頃、故郷の小川へ見に行ったことがある。
目を閉じて、あふれる涙を振り落とす。それでも、蛍の光はほのかに感じられた。そのまま、しばらく歩いて行くと――
「もう大丈夫。着きましたよ」
ふいに、前方からそんな声が聞こえてくる。その言葉に従って、立ち止まった。目を見開いて、ぼやけていた焦点が結ぶと同時に、まずは騒々しい音が戻ってくる。
そうして――
気がつくと、横断歩道の前に立っていた。
信号は赤。それを確認して、すぐ辺りを見回す。先導してくれた人はどこにいったのだろう。そう思って、その姿を探した。
そこにあったのは、いつも通っている道。見慣れた街並み。
すぐそばに誰かが立っていた。何度か声をかけてくれた子だ。驚いて目を見開くと、彼女はその反応に、ほっとしたように、よかった、と呟いた。
よく見ると、彼女は両手で包み込むように何かを持っている。何だろう。それが妙に気になって、さそわれるようにのぞき込む。
そこにあったもの。それは淡い青のような緑のような、優しい色の石だった。