第二十六話 琥珀(四/九)
静かな通りに面した格子戸が、音を立てて開いていく。
外から入って来たのは、凛とした空気をまとった着物の女性だった。年の頃は六十も半ばを過ぎていただろうか。
彼女は控えめな笑みを浮かべながらも、意志の強そうなまなざしを桜の方へと向けた。固く締められた帯の正面、茶色の帯締めの中央に通されている、帯留め代わりの蜂蜜のような色の棗玉が、わずかな日の光を受けてきらりと輝いている。
「おかえりなさい。榧さん。琥珀さんも」
桜がそう声をかけると、榧は重々しくうなずいた。
「ええ。ただいま帰りましたよ」
「皆健勝そうで何より――と言いたいところだけど、ずいぶんと静かだね」
そう言ったのは榧ではない。人の姿は見えないが琥珀の声だ。
「榧さんも、柾さんと一緒ではないんですね」
桜がそうたずねると、榧はおかしそうに、ころころと笑い始めた。
「あの人ったら、またおかしなことに首を突っ込むものだから。待ってはいられないもの。置いて来てしまったわ」
そう言ってから、ふと視線を宙に投げかけたかと思うと、榧はさらにこう続ける。
「槐さんはお出かけ? 碧玉もいないのね。珍しい」
琥珀ならともかく、特別な力を持つわけでもない榧に、どうして碧玉がいないことまでわかったのだろうか。相変わらず彼女の勘は鋭いらしい。
桜がそう感心しているうちにも、榧は視線を通り庭の奥へと転じると、うれしそうに、よりいっそう目を細めた。振り返った桜は、いつの間にかそこに椿が立っていたことに気づく。
「あらあら。どうしたのかしら。椿。そんなところで、むくれて……」
「別に。置いていかれたからって、むくれてなんていないけれど」
明らかにふてくされているらしい椿の反応に、榧は苦笑いを浮かべている。
「お留守番なのね。でも、それは椿のことを信頼しているからよ。ここを守ってもらうことも、大事な役目なの」
榧はそう言って宥めたが、椿はその言葉を一笑する。
「そんなこと言って。こんなところに誰が攻めて来るっていうの?」
しかし、椿のそんな問いかけには、榧も笑みを浮かべはしなかった。
「そうね。本当に。そうならないことを祈っているのだけれど……」
何か気がかりがあるかのような視線を遠くに投げつつも、榧はすぐさま気を取り戻す。
「とにかく、お土産においしいもの、たくさん買って来ましたからね。さわぎが落ち着いたら、みんなでお茶をしましょう」
そうして、にこりとほほ笑みながら、次の瞬間には、榧の目は鋭く彼方を見定めている。
「さて――」
そう呟くと、榧は何やら思案げに表の通りの方へ振り向いた。
* * *
空木が次に訪れたのもまた、山を背にした一軒家だった。
しかし、こちらは先ほどまでいた家より築年数は浅いだろう。空木の記憶が確かなら、ここには小学生くらいの子どもがいる夫婦と、その親の二世帯が同居しているはず。
空木はそこで、被害があった場所を調べて回っている、とか適当なことを言って、現場を見せてもらうことになった。
場所は一階にある、いわゆるリビングダイニング。そこにある食器棚から、やはりガラスの器だけが落とされて、破片が床に散らばっていた。
リビングには庭へと続くガラス戸があって、そこは開け放しになっているようだ。五月の風を受けて、白いカーテンがゆるやかに揺れている。
「こちらの戸は開けたままだったんですか?」
空木がそう問いただすと、三十代くらいの女性は元よりしかめていた顔を、さらに奇妙な形へと歪ませた。
「ちょっと裏手に行っている間に、こんなことになっちゃって……離れたのは、ほんのちょっとの間なのに」
女性はその顔にばつの悪そうな表情をにじませながらも、いかにも理不尽だと考えているかのようにそう言った。無用心だということは確かだが、こんな田舎では何が起こるとも思わなかったのだろう。
そのとき、ふいに遠くで扉が開く音がする。
「ただいま」
と声が聞こえてきたのは、玄関の方からだ。どうやら、子どもが学校から帰って来たらしい。
今が帰宅の時間なら、子どものいたずらという線は厳しいだろうか。そんなことを考えているうちにも、女性は帰って来た子どもに向かって、ガラスの破片で危ないからこちらには来ないように、というようなことを話している。
小学生らしい女の子は、ふうん、と気のない返事をすると、ランドセルを置いてから、台所にある冷蔵庫の扉を開けた。何でもないことでもさわいだりするくせに、たまにそんな冷めた反応をするものだから、子どもというものはよくわからない。
空木はあらためて現場を見回した。室内には他に荒らされたような形跡はないようだ。
「しかし、奇妙ですねえ。さっきの家でもガラスの器ばかり壊されていたんですよ。何者かの仕業だとして、それはガラス製の何かを探している――とかですかね」
「え?」
と反応したのは、冷蔵庫から取り出した牛乳をマグカップに注いで飲んでいた女の子だった。
「どうかしたのかい?」
とたずねると、空になったらしいコップを流しに置いて、何でもない、と答えながら、そそくさと出て行ってしまう。
「あたし、遊びに行って来る」
遠くから聞こえたその言葉は、母親に向けてのものだろう。目の前の女性はその声に応えてから、空木に向かって、あらためて困ったような表情を浮かべた。
「これって、やっぱり警察に届けた方がいいのかしら」
空木は床に散らばったガラスの破片を見下ろすと、無言で考えを巡らせた。
どうにも嫌な予感がする。この件がエリカと関わりがあるかどうかはわからないが、彼女が姿を消してから起こったことではあるし、無関係ではないのかもしれない。だとすれば、おおごとにしない方がいいとは思うのだが……
空木は相手の反応をうかがいつつ、どうにか警察への連絡を待ってもらうよう頼んでみた。
割れたガラスをいつまでもこのままにはしておけない、というので、いざとなれば自分が埋め合わせをする、とまで約束する。そこまで言えば相手の方も、壊されたものはそこまで高価なものではないから、ということで納得してくれた。
その後も周辺の家を回ってみたが、他に被害にあったところはないようだ。あやしい人影はもちろん、見知らぬ若い女性を見たという話も聞かない。
ひととおり調べ終わったところで、ふいに式が呼びかけた。
「空木」
「何だ。式」
「君には珪化木による力の一端が見えていたのだろう。だとすれば、それを探せばいい」
式はおそらく、エリカの周辺に見えていた奇妙な木のことを言っているのだろう。これは現実にあるものではなく、式の力によって見ることができるらしい。以前にも車骨鉱を持った女性の背後に歯車を見たことがあるが、それと同じような現象だろう。
もちろん、その存在は空木も意識していたのだが、どういう理由で見られるものなのかよくわからなかったし、たまに様子を確認するくらいで常に見ていたわけではない。もしも、それがいつも見えるものだとして、エリカが村の中を歩いていたならば、それはあたかも動く木のように見えていたのだろうか。
シュールだな、と思いつつも、空木はいよいよエリカの行方は山の中ではないかと当たりをつけた。
「まあ、この辺りの住人なら、見知らぬ女性がふらふらしてたら、見逃すはずがないよなあ。だったら、こちらには来てないってことだろう。だとしたら――」
空木は村の周囲に連なる山々に、変わったところはないだろうか、と目を向けた。とはいえ、森の中から一本の木を探し出せというのも無理な話だ。いくら郷土愛があっても、そんなものわかるか、と心の中で毒づきながらも、空木はこの広い山の中のどこから探し始めたものか、ということについて考え込んでいた。
視線の先で子どもがひとり、山に入って行くのが見える。あの辺りは立ち入りが禁止されているはずだが――とはいえ、空木も幼い頃は自由に走り回っていた覚えがあるので、それくらいで叱る気にはなれなかった。この村に古くから住んでいる者たちは、大抵はそうだろう。
それでも、その先では今、何かがあったらしいエリカがさまよっているのかも知れず――何となく嫌な予感を抱きながら、空木はとにかく山の方へと足を向けた。
途中、子どもたちが屯しているところを通りかかる。聞こえてくる会話の内容からすると、泥棒の件がすでに噂になっているようだ。
ガラスのものが狙われているらしい、ということまでひとしきり話した後、そのうちのひとりがこう言った。
「そういえば、あいつ変わったコップ持ってなかった? 例の家に行ったときに見つけたって言ってたけど」
気になる発言を耳にした空木は、思わずその場で立ち止まった。
「秘密基地に隠しておくって。あの家、やっぱり呪われてたんじゃないの? それで、あそこにいた何かが取り返しに来たとか……」
やばいって、と怖がりながらも、盛り上がる子どもたちに、空木は思い切って話しかけることにした。
子どもたちは自分たち以外の存在に目ざとく気づくと、すぐさまその場で身がまえてしまう。しかし、空木の顔を見るなり、拍子抜けしたような表情を浮かべた。
「少し話を聞かせてもらいたいんだけど。いいかな?」
何のこと、と素っ気なく問い返すので、泥棒が出たらしいね、と何気ないように切り出してから、空木は子どもたちにこうたずねた。
「もしかして、君たちには犯人がわかっているのかい?」
子どもたちはお互いに顔を見合わせている。先ほどまでの話からすると、何やら心当たりがありそうだったが――
しばしの間、目配せをしてから、そのうちのひとりがおずおずとこう言った。
「若坊主……じゃないや。他の誰かに話したりしない?」
何やら言いかけたのは、おそらく空木の兄のことだろう。兄はこの辺りの子どもたちには、どうも恐れられているらしい――ということを、空木は噂で知っていた。そう考えると、子どもたちにとって空木は用心すべき相手なのかもしれない。
子どもたちに向かって、できる限り親しげな笑みを浮かべながら、空木はこう答えた。
「しないしない。俺は人を探していてね。若い女の人なんだけど。その人さえ見つけられたなら、それでいいんだ。ましてや、兄貴になんて、絶対に話したりしないって。あの人怖いんだよな。俺も小さな頃は、兄貴によく叱られたもんだよ」
小さな頃だけではなく、今もそう変わりはしないが、それをこの場で話すのは、さすがにはばかられるだろう。そうでなくとも、兄の件を持ち出したことは、子どもたちから共感を得られるのに十分だったようだ。あるいは、同情されただけかもしれないが。
その場にいた子どもたちいわく。彼らは昨日、山中にある奇妙な家へと忍び込んだらしい。これはおそらく、エリカを住まわせていた家のことだろう。
そこには、人がいた気配はあったのだが、人の姿は見えなかった。それを調べたときに、一緒にいた女の子がきれいなガラスのコップを持ち出したらしい。
そのときは兄がやって来たので、子どもたちはすぐさま逃げ出した。その家を秘密基地にすることを諦めた子どもたちは、別の場所をそれと定めたようだ。
新しい秘密基地の場所は教えられない、と言うが、正直なところ、空木はそれについて、いくつか心当たりがあった。かつては自分もそんな遊びをしていた覚えがあるからだ。
それにしても――
エリカの元にあったガラスのコップ。それを持ち出した子ども。姿を消したエリカ。ガラスの何かを探すもの。これらをいったい、どう考えたものやら。
空木はひとまず、山中で子どもたちが秘密基地にしそうなところを巡ってみることにした。