番外編 かんかん石(二/二)
「あのね、私。椿ちゃんと友だちになりたいの」
思い切った百合の言葉に、椿は虚をつかれたような顔をする。
「そんないいものでもないと思うけど。私と友だちだなんて」
椿はそう言うと、ふいに浮かんだ悲しげな表情を隠すように、百合からはそっと目を逸らした。
「私はね、他人のことを信用していないの。人なんて、心の底では何を考えてるかわからない。だから、私はわざわざ友だちが欲しいとは思わない――思えない」
百合は椿が学校に通っていないことを知っている。しかし、その理由については何も知らされていなかった。
そのことを無理に知りたいとは思わない。知らなくていいとも思っている。
けれども、それを友だちになれない理由にされてしまっては、こちらからは何も言えなくなってしまうではないか。そんなことは理不尽だ。
そう思った百合は、それを素直に言葉にした。
「私も……人と話しているとき、たまに怖くなる。椿ちゃんと話しているときにも、そうなるかもしれない。でも、それじゃダメかな。そんなんじゃ、友だちにはなれないかな。私のこと、何もかも信じてくれなくてもいい。もちろん、いつかは、信じてもらえるようになりたいとも思ってる。私も、友だちのことを、信じられるようになりたいと思うから」
椿はしばし百合のことを見返していたが、ふいに苦笑のようなものを浮かべると、こう言った。
「先のことなんて、誰にもわからないと思うけどね。でも、まあ――あなたにそれを言うのは酷でしょうけれども。だから、今のところは……それで納得しといてあげる」
それはいったい、どういう意味だろう。百合がきょとんとしているうちにも、椿はさらにこう続けた。
「とにかく、これで私たちは友だちになったんだから、これ以上、石の話はなし」
友だちになれたらしい驚きと、一方的に告げられてしまった話の終わりに、戸惑った百合は、真っ先に後者の方に反応してしまった。
「え? えっと……どうして? 椿ちゃんも石を持ってるよね。その石とか、紹介してもらえないの?」
何となく、かんかん石のおかげで椿と友だちになれたような気がしていたから、石の話ができなくなるのは困る――ような気がした。そうでなくとも、ここは石の店なのに。
困惑する百合に、椿は平然とこう返す。
「私が持ってる石って……翡翠のこと? 翡翠はそれこそおしゃべりではないし、会話にまじったりはしないと思うけど」
そう言って、椿はどこからか翡翠の勾玉を取り出した。特徴的な形をした、淡い緑がきれいな石だ。
「えっと。初めまして、こんにちは」
「……初めまして。翡翠輝石という。私のことは、気にしなくていい」
声をかけると、そんな風に言葉が返ってくる。
これが翡翠の声なのだろう。しかし、彼はそう言ったきり、黙り込んでしまった。どうやら、本当に無口らしい。
「じゃあ、他の石の話は? 例えば……そう、鶏冠石とか」
百合がその名を出した途端、椿はあからさまに顔をしかめた。
「鶏冠石? それこそ、私はまともに話をしたこともない。どうして、よりによって、あれの話をしなくちゃいけないの」
百合は思わず顔をしかめた。
――嫌われてるな、鶏冠石。
そう思うと、少しだけ庇いたくなってしまう。とはいえ、百合もあの石のことを、それほどよく知っているわけではないけれども。悪い石ではないと思う……たぶん。
それはともかくとして、石の話以外なら、椿とはどんな話ができるだろうか。
百合はまたしても考え込んでしまった。苦しまぎれに出て来たのは、こんな話だ。
「だったら、勉強の話とか。どう?」
そう言った途端、いつも冷静な椿が珍しくたじろいだ――ような気がした。勉強は苦手なのかもしれない。しかし、考えてみれば、これは学生にとって避けては通れない話題だろう。
「私は私立の高校を受けようと思っていて。椿ちゃんはどうなのかなって」
百合がそう打ち明けると、椿は澄ました顔でこう返す。
「中学校程度の内容なら、今さら勉強なんてしなくても問題ないもの」
やはり椿も進学するつもりなのだろうか。くわしい事情はわからないが、それでも似たような境遇だろうと思われたので、百合は何だかうれしくなる。
「え? そうなの? すごいね。だったら、勉強を教えてもらえないかな。私、数学が苦手で」
百合は期待のこもったまなざしで、椿のことを見つめていた。しかし、その視線の先で、椿は何も答えることなく固まっている。
反応がないことを不安に思った百合は、恐る恐るこう続けた。
「……ダメ?」
「別に、いいけど……」
椿がそう答えたので、百合は飛び上がるほど喜んだ。
「本当? やった!」
百合が声を上げた、ちょうどそのとき。
ふいに座敷の襖が開いたかと思うと、桜が顔をのぞかせた。お茶を持って来たようだが、部屋に入る前に、何やら椿に向かって手招いている。
椿が桜の元へと歩み寄ると、ふたりは小声で言葉を交わし始めた。特に聞き耳を立てたわけではないが、そこから、電話、という単語が聞き取れる。
桜から何かを伝えられた椿は、そのまま座敷を出て行ってしまった。それを見送った桜が、今度は百合に向き直る。
「鶏冠石さんが珍しくちょっかいかけてくるものだから、何かと思えば、椿ちゃんとお話しされていたんですね。椿ちゃんはすぐに戻って来られますから。お茶とお菓子だけ置いて、僕は失礼します」
桜はそう言うと、座卓の上にお茶が淹れられた湯のみをふたつと、あざやかな緑色の――おそらく抹茶味の――お菓子をふたつ、置いていった。それには手をつけずに待っていると、ほどなくして椿が戻って来る。
その表情がどことなくうれしそうに見えたので、百合は思わず、こうたずねた。
「椿ちゃんに電話? 誰からだったの?」
思いがけない問いかけだったのか、百合は虚をつかれたように、百合のことをじっと見返している。もしかして、聞いてはまずいことだっただろうか。百合は慌ててこう言った。
「ごめん。椿ちゃん、何だかうれしそうだったから」
それを聞いた途端、椿はその表情をごまかすように顔をしかめた。そのせいで、何だか奇妙な表情になりながらも、椿はつんと澄まして、こう答える。
「別に。そんなことないと思うけど。その……家族が、帰って来るって言うから」
電話の相手は、椿の家族らしい。おそらく、槐のことではないだろう。どんな人だろうか。
椿が照れているようだったので、百合はひとまず、この場では聞かないでおくことにした。
友だちになったんだから、そのうち家族の話をすることだってあるだろう。焦らずに、これから少しずつ、できる話を増やしていけばいい。
かん、かん、かん、という音は、もう聞こえなかった。
* * *
その日の夜。自室で本を読んでいると、ふいに翡翠が話しかけてきた。
「椿」
「……何?」
珍しいことがあるものだ、と思って椿が応じたところ、彼が続けたのはこんな言葉だ。
「勉強を教えると約束していたようだが」
今日の昼に百合と話していたことを言っているのだろう。椿は思わず、机の片隅に積み上げられている教科書に目を向けた。
長い間、手に取ることもしていないから、もしかしたらホコリを被っているかもしれない。椿はしばしそれをにらみつけた後で、手にしていた本を閉じてから、その中の一冊に手を伸ばした。
開いてみたのは、数学の教科書だ。
「何よ。これくらい……」
ぱらぱらと中をながめながら、椿はそう呟く。
四則計算に文字式、因数分解に連立方程式……こんなものは、とうの昔に学んだ内容だ。今さら学び直さずとも、これくらいはすぐに思い出せるだろう。そう思っていたのだが――
しばらくそうしているうちに、知っているはずの内容の中に、何だか見覚えのないものがまぎれていることに気づいて、椿は内心で焦っていた。
こんな内容、習ったことがあっただろうか。以前に学んだときとは、いろいろと変わっているのかもしれない。あるいは――
すっかり忘れてしまっていた解き方を思い出すために、あらためて教科書を読み直していると、ふいに翡翠がこう言った。
「良い傾向だ」
「黙って。翡翠」
いつもであれば、椿がそう言えば、それ以上口を挟むことなどないのに、このときの翡翠は、妙にうれしそうにこう続けた。
「いい友だちができたな。椿」
「黙って」
椿はそう言いながら、あらためて机に向かうと、教科書をにらみつけたまま、ノートとペンを手に取った。