第二十四話 玻璃長石(三/六)
「大丈夫ですか? 花梨さん」
桜にそう声をかけられて、花梨は自分がまた物思いに沈んでいたことに気づく。
「ごめん。ちょっと考えごとをしていて……」
そう答えながらも、花梨は桜から差し出された湯のみを受け取った。湯気立つ水面からやさしいお茶の香りが流れてきて、花梨は思わずほっとする。
袰月と話をした後、花梨は槐の店を訪れていた。
ここに来たのは大学でのことを相談しようと思ったからだが、突然のことだったので槐はあいにく外出中とのこと。すぐに戻るという話だったので待たせてもらうことになったのだが、そうしているうちにも知らずぼうっとしていたらしい。
考えていたのは茴香のことだ。
袰月が話していた人と茴香のことが重なって、どうにも不安になっていた。呪いの噂にかかわることで人が変わってしまうことについては、杏に会ったときすでに実感している。あのとき茴香に感じた異変が、その予兆なのだとしたら――
そんな不安に苛まれて、花梨は思わずため息をついてしまった。
桜が気づかわしげに声をかける。
「また何か、奇妙なことがあったんですよね」
花梨は曖昧にうなずいた。
「奇妙――なのは確かだと思うんだけれど、何だか捉えどころがなくて……黒曜石とも話し合って、その人が何かをしてるんだろうってことは、間違いないと思うんだけど。ただ――」
花梨はその先を言い淀む。まだ確信が持てないことばかりで、言葉にすることをためらったからだ。
口をつぐんでしまった花梨の代わりに、桜がこうたずねた。
「その、捉えどころがないって言うのは?」
ぼんやりとした不安の中から、花梨はどうにか形にできる言葉を探そうとした。しかし、それはどうしても、たどたどしい答えになってしまう。
「その人と話していたはずなのに、そのことを覚えてない――というか。話しているときにも、何だかぼんやりとしてしまうみたいで、思いどおりのことが話せていない気がするの。その人とは、できればもう一度、ちゃんと話がしたいと思っているんだけれど……」
桜は大きく首をかしげている。
「話がしたい? よくわからないんですが……その異変が、たとえば呪いのせいだとして、それを阻止するだけでは、ダメだということですか?」
花梨はうなずいた。
「仮に、その人が誰かを呪っていたとして、それを止めたいのはそうなんだけど、その人がどうしてこんなことをしているのか、その理由を知りたいとも思っていて。それがわからなければ、たとえその呪いが消えたとしても、また同じことがくり返されるような気がして……」
それは、この異変を感じたときに花梨が真っ先に抱いた疑問だった。
袰月の話を信じるなら、例のサークルで何らかのもめごとがあったことは確からしい。その渦中で誰かが誰かを呪った、ということであれば、その理由については、自ずとそのもめごとの中にあると考えられるだろう。
しかし、袰月が話していた人のこともそうだが、この異変については、関係ないはずの茴香にまで害が及んでしまっている。その人は何を目的にして、こんなことを続けているのか。花梨はそれを知りたいと思い始めていた。
桜は難しい顔をして腕を組む。
「理由を知ろうにも、その人にどうしてそんなことができるのか――その正体もわからないうちには、対処するのも難しいかもしれませんね。黒曜石さんがいても、その惑わす力は防げないようですし。他に力になれる石があればいいんですけど……」
花梨はそのときふと、深泥池でのことを思い出した。あのときにも、花梨は呪いの噂を調べるために、いろいろな石の力を借りている。
「以前、深泥池に行ったときに借りた――尖晶石さんの力は、どうかな」
深泥池のほとりで土蜘蛛の糸が迫って来たとき、それを防いだのは彼の持つ力だった。同じように力を借りることはできないか、と思ったのだが――
「尖晶石さんの力は、相手からの働きかけを拒む、というものらしいです。そのときのくもが使った術には有効だったみたいですけど、いろいろと条件が厳しくて。それで、けっこう扱いにくいらしいんですよね。本人も、ちょっと気難しいですし」
「……もっと単純な話ではないかな」
そう口を挟んだのは、花梨が初めて耳にする声だった。
座敷には花梨と桜以外の姿はない。不思議に思った花梨が桜に目を向けたとき、彼はふいに立ち上がったかと思うと、廊下に続いている座敷の襖に手をかけた。
開いた先にあったのは槐の姿。どうやら店に帰って来ていたらしい。しかし、先ほどの声は彼のものではないだろう。
桜にうなずいてから、お待たせしました、という言葉と共に、いつもの席へと向かう槐を見ているうちに、花梨は彼が見知らぬ石を手にしていることに気づいた。
「玻璃長石」
黒曜石がそう呼ぶと、見知らぬ青年が姿を現した。白く長い髪に青白い着物。彼は柔和な表情を浮かべながらも、隙のない所作で花梨の目の前に正座する。
「相手がどんな力を持っていたとしても、私の力で弱めることができる。これなら、君の望むように、惑わされずその者とも話ができるだろう。槐にはすでに話を通してある。今回のことは、私が君の力になろう」
その言葉にうなずくと、槐はこう話し始めた。
「玻璃長石。英語名はサニディン。長石のグループは、地殻でもっとも多い鉱物でして、ほとんどの岩石に含まれています。カリウムの正長石、ナトリウムの曹長石、カルシウムの灰長石と、成分によって大きく三つに分かれるのですが、その混合の比率によって、さらに細分化されます。玻璃長石はそのうちの、ナトリウムを少し含むアルカリ長石ですね」
花梨は差し出された玻璃長石を受け取った。
「黒雲を照らす月の光、か。それならまあ、おあつらえ向きかもしれないね」
そのとき聞こえてきたのは、この場にいないはずの別の声。とはいえ、この声は――
室内を見回してみると、いつの間にか縁側には石英の姿があった。彼はしばし意味深な目で花梨のことを見つめていたが、それ以上は何を言うわけでもない。得体の知れない不安の中にも、彼には何かが見えているのだろうか。
「月の光、というのは?」
花梨が首をかしげると、槐がすかさずこう答えた。
「長石の中でも、シラー効果といって――石の表面が青や白に光る特徴を持つものは、特に月長石という名でも呼ばれているんです。これは宝石名ですね。英語名ではムーンストーンです」
花梨は受け取った玻璃長石に目を向けた。
少し白っぽくも透明な玻璃長石の結晶は、それ自体に色はないのに、角度によっては青い光が閃いている。不思議な輝きを持つ石だ。
「でも、玻璃長石さんは相手の力を弱らせるだけですよね。そんな得体の知れないものに対抗するのに、それだけで大丈夫でしょうか」
桜がそう言うと、石英が呆れたようにこう返す。
「何を言っているんだい。桜石。それこそ黒曜石くんがいるじゃないか。弓というものは呪具でもあるんだから、矢を放つことそれ自体に祓えの力を持つ。いよいよのときにはその矢さえ放てば、すぐさま力を失うだろう」
「だったら、それこそ呪いを祓ってからではダメなんですか?」
桜の問いかけに、石英は肩をすくめている。
「ものごとには順序というものがある。まずは彼女が黒雲に相対しなければ始まらないよ。そうでなくとも、呪いは甘い毒酒のようなもの。相手の本音を知りたいというなら、祓う前の方がいいだろうね」
「あるいは月と共に太陽もあった方が万全かもしれないよ。何なら、灰長石も連れて行くかい?」
玻璃長石はそう提案したが、石英は首を横に振る。
「いや。彼まで出す必要はない。いざというときのことなら、すでに対策はしてある。灰長石まで持ち出しては、碧玉くんがうるさいだけだよ」
花梨は槐にあらためて礼を告げた。槐は気づかわしげにこう話す。
「鷹山さん。くれぐれも、お気をつけて。黒曜石と玻璃長石がいれば、危険はないだろうとは思いますが……」
心配する槐に向かって、花梨は安心させるようにうなずき返した。
何が起こるかはわからない。しかし、異変の正体を暴かなければならなかった。茴香や、杏のように異変に苦しんだ人たちのためにも。
もやもやと心の中に巣くっている不安はまだ晴れない。それでも、花梨はもう一度、その渦中に身を投じなければならなかった。
今も不安を生み出し続けているかもしれない、その黒い雲を払うために。
* * *
何かがおかしい。
花梨と言葉を交わしてから、茴香はずっともやもやした気持ちを抱えていた。
誰かと自分の夢について話したことは確かだ。その中で、それが現実的ではないと指摘されたことも。そして、茴香が覚えている限りでは、大学でそのことを打ち明けた相手は花梨だけだった。
話の内容についても、おかしなところは何もない。自分の夢が具体性を欠いていることは、茴香自身も自覚していたことだ。夢に向けて何か取り組んでいることがあるとすれば、せいぜいアルバイトをしてお金を貯めていることくらいだろうか。
本当に叶えたいと思うなら、もっと真剣に考えなければならないのだろう。だからこそ、それは耳に痛い指摘でもあった。そんなことを考えていたから、夢の話をして何となく嫌な気持ちになったのも、自分のせいだろうと思っている。
それでも何だかぎくしゃくして、茴香は花梨に冷たい態度をとってしまった。自分がふがいないだけであって、彼女が悪いわけではないのに。
そもそも、花梨と話をしたのはいつのことだろう。場所は部室棟だった気がするが、その辺りの記憶はなぜかぼんやりとしていて、話した相手が本当に花梨だったかどうかすら、茴香には自信が持てないのだった。
やはり、何かがおかしい。花梨と話しただけにしては、そのときのことを思い出すたびに、どうにも嫌な感じがする。別に諍いがあったわけでもないのに。
そもそも、あれは現実のことだろうか。もしかして、夢の記憶か何かと混同してしまっているのでは。だとすれば、花梨と話していたら気分が落ち込んでしまった――だなんて、とんだ濡れ衣だ。声をかけられたときには、思わず逃げ腰になってしまったけれども、花梨とはあらためて話をしなければ。
この日の講義をすべて終えた茴香は、大学で花梨の姿を探すことにした。端末でメッセージを送っていたが、今のところ返信はない。茴香はひとまず構内を見て回ることにする。
とはいえ、いくら何でも隅から隅まで探すわけにもいかないだろう。花梨が立ち寄りそうなところは、講義のときを別にすれば図書館か食堂か――お姉さんのことをまだ調べているなら、部室棟ということもあるかもしれない。
そうして、ひととおりを見て回った後、最後に訪れたのが例のサークルの部室だった。
この日の部室棟は妙に静かだ。とはいえ、ここにはそう何度も来たわけでもないから、それがよくあることなのかどうか、茴香にはよくわからないのだが。
いつのことだったか、花梨のお姉さんについて調べるため、ここを訪れたときのことを思い出す。失踪のことやあれこれの事情を知るうちに、サークルのことも教えてもらっていたので、一度行ってみようと思ったのがきっかけだった。
今にして思えば、少しお節介だったかな、とも思う。しかし、あの頃の花梨は、妙な噂のせいで話を聞いて回るのも難しそうだったし、無関係な茴香が取り持った方が、ことがうまく進むのでは、と考えたのは、そんなにおかしなことではないだろう。そうでなくとも、それくらいで力になれるなら訳はない、とも思っていた。
とはいえ、そのときは結局、部室の中までは入らなかったのだけれども。確か、その直前で声をかけられたんだっけ――なんてことを思い出しながら、茴香が部室棟の二階にある廊下を歩いていた、そのとき。ふいに誰かに腕をつかまれて、茴香は思わずぎょっとした。
噂をすれば影、ではないけれど、茴香の腕をつかんでいたのはあのとき声をかけてくれた人だ。しかし、どうにも様子がおかしい。苛立っているかのような、あるいは焦っているかのような――
呆気にとられている間にも、つかまれた腕はぐいぐいと引かれて、部室の前から遠ざけられる。よろめきながら歩くうちに驚きから立ち直った茴香は、恐る恐るこう問いかけた。
「えっと……な、何ですか?」
その人は何も答えることなく、人差し指を自分の口に当てた。何か事情がありそうだ、と思って、茴香はおとなしくその場から連れ出されることにする。
部室棟の一階まで下りたところで、その人はようやく口を開いた。
「ダメだよ。あの部屋に行ってはダメ。あそこには、あの人がいる」
あの人。いったい誰のことだろう。たずねようにも、その人は恐れている何かがこちらへ向かって来るとでも思っているかのように、部室のある方向をしきりに振り返っている。茴香のことを気づかう余裕もなさそうだ。
それでも、足早で歩くうちに、ふと茴香が一緒にいることを思い出したのか、その人はこう話し始めた。
「何がどうなっているのかは、私にもわからない。それが深泥池の呪いなのかどうかも。けれども、これだけはわかってる。みんな、あの人と話をしているうちにおかしくなっていった……」
その人は、遠ざかっていく部室棟が見えなくなってもなお、怯えた目をその方角へと向けていた。