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大和石綺譚  作者: 速水涙子
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第四話 蛍石(一/四)

 目の前に横たわる道路を車が走っている。


 右に左に。車は白線を境にして、それぞれの流れに乗りながらすれ違っていく。とてもではないが、この激流を突っ切って向こうへ渡ることなどできはしないだろう。危険を冒さない限りは――


 しかし、ふいにその流れが止まった。


 目の前には横断歩道。そして、その先にある信号機が今は青に光っている。その光は立ち尽くす歩行者に、目の前の道路を渡るように促していた。


 ――でも、私は……


 渡れない。どうしても渡ることができない。


 なぜだろう。さっきまで走っていた車の勢いが恐ろしいからだろうか。最近あった、嫌なことを思い出すからだろうか。それとも――


「大丈夫ですか?」


 青信号を前にいつまでも呆けていたものだから、通行人に声をかけられた。声をかけたのは大学生くらいの女の子だ。青い光を見つめながら、渡る素振りも見せない人物を、奇妙にでも思ったのだろう。


 そんな風に、はっきりと状況は理解できているのだが、自分がなぜこんなところに立ち尽くしているのか、それだけは頭にもやがかかったかのように判然としなかった。どうして、目の前の何でもない横断歩道を、自分は渡ることができないのか。そんなことすら、わからない。


 呆然としている間に信号は点滅し始め、やがて赤へと変わる。その瞬間、妙にほっとしている自分に気づいた。


 止まっていた時間が、ようやく動き出す。


 目の前の道路からは顔を背けて、声をかけてくれた女の子の方を見た。何ごともなかったかのような顔で。


「大丈夫です。少し立ちくらみがしただけですから」


 そう言って苦笑する。相手は少し心配そうな表情を浮かべてはいたが、はっきりした受け答えに安心したのか、それ以上何かを言うこともない。そうですか、と言って、会釈をしながら立ち去っていく。


 いなくなってから、さっきの彼女のことを、ふと、どこかで見た気のする顔だ、と思った。しかし、どこで見たのかは思い出せない。知っているような気もしたし、知らないような気もする。少なくとも名前を知っているような相手ではなかった。


 どちらにせよ、それを確かめるために追いかける必要もないだろう。そう思って、それ以上は考えないことにした。


 そうして、また前方をぼうっとながめ始める。目の前に横たわる道路を絶え間なく走る車の流れの、その先を――


      *   *   *


 次に信号が青に変わったときには、その人は問題なく横断歩道を渡って行った。


 振り返ったとき、そのことを確かめた花梨は内心でほっとする。声をかけただけで通り過ぎてしまったが、どうにも心配だったので、こっそりと彼女の行動を気にしていた。しかし、それもどうやら杞憂だったようだ。


「そろそろ暑くなってきたかな……」


 日差しの強さにふと気づいて、花梨は何気なくそう呟いた。いつの間にか、季節は夏らしくなりつつある。暑さに慣れない体には、太陽の熱はことさら厳しく感じられるだろう。


「先ほど声をかけた者のことを言っているのか」


 花梨の言葉を聞いて、黒曜石がそう問いかけた。花梨は首を横に振る。


「それもあるけど、単純に京都の夏は暑いって聞くから」


 故郷はどちらかというと涼しい土地で、そのうえ寒い季節の生まれだからか、花梨は暑さが苦手だった。そうでなくとも、体調を崩しやすい時期ではある。


 とはいえ、さっきの人がそのせいで立ちくらみをしたかどうかはわからない。もしかしたら本当に暑さにやられただけかもしれないが、それだけが理由ではないような、そんな漠然とした勘が働いていた。だからこそ、花梨は不安になって声をかけたのだ。


 彼女が見ていたのは、目の前の信号機でもなければ、すぐそこを横切る車道でも、その向こうの歩道でもなかった。もっと遠くの方。あるいは、ここではないどこか。そんな風に、花梨には思えてならない。


 あの人はなぜ、道も渡らずにその場で立ち尽くしていたのだろう――



 あれこれと考え込んでいるうちに、花梨は槐の店まで来ていた。もはや勝手知ったる、といった具合に、花梨は格子戸を開けて、軽くおとないだけを告げて入って行く。


 通り庭を歩いて行った先、坪庭に入る少し前に、話し声が聞こえてきた。意図せず耳に入ったそれに、花梨は思わず立ち止まる。


「石を依り代にした術だ。どう考えても、これは音羽に由来するものだろう」


 その言葉に、花梨は真っ先に黒曜石や桜のことを思い浮かべた。しかし、彼らのことを話しているわりには、妙に深刻そうな声音だ。そもそも、これは誰の声だろうか。


「でも、それを知ってる人なんて、限られてますよね」


 そう呟いたのは桜だ。それに応えるように、槐の声が続く。


()()か、()()か」


 ――雨か雲?


「雨、ね。ふざけた連中だ」


 正体のわからない誰かは、そう言って一笑する。


「何にせよ、この店に突然やって来て、音羽の呪術を扱う者に狙われている、なんて出来すぎている。あの女、信用ならないんじゃないか」


 その言葉で、花梨は今の話が自分に関することだと気づいた。石を依り代にした呪いというのも、ついこの間にあった黒いツバメのことを言っていたのだろう。


 ならば、あの女、というのは当然、自分のことだ。誰かの言う、信用ならない、という言葉に、思わず足がすくむ。


 こんなとき、どんな顔をして槐たちの前に出て行けばいいのだろう。


 こちらの事情はすべて包み隠さず話していた。呪いについても、花梨はあくまでも自分の姉の失踪に関わることだとしか思っていなかった。しかし、そうではなかったのだろうか。


 彼らの言う、音羽の術とは――?


「もう少し警戒した方がいい。姉が行方不明だというのも、本当のことだか――」


「そこまでだ」


 そのとき、黒曜石が姿を現した。彼は花梨をかばうように前へ出ると、そのまま話し声のする方へと進んで行く。


 花梨も慌てて、それに続いた。坪庭に入り、黒曜石の背中越しに縁側の向こうに見えたのは、槐と桜と――


 ぎらりとした銀色の鋭い目が、花梨に向けられていた。初めて見る顔の青年だ。しかし、およそ現実離れした鈍い銀色の髪は、彼が人ではないだろうことを示していた。


 おそらくは、彼も何らかの石の化身なのだろう。


「聞いていたのか。加工品」


 花梨を一瞥してから、銀色の青年は黒曜石に向かってそう言った。


 ――加工品?


 思わぬ単語に、花梨は内心で首をかしげる。


 黒曜石は無言のまま、しばし相手とにらみ合った。しかし、それも長くは続かない。銀色の青年はふいに根負けしたように目を逸らすと、そのまま音もなく消えてしまった。


「あ。待ってください。輝安鉱きあんこうさん。話はまだ……」


 桜が呼び止めたが、当然のように答えはない。


 その様子に、槐は苦笑を浮かべている。それから槐は、おもむろに立ち上がると、縁側に出てから花梨にこう呼びかけた。


「おさわがせしました。鷹山さん。どうぞ、お上がりください」


 唐突な展開に呆気にとられていた花梨だが、その声にようやく、はっと我に返る。


 槐に軽くうなずいてから――それよりもまず、姿が消えてしまう前に――と、花梨は慌てて目の前にある黒曜石の背にふれた。指先に伝わってきたのは、実体があるような、ないような――そんな曖昧な感覚だ。


 それでも、花梨はその手に力を込めて、感謝の言葉を口にする。


「ありがとう。黒曜石」


 黒曜石は振り返ると、ばつの悪そうな表情でこう言った。


「礼を言うことなどない。むしろ、こちらが礼を失した」


 花梨は無言で首を横に振る。


 偶然とは言え、立ち聞きしてしまったのはこちらの方だ。むしろ、こんな風に剣呑な空気にしてしまったことを、申し訳ないとすら思う。


 それにしても――


「ところで……加工品って?」


 何となくはばかられて、花梨はこそっと問いかけた。


 銀色の青年が黒曜石を差してそう呼んだことが気になっていたからだ。もしかして、蔑称なのだろうか。しかし、黒曜石は特に気分を害した様子もない。


「たわごとだ。気にすることはない」


 そう言って、姿を消してしまう。


 座敷へと向かうと、花梨は心配した表情の槐と桜に迎えられた。


「お気を悪くなさらないでください。彼も悪気があるわけではないのです。私としましては、鷹山さんの話を疑う必要はないと思っているのですが」


「そうですよ。僕だって、あんなことは心にも思ってませんからね」


 花梨は二人の言葉に笑ってうなずいた。


「私は大丈夫ですから」


 言葉だけでなく、実際に、話を聞いてしまったときのような不安はなくなっていた。きっとこれは、黒曜石が前に立ってくれたおかげだろう。


 あらためて、花梨たちは座敷に腰を下ろした。いつもの場所に椿の姿は見えない。


 花梨は先ほど立ち聞きしてしまった内容を思い出しながら、槐を前にこう切り出した。


「それに、その……すみません。それだけじゃなくて、石を依り代にした音羽の術、という話も聞いてしまったのですが」


 槐はその言葉にうなずくと、何かを探すように傍らに手を伸ばした。そうして手探りのまま、こう話し始める。

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