第二十四話 玻璃長石(二/六)
ひとりきりになった花梨は、杏と共に深泥池に行ったという人のことを、ぼんやりと考え込んでいた。
やはり、会いに行くべきだろうか。たとえ姉の失踪とは無関係だったとしても。その人の身にも、杏のように何かしらの異変が起こっているかもしれない。とはいえ――
どうにも嫌な予感がする。これが話をしてくれた相手に対する印象なのか、それとも、もうひとりの誰かに対してなのか――いつもなら何となく直感でわかる気がするのに、このときばかりは何も見える気がしなかった。
どうして、こんなにも不安にかられるのだろう。悪い考えばかりが浮かんでしまって、徐々に気分が落ち込んでくる。頭の中はまるで霧がかかっているかのように、うまく思考が回らない……
「ねえねえ。ちょっといいかな」
唐突に話しかけられて、花梨は自分がどこに立っているかを、あらためて思い出した。
誰もいない部室棟の廊下。そこに並んでいる扉のひとつが、いつの間にか開いていた。視線の先で花梨と目が合ったのは――
誰だろう。知らない人だ。いや、一度だけ顔を見たことがある気がする。以前、廊下でさわがしくしてしまったとき、となりの部屋から顔を出していたのが、この人だったような……
眠たげな目をした青年は、扉の影からじっと花梨のことを見つめている。突然のことに戸惑いながらも、花梨はこう問い返した。
「えっと……何でしょう?」
「さっき、君と一緒に部室から出て来た人、誰だか教えて欲しいな、なんて」
その問いかけを奇妙に思うより先に、その答えが全く思い浮かばない自分に気づいて、花梨はしばし呆然とした。
誰? 誰――だっただろうか。なぜか思い出せない。その名も。顔も。姿も。ただ、不安を呼び起こすような声と、その声が語ったことだけが、花梨の耳にはっきりと残っている。
あるいは、黒曜石にたずねればわかるのかもしれないが、そうしたことをすべて忘れてしまっている、そのこと自体が奇妙ではあるだろう。
「……ふうん。やっぱり覚えてないんだ」
特にいぶかしむわけでもなく、青年は平然とそう言った。けげんに思った花梨は、思わずこう問いただす。
「やっぱり……? どういうことですか」
青年は何やら考え込んでしまったようだが、ふいに、まあいいか、と呟いたかと思うと、花梨に向かって手招きした。
「いいよ。おいでよ。教えてあげるから」
それだけ言い残して、彼は扉の向こうに消えてしまう。廊下に取り残された花梨は、しばしその場に立ち尽くした。
ついて行ってもいいものだろうか。
ここには何度か訪れていたけれども、目当ての部室のとなりが何のサークルかまでは把握していない。周囲にある他の部屋とも違って、そこには活動を紹介するような貼り紙も、名前が記された表札も、何ひとつ見当たらなかった。
とはいえ、彼の発言はやはり気になるところだ。迷いはしたけれども、花梨は一度だけ大きく息をはくと、思い切って彼のいる部屋へと足を踏み入れた。
室内にいたのは、先ほど顔を出していた青年がひとりだけ。彼はどこからか椅子を持って来ると、それを花梨に指し示した。
「狭いところだけど、どうぞ。あ。僕は袰月。よろしく」
「鷹山です……」
そう返しはしたのだが、そんなやりとりよりも、花梨はその場の異様さに圧倒されていた。
何やら音楽のようなものが流れている。音楽――というか、何というか。ちゃんと旋律はあるのだけれど、声の抑揚が独特で、まるで念仏か何かのようだ。
気になるのはそれだけではない。
扉の脇にあるのは、どう見ても――念仏を唱えるときに鳴らす、あの――木魚だった。かと思えば、目の前の三方には、ご自由にお取りくださいの貼り紙と共に個包装のお菓子が盛られている。壁一面にべたべたと貼られているのは無数のお札と曼荼羅のタペストリーと――あとは神社仏閣を宣伝するポスターがいくつか。
「般若心経は、このアレンジが一番好きでね」
袰月はそう言うと、片隅で何だかよくわからないオブジェに囲まれているパソコンを操作して、流れていた音楽――あるいは、読経といった方がいいのか――を、かすかに聞こえる程度にまで調整した。
勧められた椅子に腰かけて、あらためて室内を見回してみたが、目につくのはやはり奇妙なものばかり。思いがけない光景に、花梨はただただ困惑していた。
「ここ、何のサークルでしょうか……」
「宗教文化研究会。なかなかおもしろいところだよ。まあ、昔は宗教民族学を主体に、フィールドワークとかして真面目に活動してたみたいだけど。近頃は変な人しか入って来なくてねえ。インドへ行ったきり帰って来ない人とか、御朱印を集めることに執念を燃やしてる人とか」
袰月はそう言って椅子に腰かけると、当然のように机の上にあるものへと手を伸ばした。ひとかたまりの木材がひとつと、小さな刃がついた道具がいくつか。何に使うのだろう。
「……あなたは、何をしてるんですか?」
「仏像を彫ってるよ」
彼の答えを聞いて、花梨は思わず床下に目を落とす。
それで、足元がこんなに木屑だらけなのか……いいのだろうか。そう思いはしたのだが、いきなり意見するのもはばかられて、花梨はひとまず見なかったことにした。
「それでね。おとなりさんのことなんだけど」
手にした木材をためつすがめつしながらも、袰月はそう話を切り出した。おとなりさん、とはつまり、姉の所属していたサークル――古都文化研究会のことだろう。
「あちらが一時期、何やら不穏だったことは、僕もよく知ってるんだよ。部室前の廊下でも、何度かもめてるところを見たことがあるし」
「そう……なんですか」
あのサークルが今は閑散としてしまっている現状については、花梨もよく知っている。しかし、姉がいた頃のことは、関係する人たちの口が重いこともあって、あまりよくわかっていなかった。くわしくたずねたい気もしたのだが――
花梨の心中など知るはずもなく、袰月はそれほど深刻でもなさそうに、こう続ける。
「それでさ。うちには僕よりふたつ上で、呪いとかが大好きな人がいたんだけど……」
袰月はそう話す傍らで、手にした木材を彫刻刀で削り始めた。呪いが大好きな人、という発言も気になるところだが――今はとにかく気にしないことにする。
「その人は、いずれは拝み屋? とかになりたいって、本気で言っていたような、変わった人だったんだけどね。ある日、呪いの噂を聞いて、となりの部室に乗り込んで行ったんだよ」
袰月が払った木屑が、床にぱらぱらと落ちていく。
「僕も、その呪いとやらがどんなものか気になっていたから、後日どうだったか、たずねてみたんだ。けれども、その人は、どうもそのことを覚えていないみたいでね。しかもそれ以後、なぜか人が変わっちゃって。あんなに呪いのことが好きだったのに、そうした話もしなくなって。今はもう無難に就職して、会社勤めをしているらしいんだけど……」
袰月はそこで一旦、動かしていた手を止めると、何かを思い出しているかのように、ゆっくりと天を仰いだ。
「普通の人からしたら、それはきっと、真っ当になったってことになっちゃうんだろうなあ……」
そう呟いた彼の表情は、どこか寂しげだ。花梨はかける言葉を探したが、そういるうちにも、袰月は小さく肩をすくめると、あらためて手にした木材に目を落とした。
「けれどもね。僕はその人の、周りの目なんて気にせず突き進むようなところ、けっこう好きだったんだよね。だから、その人がそうなっちゃったのは、呪いのせいなのか、単に気が変わっただけなのか、それが知りたくて。それで、隙あらば話を聞きたいと思って、となりの様子をうかがってたんだよ」
彼が花梨に声をかけたのは、それが理由だったようだ。
誰かと話したはずなのに、そのことをよく覚えていない。まさしく、今の花梨と同じ状況だろう。
とはいえ、花梨にも今の自分に何が起きているのかは、まだよくわかっていなかった。槐に相談すれば、あるいはその糸口くらいはつかめるかもしれないが――
花梨は素直にこう答える。
「呪いのことは……私にもまだよくわかりません。けれども、あのサークルにいて、何かのきっかけで自分を見失ってしまった人には、私も会ったことがあります。だから、あの部屋には、本当に呪いのような何かがあるのかもしれません」
花梨のはっきりしない物言いに、袰月はがっかりするだろうと思ったのだが、彼はふむとうなずいたかと思うと、あっさりとこう返した。
「そうか。君の話を聞けて、よかったよ」
袰月は納得したようだったが、花梨はどうしても、これだけでよかったのだろうか、という思いが拭えない。そう思って、彼の顔をじっと見返していると、そのことに気づいた袰月は苦笑いを浮かべた。
「もしも本当に拝み屋とやらになりたかったなら、そんな呪いに負けてちゃダメだよね。だから、あの人に関しては……これでよかったのかもしれない」
そう言って、彼はまた仏像を彫り始めた。