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大和石綺譚  作者: 速水涙子
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第二十三話 蛋白石(一/六)

 ――私の元へ百夜通うことができたなら、あなたの想いに応えましょう。


 それは果たせない約束。あるいは悲しい恋の物語。もしも、その結末を知っていたとしたら、そんな約束を交わすこともなかったのだろうか。


 否。きっとそうではなかっただろう。その人のことを本当に愛していたのだとしたら。だから、あなたと交わしたあの約束も、きっと必然のことだった。


 ――あなたに会うためならば、百夜と言わず、私は何度でも通いましょう。たとえ、この心が千々に砕けたとしても。その他の全てを投げ捨ててでも。


 ふたりの前に横たわるのは、険しく遠い道のりか、降りしきる冷たい大雪か、激しい嵐の雨風か、それとも荒々しく波立つ水面だろうか。


 それでも、あなたとまた会える、そのことだけが、ふたりに残された唯一の幸せ。


 幸せだった


 のに。


     *   *   *


 冬に訪れたときとは違って、深泥池の周辺は明るい緑にあふれていた。水面を渡る風は清々しく、鳥のさえずる声もかろやかだ。そうした穏やかな風景には、あやしい噂がささやかれるような、おどろおどろしい影などひとつもない。


 槐はしばらく池のほとりをながめていたが、ふとあることが気になって、不機嫌そうに背を向けている青年――浅沙の方へと視線を戻した。


「そういえば、今日は片桐さんと一緒ではないんですね」


「今さら何言ってんの。俺は別に、あのおっさんと常に一緒にいるわけじゃないんだけど」


 浅沙は呆れたようにそう返す。そうして肩をすくめながら、気だるそうにこう続けた。


「鉄線のおっさんも、あれでけっこう食えないおっさんだからな。何を考えてるかは知らないけど、今となってはいろいろと都合もいいから、俺の方でも乗っかってるってだけで」


 浅沙はそう言うと、空を仰いで背を伸ばした。ようやく話す気になったらしい彼に向かって、槐はこう問いかける。


「鷹山さんのお姉さんのこと、どう思われます」


 浅沙はしばし無言で槐をにらみ返したが、ため息をついたかと思うと、思いのほか素直にこう答えた。


「障りがあるってことは、そういうことだろう。こうなる前に珪化木だけでも取り返したかったんだけど。さすがに、あの鬼相手じゃ分が悪かったな。何考えてるかわかんないし」


 浅沙はそう言って槐から視線を逸らしたかと思うと、再び口を閉ざした。槐にしてみれば、彼もまた何を考えているかわからない相手ではあるのだが――ひとまず、口も利いてくれない、ということはなさそうだ。


 とはいえ、今の彼は槐のことなど意に介していないかのように、どこか遠く、対岸の方へと目を向けている。


 花梨の姉――エリカの居場所が特定できたことを受けて、そのことについて話をしていた。何かを知っているだろう彼になら、今の状況がわかるのではないかと思ったからだ。


 しかし、彼は多くを語らない。それでも、槐は浅沙が鬼という言葉を口にしたことを聞き逃しはしなかった。


 鬼――あるいは、雨の名を持つ者たちの話となると、槐は真っ先に祖父のことを思い出す。おそらく彼らとの初めの因縁となると、曾祖父まで遡ることになるのかもしれないが、それでも鬼という言葉を耳にして思い浮かぶのは、なぜか祖父の方だった。


 祖父は槐が生まれてほどなくして亡くなってしまったから、残念ながら言葉を交わした思い出はない。それでいて、祖父は曾祖父とは違い、身に起きたできごとを一切書き残してはくれなかった。


 祖父が残したのは、どこからか集めてきた石――それはもちろん、言葉を交わすことのできる彼らとは違う、本当に何の変哲もない石――だけ。槐にとっては謎の多い人だった。


 しかし、祖母の話からすると、祖父はどうも鬼と呼ばれる存在と交流があったらしい。槐が唯一言葉を交わしたことがある鬼――時雨も祖父のことをよく知っている風だった。


 そうしたこともあって、槐はどうにも雨の名を持つ者たちに対して恐ろしいという印象が抱けない。とはいえ、曾祖父の手記を信じるなら、槐が背負うことになったあの厄災も、元を正せば鬼がきっかけではあるらしいのだが。


 そんな風にあれこれと考えを巡らせながらも、槐はただ待っていた。浅沙が何かを語ってくれる、そのときを。


 しかして、彼はふいに槐の方へ向き直ったかと思うと、こう話し始めた。


「ともかく、今となっては俺にできることは何もない。というか、できればそれとは関わりたくない」


「それはやはり、木の呪い、だからですか?」


 槐の問いかけに対して、浅沙はあからさまに顔をしかめた。


「どうして、あんたがそのことを知っているのかと思ってたけど……そうか。もしかして、先代を殺したのは、あんたなのか」


 槐は何も答えなかった。浅沙も強いて答えを求めようとはしない。


「まあ、いいか。あいつが死んだことについては、むしろせいせいしてるくらいだし」


 浅沙の呟きには、今度は槐が顔をしかめる番だった。


「しかし、先代の当主ということは、あなたにとっては……」


 その言葉をさえぎるように、浅沙はふんと一笑する。


「あんたは、あの男のことを何も知らないんだろう。あいつは人の心なんか持っていない――化けものだった。あの家のやつらだって、死んでよかったと思ってるよ。口には出さないだけで」


 そのときふと、一羽の鳥が上空を横切った。かと思えば、その影は槐の視界をかすめながら何かを示すかのように旋回し始める。


「あれはカラス……?」


「黒曜石だな」


 槐の呟きに、そう応えたのは碧玉だ。


 カラスは槐に近づいて来るようにも見えたのだが、ふいに方向を変えたかと思うと、滑空しながら高度を落としていった。行き先を視線で追っていくと、槐はそこに見知った人の姿を見つける。


 カラスはやがて、どこからともなく現れたその人――鷹山花梨の肩に流れるように降り立った。彼女は突然現れたカラスにも驚いたようだが、槐と浅沙がそろってこの場にいることに気づくと、さらに大きく目を見開いている。


「何で花梨ちゃんがこんなところにいるの」


 浅沙はそう言って、花梨の方へと身を乗り出した。しかし、こちらへ歩み寄る彼女が何かを手にしていることに気がつくと、彼は怖い顔をして動きを止める。


「……鬼に会ったね?」


 浅沙の呟きに、槐は思わず目をしばたたかせた。花梨は浅沙に指摘されたことを受けて、ばつが悪そうな顔をしている。どうやら、本当に鬼と会ったらしい。


 浅沙は呆れたようにこう言った。


「どうしてそう、危ないところに首を突っ込むかな」


「今回は、その……たまたま迷い込んでしまって」


 珍しくしどろもどろに言い訳しながらも、彼女は、すみません、と言って肩を落としている。


 槐は思わず、こう呼びかけた。


「黒曜石?」


「すまない、槐。用心していたつもりなのだが……」


 この場に姿を現した黒曜石は、花梨の肩に止まっていたカラスを取り込みながら、そう言った。


 決まりの悪そうな表情を浮かべている辺り、不用意な行動をしたという自覚はあるようだ。今さら咎めたところで意味はないだろう。とはいえ――


 そうして考え込みつつも、槐はあらためて花梨の方へと向き直った。


 浅沙の方は彼女が手にしているものを妙に気にしているようだ。不機嫌そうな顔でしげしげと見つめていたかと思えば、それを指差しながら彼はこう話し出す。


「それ。鬼があの家から持ち出した呪物でしょ。どうしてそんなものを花梨ちゃんが持ってるの」


「私にも、よくわからないんですが。なぜかいただいてしまって……」


 槐は彼女の手のひらに乗っているものへと目を向ける。


 それは褐色の石だった。でこぼこした平面でありながら、妙に均整のとれた四角い形をしている。割れ目のように見える線は、ふたつの石がきちんと合わさっているためだろう。これは――


香合石こうごうせきですね。特殊な形をした褐鉄鉱です。地層の亀裂に鉄分が入り込むことによって自然と箱のような形になったものです。そのため、香合――香を収納する容器の名を持ち、実際にその用途で使用されることもあるとか」


 浅沙はその石に忌々しげな視線を向けつつも、こう言った。


「それは、この世に存在するものなら何でも手に入る箱だよ。ただし、条件つきだけど」


 花梨が首をかしげると、浅沙は続けてこう話す。


「術がかかっているからね。欲しいものを願いながら開けると、それを手に入れることができる。その箱に収まるものなら、何でも。ただし、この世にないものや、箱に収まらないものは手に入らない。そうだな……例えば、憎い誰それの右目が欲しい、と念じて開ければ、それが手に入るんだけど――」


「どうして目なんです」


 不穏なたとえ話に、花梨は思わずといった風に顔をしかめた。しかし、浅沙は平然としている。


「まあ、いいから。それで、もしもうっかり右目が欲しい、とだけ願ってしまったら、世の中にある全ての右目が対象になってしまう。当然、この箱には入らない。呪いは返って障りになる。扱いが難しいんだ」


 浅沙はそう言うと、厳しい表情を浮かべて花梨に念を押した。


「だから、開けちゃダメだよ。封じてあるから、開かないだろうけど」


 花梨は浅沙の言葉にうなずくでもなく、香合石にじっと目を向けている。何かを考え込んでいるようだ。


 そのことを気がかりに思ったのか、黒曜石が声をかけた。


「花梨。やはり危険なものなのだろう。槐に預けた方がいい」


「そうですね。うちで厳重に保管しておきましょう」


 槐はそう言ったが、花梨はその提案を退けるように、きっぱりと首を横に振った。


「いいえ。開けなければ、何も起こらないということですから。それに、封じてあるなら問題はないと思います。危ない物を、またお店に持ち込むわけにはいきません」


 これには、黒曜石も驚いたような声を上げる。


「花梨……そんなことは気にしなくてもいい」


 しかし、花梨はそれを受け入れるつもりはないようだ。苦笑を浮かべながらも、こう返す。


「大丈夫だよ。黒曜石」


 かたくなに香合石を手放さない花梨にため息をつくと、黒曜石は恨みがましい目を槐に――いや、槐が持っている碧玉の方へと向けた。


「碧玉。あなたが、あのようなことを言うから……」


 いつのことだったか、彼女が店に奇妙なカエル石を持ち込んだとき、碧玉が苦言を呈したことを言っているのだろう。


 碧玉は沈黙している。浅沙はそうしたやりとりをじっとながめていたが、何も言うことはなかった。


 花梨が手にしている香合石を見つめながら、槐はしばし考え込む。


 鬼から受け取ったという石。たとえ封じられていたとしても、その石を彼女の元にとどめておいていいものかどうか――


 とはいえ、そもそも彼女が鬼に会ってしまったのも、おそらくは姉を探していたことと無関係ではないだろう。できることなら妙な因縁には巻き込みたくはないと思っていたが、そうして遠ざけておくことはもはや難しいようだ。


 考えた末に、槐は花梨に彼女の姉について話すことを決める。


「鷹山さん。実は、エリカさんの所在がわかりました。そのことについて、浅沙さんとも話していたところです」


 突然のことに、花梨は呆けたような表情を浮かべている。相手の反応をうかがいながら、槐は慎重にこう続けた。


「ご無事であることは確かです。ただ、少し気がかりなことがありまして……ですから、確認できるまで、しばらくお待ちいただけないでしょうか」


 花梨は戸惑いながらも、どうにかうなずいている。おそらく聞きたいことは山ほどあるだろうが、とっさのことに言葉もないのか、くわしい事情をたずねることもない。


 ともかく、これで彼女が思いがけず危険に足を踏み入れてしまうことはないだろう。その間に、珪化木の呪いをどうにかしなければならない。


 視線を向けた先では、意味深な顔をした浅沙が無言で槐をにらみ返していた。

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