第二十一話 十字石(六/七)
表門を通って、家の中へと入り込む。空木は抜け目なく周囲を見回していたが、残念ながら幽霊の――消えた女の子の姿は見当たらなかった。
「それで? うちに何の用ですか」
女性は空木を三和土まで通すと、その先に案内することもなく、険しい表情でそう問いかけた。喜んで迎え入れてくれるわけではないらしい。が、それも当然か。
どう切り出したものかと思案しながら、相対する女性にあらためて目を向けた、そのとき――視界の端で奇妙なものが動いていることに気づいて、空木は思わず顔をしかめた。
女性の背後で、丸く平たい何かがくるくると回っている。これは、いったい――
空木にだけに聞こえるほどのささやき声で、式はこう問いかける。
「何が見えている。空木」
「歯車。いや、車輪が回って――」
空木は呆然としながらも、そう答えた。女性は途端に表情を曇らせる。
「歯車……どうして、あなたがそのことを?」
どういうことだろう。彼女には何か心当たりがあるようだが、空木には何のことだかさっぱりわからない。
その戸惑いに、一応の答えを与えたのは式だった。
「空木。君が見ているのは、おそらく片輪車だ、と石英が」
「片輪車?」
空木は思わずそう問い返した。
目の前の女性は――ひとりごとを言っているようにでも見えるだろう――空木にいぶかしげな顔をしながらも、時折どこか別のところに目を向けている。何か他に、気がかりなことでもあるかのように。
そんなことはおかまいなしに、式は淡々とこう話す。
「片輪車は『諸国百物語』にある話で、夜に街中を走る車輪の化けものだ。あるとき、女がそれをのぞき見たところ、片方だけの車輪が千切れた人の足を下げて転がっていた。しかも、その化けものは女に向かって、我を見るより我が子を見ろ、と言うので、あわてて子どもを見に行くと、その子の足が失くなっていた――という話だそうだ」
「また怪談かよ。だそうだ、って……それも石英が言っているのか?」
「いや。これは針鉄鉱が――」
「誰だよ。それは」
呆れのあまりそう呟きながらも、空木の心中には何とも言えない苦い感覚が広がっていた。我を見るより我が子を見ろ――子を失った母親の背後で回るその車輪は、その母親のことを責め苛んでいるかのように思われたからだ。
そのときふいに、空木は回る車輪の向こうに幽霊の――消えたはずの女の子の姿を透かし見た。その子は悲しそうな表情を浮かべながら、家の奥の方を指差している。
「奥に何か――いや、誰かいるんですか?」
空木の何気ない問いかけに対して、女性は明らかにその身を固くした。これは何かあるだろう。いや、そもそも何かあるだろうと思っていたわけだから、それが確信に変わった、といったところか。
ここまで来たからには、もはやためらってもいられない。
覚悟を決めた空木は幽霊の示す場所に向かうため、目の前の女性を押し退けて、上がり框に足をかけた。相手は当然それを止めようとするが、叶わないとわかると、空木を突き飛ばしてまで先回る。
幽霊が指差す先にあるのはリビングか――いや、その先につながっているらしい和室のようだ。廊下に面した戸を開けて、女性はその中にかけ込んで行く。
そこにはいったい、何があるのだろう。
女性を追って、部屋をのぞき込んだ空木が目にしたのは、畳の上に横たわる少女の姿だった。空木から隠そうとでもするかのように、女性はその前に立ち塞がっている。
少女はかすかに寝息をたてているので、おそらくは眠っているだけだろう。行方不明の子だとは思うが、どうしてこの子がここにいるのか。
空木は必死で考えを巡らせた。
幽霊の姿はいつの間にか和室の片隅にあって、この状況を悲しげにながめている。その顔が、近くにある仏壇の遺影と重なった。
真夜中に友だちを呼びに来る幽霊。しかし、その幽霊は、あのこをおうちにかえしてあげて、と言っていた。これは彼女が望んだ結果ではないのだろうか。わからない。ただひとつ、わかることがあるとすれば――
空木は苦々しい表情を浮かべながらも、鋭い視線でにらみ返してくる女性の方へと目を向けた。彼女には、少なくとも見られて不都合なことをしているという自覚はあるらしい。
空木は女性にこう問いただした。
「その子をどうするつもりです」
彼女は何も答えない。片方だけの車輪は、今もその背後で回っている。
戸惑う空木に、こそっと声をかけたのは式だった。
「どうやら、何らかの力が働いているようだよ。おそらく、死者は自分の意志でこの子を呼んだのではないのだろう。むしろ、それはこの子を呼び込むための――」
皆まで言わせずに、空木は女性にこう言った。
「その子を夜中に呼び出していたのは、あなたですね」
女性は強張らせていた肩を落としたかと思うと、深いため息をついた。そして、もはや隠し通せないと開き直ったかのように、少女の傍らに跪く。
そして、どこか虚ろな笑みを浮かべながら、こう答えた。
「いいえ。うちの子ですよ。お友だちと走り回るのが大好きで。それで、遊んでもらったんです」
空木はその答えに思わず顔をしかめた。
彼女の背後では、車輪がなおも回り続けている。片隅の幽霊は痛ましげな表情でかすかに首を横に振った――気がした。どちらも実在するのものではない。式の力が見せている、本来なら見えないはずの何か――
しかし、目の前で眠る少女は、間違いなくこの場に存在しているものだろう。だとすれば、呼び出したのはこの女性以外にはあり得ないのではないだろうか。ただ、それがどのようにしてこうなったのか、空木には全くわからないのだが。
空木はさらに問い詰めた。
「この子を呼んだのはあなたでしょう。どうしてそんなことをしたんですか。あなたにならわかるはずだ。子どもを失う悲しみが。そうでなくとも、こんなこと、娘さんが望んでいるはずは――」
「あなたに、うちの子の何がわかるんです!」
女性の叫びに、空木は思わず口をつぐんだ。
確かに、空木には亡くなった子の気持ちなどわかるはずもない。ただでさえ、生きていた頃のその子とは、一度も会ったことがないのだから。ましてや、一番身近だったはずの母親にそう返されてしまっては、それ以上何も言うことはできないだろう。
空木が黙り込んだのを見て、女性はどこか悦に入ったようにこう話す。
「あの子は寂しがっているんです。私にはわかります。だから、お友だちを呼んであげなくちゃ……」
空木はふと、これはぽっかりと空いた穴だ、と思った。
他人には理解できない、ぽっかりと空いた穴。どれだけの深さなのか。どれだけの痛みなのか。誰にもわからない――
ふいに、人は死んだらそれで終わりだよ、という燐灰石の言葉を思い出した。そして、人はそこに恨みや心残りを勝手に見いだしたりする、という言葉も。
この女性は、亡くなったその子を思うあまり、あるはずのない死者の心を見いだしてしまったのだろうか。しかし――
空木は部屋の片隅で暗い顔をしている幽霊に目を向けた。
あのこをおうちにかえしてあげて――この子は確かにそう訴えていた。それとも、それすら空木が都合よく見いだした心にすぎないのだろうか。
空木が呆然としているうちにも、虚ろな目をした女は眠っている少女をふいに抱きかかえたかと思うと、こんなことを言い始める。
「そうね……いっそ、ずっと一緒にいてもらいましょう。あの子のために。そうすれば、きっともう、寂しくない」
両輪の、片方を失ってなお走り続ける片輪の車。それがもはや、思いもしない方向に走り始めたことに気づいて、空木は思わず息をのんだ。
この人は、いったい何をするつもりだろう。まさか、この子を道連れにするつもりなのでは。
眠る少女は目覚めることもなく、ぐったりとした体を女の腕にゆだねている。どうにかして、この子を彼女から引き離さなければ――
焦る空木に、声をかけたのは式だった。
「空木。十字石だ」
そういえばそうだった。他の石と違って全く主張しないものだから、存在を忘れかけていた。しかし、石英がわざわざ持たせたのだから、この石にはこの場をどうにかする力があるはず。
名を呼ばれたからか、そこでようやく十字石は言葉を発した。
「止めても、よいのだな?」
「こんなこと、止められるものなら止めてくれ!」
とはいえ、この状況でいったい何ができるというのだろう。不安のあまり、思わずそう叫んでしまった空木に向かって、式は平然とこう返す。
「大丈夫。十字石が立ち塞がれば、その先には誰も通れない」
空木の元から逃れようと、少女を抱えたまま足を踏み出した女性の前に、何か細長い棒のようなものが現れる。それは彼女の歩みを阻むように、その眼前に屹然と横たわった。
差し出された棒をかまえているのは、いつの間にか姿を現した青年だ。もしかして、これが十字石の姿なのだろうか。
体格のよい、見るからに偉丈夫といったその青年は、女性に向かって力強くこう言い放つ。
「汝、この先を通ること、まかりならん!」
女性の歩みが止まる――いや、まるで透明な壁に阻まれたかのように、その先に進むことができないようだった。
しかし、そうしてよろけたがために、彼女は抱えていた少女を取り落としそうになる。空木はあわててかけ寄ると、眠る少女をどうにか受け止めた。
十字石に止められた女性は、もはやその場から一歩も進めないらしく、憮然とした顔でその場に立ち尽くしている。そして――
「……ここどこ? お母さん?」
空木の腕の中で、少女はふいに目を覚ました。
自力で体を起こした少女は、きょとんとした顔で辺りを見回している。体調などに問題はなさそうだ。そのことに、空木はひとまずほっとする。
部屋の片隅にいた幽霊は、いつの間にかいなくなっていた。女性の背後にあったはずの車輪も消えている。これですべては終わったのだろうか。しかし――
ぽっかりと空いた穴は、どうなるのだろう。空木はふいにそう思った。
空木は悄然と佇む女性の表情をうかがい見る。それまでの激しい感情も消え去って、彼女はもはや、考える気力すら失ってしまったかのようだ。
空木は哀れに思って、彼女に何かしら声をかけようとした。とはいえ、この状況で空木にかけられる言葉があるだろうか。それでも何か。何かないか。そう思って、空木はどうにか言葉を探す。
考えた末に、空木の口から出たのはこんな言葉だった。