柴田華
神奈川県川崎、ホテル街から少し外れた通りに建てられたソープランド。私は毎日のようにここに出勤している。
入口に人がいないことを確認し扉を開け奥のロッカールームに小走りで飛び込む。
「おはようございます」
「お疲れ様です」
先にロッカーにいた顔見知りのお姉さんに挨拶し荷物を手早くまとめる。
「準備できました」
部屋につけられてる内線から受け付けに連絡を済ませて、部屋に持っていく荷物を全て抱えると、スタッフが入ってくる。
「いける?」
「大丈夫です」
「部屋は205番で90分予約入ってるから」
「準備できたら連絡します」
タオルを受け取り、急いで部屋に移動する。部屋の準備や着替えで最低15分かかるのに予約を入れるのは嫌がらせかなと思いつつ仕事を進める。10分後、ようやく内線を手に取った。
「あっ…あぁん!そこっ!いいっ…イクゥっ」
「もうイっちゃったの?ゆいはやらしい子だなぁ」
「タケルさんがじょうず、あんっ…過ぎてはぁんイくのが止まらないのおぉっ!」
「ゆいはエッチな子なんだね」
「ゆいはエッチな子だからタケルさんの立派なおちんちん舐めたいなぁ」
もちろん全て嘘だ。
今日会ったばかりの人に淫靡な言葉を投げられ嬉しそうに肯定する。気持ち良いふりをして気持ち良くさせる、それが仕事だ。
1人目が終わってすぐ内線に連絡が入る。
「10分後本指名90分ね!」
「はい、準備できたら連絡します」
化粧直しに部屋の片付け水分補給して身だしなみを整える。どう考えても10分じゃ終わらないが言っても仕方がない。
「エッチが好きだからこんな仕事してるんだよねぇ」
半勃ちでにやにや聞いてくるお客さんに対する答えは1つしかない。
「ゆいエッチなこと大好きー!」
「ゆいちゃんはほんと変態さんだよね」
「山本さんは変態は嫌い?」
「うーん、嫌いじゃないよ」
彼に近づいて深めのキスをすればプレイ開始の合図だ。
8時間の勤務が終わり、清算を残すのみとなったロッカールームでのわずかな時間は至福だった。アンケートを読みながら店長の小言を聞き流し、手にした75,000円を財布にねじ込む。
「お疲れ様です!」
スタッフに入り口を確認してもらい挨拶して駅に向かう。
1ヶ月に100万円以上稼いでいる現状、新宿で物件を見つけたかったが、繁華街に近すぎるとお客さんに見つかる可能性もあった。念の為、駅を使う距離に一人暮らししている。
人の波を避けながら改札を抜けホームに立つ。終電間近の川崎駅は人が多く、店からつけられても駅で振り切れる可能性が高いだろうという考えもあった。
スマホが手の中で振動する。母からの着信だった。
「もしもし」
「あぁもしもし!遅い時間にごめんねぇー」
懐かしい地元の訛りに気を張っていた体がほぐれる。
「こんな時間にどしたの?」
「あんたぁこんな時間にじゃないと電話でないでしょー!もう!!まぁだ不規則な生活してんのか?」
「24時間営業の店で働いてるんだから仕方ないでしょ」
「はぁー24時間営業!東京は便利だよね」
「うちの近くにもコンビニ出来たらしいね」
「それだだぁ。あとを車走らすしかねぇ」
アプリを使った通話のせいか北海道と東京という距離が問題なのか、母の話す言葉を正確に聞き取ることができない。
「なんて言ってるのか分からないよ」
「だからあんたいつ帰ってくんの?」
「絶対そんなこと言ってなかったでしょ」
地元北海道の高校を3番目の成績で卒業、就職先を見つけたと嘘をついて上京してから6年。誰よりも稼ぐつもりで入ったこの業界だったが最初は泣かず飛ばず、全力で接客し続け男性によって性格を変えイベントを大事にし常連を増やし気付けば不動のNo. 1貯金は3000万円を超えた。私はいつ帰るんだろうか。
「そうだね」
「あんたそれじゃなんも分からんしょ。1日も休み取れないのかい?」
「いや、お休みはちゃんともらってるよ」
生理中はお休みだし精神的に辛い時は勝手にお休みしてる。それなりにお金も貯まった今、帰ろうと思えばいつでも帰れた。自分でもよく分かっていない、多分母に合わせる顔が無いのだろう。
起きている間ずっとこの仕事を辞めたいと思っている。でも気付けば同じ店に出勤してはじめましての男性に裸体を晒し腰を振って喘いでる。愛して育ててくれた母に合わせる顔などあるはずが無い。
「ねぇ、お母さん」
「改まって何さ」
言っていいのだろうか、言う資格があるのだろうか母の答えなど分かりきっている。ただの逃げだ。6年間張り詰めていた糸のようなものが今切れかかっていて、頼れる大人は端末の先にいる母しかいない。自業自得な泣き言でしか無い。分かっているのに止められなかった、零れ落ちるように言葉が溢れ出した。
「私、仕事辞めてもいいかな」
「…あんたはまた溜め込んだの?嫌になったんならいつでも辞めなさい」
「明日…」
「よく聞こえなかったよ、何て?」
「明日帰る」
「はぁ…まあ、いつでも帰っておいで」
潮時だった、そう思うしか無い。
テンピューロのふかふかベット上で目が覚める。夢も見ずしっかり眠れたのは久しぶりだった。昨日母とのやり取りの後すぐ店に戻って辞める旨を伝えた。
夜の仕事の良い点はこういう時、後腐れなくすぐに終わらせることができるところだろう。店の人間は急に戻ってきた事には驚いていたが、夜逃げのように飛ぶ子や前日に連絡一本で辞める子も多くいる中、6年間そこそこ真面目に働いてきた私が辞めることに驚きもせず退店を了承してくれた。
明日以降予約を取ってくれていたお客様には申し訳なく思った。だけどそんな自分も嫌だった。
店に置いてある私物をまとめて待って帰った。道中は嬉しさでいっぱいだった。
しかし流石に次の日に飛行機を取る事は出来なかったので、引越し業者の手配など、諸々含めて2週間後に帰ることにした。一言、部屋片付けておくと言ってくれた母には感謝しかない。
2週間で大体のことは終わらせ物の無くなった狭い部屋を見渡す。早くお金貯めたくて収入に対してかなり安い物件に住んでいた。北海道の広くて開放的な実家とは大違いの、狭くてうるさいセキュリティだけしっかりした東京の部屋には何の思い入れもない。
必要な荷物は全て送っていたので小さなハンドバックだけを持って家を出た。
空の上
ぐんぐん高度を上げ雲よりも高い空を飛んでいる。地元紋別には空港があるが、そこへ向かう機内には空席が目立ち、隣も空いてるので広々使っている。
オホーツクは流氷が有名だがもう時期を過ぎているからだろう。シーズンになると国内外からかなりの人が押し寄せることを思い出す。やっと帰れる。
感無量とはまさに今、この気持ちのことを指すのかもしれない。6年間必死に働いて、何十年か働く必要がない程度にはお金も貯めた。
親に合わせる顔など無いと思っていたが、案外自信を持ってる自分に驚いている。とりあえず早く帰ってお母さんの混ぜご飯とポテトサラダが食べたいなと思った。
影が見えた。
空港に向かう途中購入した小説を読んでいると一瞬影がさしたように感じた。雲がかかる高度は過ぎているはずなのにと思いながら小窓を覗き込む。
「…ドラゴン?」
飛行機のほんの小窓、刹那に浮かんだ金色の瞳から目が離せなかった。
久しぶりに乗った飛行機で幻覚が見えてしまっている。CAさんを呼んで飲み物を貰おうと手を上げると前から悲鳴が聞こえた。
「やばいって!!ドラゴンっしょどう見てもストーリーあげようぜ早く!!」
「機内だから無理じゃね?とりま動画だけ!」
幻覚が見えていたのは私だけじゃなかった。
彼らの元にCAさんが駆けつける。その間にも機内のあちこちからドラゴンや鳥といった、囁き声が広がって止まらない。幻覚作用のある薬を撒かれたテロだろうか?
機体が大きく揺れた。
「お客様、シートベルトの着用をお願いいたします」
しかし騒ぎが大きくなるばかりで銃を持った人物は一向に登場しない。CAの1人が前方のコックピットに走っていくのが見えた。シートベルト着用サインが点灯しアナウンスが流れる。それにしてもドラゴンか。
小窓を覗くと影はもうどこにも無かった。
5分ほど経ちシートベルト着用のサインも消えた。またもや機長からアナウンスが入り、このまま飛行を続行する旨が伝えられた。
乗客たちの騒めきは静まることなく、むしろアナウンスでより大きくなる。
「テロじゃなきゃいいが…」
「鳥だった?でも鱗ぽかったよ!」
「ドラゴンやべー!動画撮れた!?」
機内の興奮した空気感は一向に収まらない。しかしその後は安定した飛行を続け、40分程度で無事、紋別空港に着陸した。
母はすでに迎えにきていたので2人で昼食を取ってから駐車場に向かう。
その間、東京で何をしていたかより機内で起こった不思議な出来事についての話の方が多かった。
「何だったんだろう」
「鳥だべ」
「鳥がいる高度じゃ無かったんだって!」
「集団催眠にでもかかったんでないか」
母は取り合ってくれなかったが、同じ機体に乗っていた乗客たちの興奮を目の当たりにし、鳥か集団催眠ならあり得ると結論付けたようだった。
正直ずっと心臓と胃がぎゅぅっとなっていたが、空港に着陸し久しぶりの母と抱擁を交わしてラーメンを食べるとすっかり落ち着いてきた。
これからのことは家に帰ってから考えよう。追い詰められるような焦燥感のなか生活していたのが嘘のように開放的な気分だ。
実家は六年前と比べ様変わりしていた。広くて開放的なのはそのままお風呂場とキッチンがリフォームされ、細々したものがスッキリ収納、清潔感のある空間になっていた。
「リフォームしたとは聞いてたけど随分綺麗になったね」
「送ってくれたお金のおかげでございますよ。毎月あんなに大丈夫だったのかい」
六年間、毎月仕送りとして出勤2回分を送っていたが、二箇所リフォーム出来る程の金額になっていたとは思いもしなかった。
働き始めたばかりの頃の記憶が曖昧であったり、お金の使い道を覚えていないのは考えるのを放棄していたからだろう。
「あんたやお兄ちゃんが独り立ちしてから学校関係のものは捨てて、そしたらすんごい気分が良くてねお母さん時間も余ってたから掃除にハマったんだぁ。綺麗になったしょ」
物が減って家具の配置が変わっても実家だとわかる何かがあった。それがあるから東京にいた時の孤独感は感じない、ここが居場所だと強く思える。
「ただいま」
小さく呟いた言葉は新しくて懐かしい家に溶けた。