第二話
「それじゃあ、おやすみ」
十時のニュース番組が終わったので、健介は自分の部屋へ戻ろうとしました。少し顔が赤くなった父親が、ビールを片手に声をかけました。
「ああ、もう寝るのか。おやすみ、ちゃんと宿題やっとけよ」
「いわれなくてももうやってるよ。じゃあ」
健介はそのまま自分の部屋へ入り、ガチャリとかぎをかけました。
「かぎなんかかけて、ホントに宿題やってるのかしら?」
リビングから母親の声が聞こえてきました。六年生になってから、ようやく自分の部屋にかぎをつけてもらえたのです。両親には、勉強に集中するためだといっていましたが、実際は……。
「昼間はごめんよ、あんなひどいこといって。ただいま、ほたるちゃん」
健介は本棚の一番下に入っている、大きな辞書をとりだしました。しかし辞書のカバーの中には、入っているはずの本体がありません。かわりに入っていたのは、女の子たちが学校でうわさしていた、ほたるの夕べでした。表紙でピンク色の髪をした女の子が、健介に笑いかけています。もちろん全巻そろっています。
「ああ、やっぱりかわいいなあ、ほたるちゃん。連載終わっちゃったときには泣きそうになったけど、でも、ようやく会えるんだ。ほたるちゃんに。さっそく準備しなくちゃ」
健介はいとおしそうにほたるの夕べを抱きしめると、今度は押入れを開けました。すみのほうにあった段ボール箱を、そろりそろりと取り出します。
「通信販売でゲーム機買ったっていったけど、大丈夫だよね。お母さんたちには、ばれてないよね」
音を立てないように慎重に、健介は段ボール箱から、大きなまくらを取り出しました。電気コードがはしっこからのびていて、まくらカバーには羊の絵が描かれています。
「ついにこの日がきたんだ。通信販売のサイトで、『夢まくら』を見つけてから一年間、おこづかいをために貯めて、ようやく買ったんだ。長かったなあ」
いつも使っている自分のまくらをわきによけて、健介は夢まくらをベッドに置きました。コンセントを差しこむと、まくらからブゥーンと、低い音が聞こえてきます。
「ああ、でも迷うなあ。うーん、どの巻にしようかなあ」
ほたるの夕べをベッドの上に並べて、健介はうなりました。一冊ずつとりあげては、ページをぱらぱらとめくっていきます。
「でもやっぱり、この最終巻が一番いいな。ほたるちゃんが一番かわいく描かれてるし、カラーページも載ってるし。よーし、夢まくら、頼むぞ」
健介は夢まくらのファスナーを開けました。まくらのふわふわしたクッションの中は、がっしりした機械になっています。そのさしこみ口に、ほたるの夕べを、ページが折れ曲がらないようにていねいに入れます。夢まくらのはしにあるスイッチをオンにして、ごくりとつばを飲みました。
「これで、大丈夫だよね。確か読みこみにしばらくかかるんだったよな」
ファスナーをしめなおすと、健介はベッドの上に並べたほたるの夕べを、辞書のカバーにもどしました。ブゥーンという低い音がやみ、夢まくらの中から、シャッシャッシャッという、紙をめくるような音が聞こえてきます。夢まくらがほたるの夕べを読みこんでいるのでしょう。健介はさっきの段ボール箱から、今度はがっしりしたヘッドギアを取り出しました。
「確かこれが、夢まくらとぼくの頭をつなげる装置だよな。でも、こんなのつけてうまく眠れるかな」
ぶつぶついいながら、健介はめがねを外し、ヘッドギアを頭につけました。髪がごわごわして、水泳用のぼうしをかぶったような感じです。何度かヘッドギアの位置を修正しているうちに、夢まくらに青いランプがともりました。ヘッドギアと通信が完了した合図なのです。しかし夢まくらからはまだ、シャッシャッシャッという音が聞こえてきます。健介はかすかにまゆをひそめました。
「まだちょっとかかりそうだけど、眠りにつく間に読みこみも終わってるよね。待っててね、ほたるちゃん」
健介はヘッドギアの位置を指で直して、ゆっくりと夢まくらの上に頭を置きました。心臓がどくんどくんと落ち着きません。もし眠れなかったらどうしようかと、不安な気持ちもふくらんできます。
――それにこのヘッドギア、すごい違和感があるよ――
何度か頭を動かしているうちに、どこからかメェーメェーと、羊の鳴き声が聞こえてきました。まるで頭の中に直接ひびいてくるような、それでいて眠気を誘う、ここちのいい鳴き声でした。夢まくらの青いランプが、チカチカチカと点滅しています。それを見るともなしに、健介はぽつりとつぶやきました。
「あぁ、これで眠れ、る……」
「う、ううん……」
健介はゆっくりと目を開けました。まだ頭がぼんやりしていますが、だんだんとあたりの様子がわかってきました。
「ここは、空港?」
遠くから、ゴオオッとエンジン音が聞こえてきます。それとともに、頭も少しずつはっきりしてきました。
「じゃあ、ここは、ほたるの夕べの中の世界なのか? あっ、違った、ぼくの夢の中なんだよね。夢の中とは思えないほど、リアルだな」
健介はずり落ちためがねをかけなおし、それから空港を見まわしました。これが本当にほたるの夕べの世界なら、パティシエの修行に行くために、飛行機に乗るほたるがいるはずです。
「夢まくらは夢の世界の中だから、夢の主であるぼくが、なんでも自由にできるんだ。ほたるちゃんとデートだって!」
ベンチから立ち上がり、健介は必死でほたるのすがたを探しました。人ごみの中、遠くにピンク色の髪をした女の子が見えます。
「あ、ああ、ほたるちゃん、ほたるちゃんだ! 本当に会えるなんて」
健介は何度も両手を振りました。ピンクの髪をふわりとゆらして、ほたるがこちらをふりむきました。ぱっちりとした目に、ぷるんとしたくちびるが、遠目からでもきわだっています。マンガで見たときよりも、はるかにかわいらしいその顔に、胸の高鳴りが止まりません。なによりマンガと違って、このほたるは生きていて、そして動くのです。健介を見つけたほたるの表情が変わったときは、本当に花が咲いたと見まごうほどの衝撃でした。息を飲む健介に、ほたるがかけよってきます。
「ほたるちゃーん! こっち、こっちだよ」
健介は思わず走りだしていました。ほたるも健介のほうに走ってきます。しかし、健介は大事なことに気づいてしまったのです。
――そうだった、マンガの中でのほたるちゃんの恋人、ヤマトは、高校生ってことだったんだ――
まだ小学六年生で、しかも背が低い健介は、ほたると並べば明らかにつりあいが取れないでしょう。もしかしたらほたるに嫌われてしまうかもしれません。恐怖に顔がひきつる健介でしたが、ほたるはもう目の前にせまっています。
「ああ、会いたかったわ、健介君!」
ほたるが健介の手をぎゅっとにぎりました。夢の中だというのに、その手は温かく、それになんと細いのでしょう。健介は今にも泣き出しそうなほたるの顔を見おろしました。
――あれ、どうして? どうしてぼくのほうがほたるちゃんよりも背が高くなってるんだ――
健介は目をぱちくりさせます。いつの間にかかっこうも、ヤマトが通っている天の川第一高校の制服姿になっています。
――そうか、ここはほたるの夕べの世界だから、ぼくのすがたもそれにふさわしいように変わっているんだ――
ひとりで納得している健介に、ほたるが鈴を転がすような声で話しかけてきました。
「もう一生会えないと思ったわ。ベルギーに行くって決まったとき、健介君はわたしの前からすがたを消して、それ以来ずっと連絡がなかったから。でも、こうしてまた会うことができて、わたし、うれしい!」
ほたるの髪から、とろんとしてしまうような甘く優しいかおりがただよってきます。もはやこれが夢なのか、それとも現実なのか、健介には判断することができませんでした。ただただ、ほたるといっしょにいられる、この甘い時間が永遠に続けばいい、それだけしか考えることができませんでした。
「ほたるちゃん、ぼくといっしょにきて。パティシエ修行になんて行かないで、ぼくといっしょにデートしよう!」
いつもはこんなセリフ、女子相手には絶対にいえない健介ですが、不思議と夢の中では、どんなことでもできる気がします。そう、どんなことでも……。
――ここはほたるの夕べの世界だけど、ぼくの夢の世界でもあるんだ。だからきっとぼくがイメージすれば――
健介は目を閉じ、テレビでよく見る、アトラクション満載の遊園地『ドリームワールド』をイメージしました。空港だったはずの景色がぐにゃっとゆがんで、次の瞬間健介とほたるは、たくさんの人でにぎわうドリームワールドのど真ん中に立っていました。
「わっ、ドリームワールドだ! テレビで見たまんまだ。でも、これってどう考えても現実そのものだよな」
人々の歓声も、グルグルとすごいスピードで進むジェットコースターも、なにもかもが現実にしか思えません。でも、すでに健介は、そんなことはどうでもいいように思えました。現実だろうが夢の中だろうが、こんな最高の思いができるなら、どっちだろうと関係ないのです。健介はぎゅっとほたるの手をにぎりました。
「さ、ほたるちゃん、いっぱい遊ぼうよ!」
そういって、健介はさっきのジェットコースター乗り場へ向かいました。たくさんの人が並んでいます。健介がその最後尾に並ぶと、ほたるがくすくすっと笑いました。
「もう、健介君ったら。わたしたちの持ってるロイヤルフリーパスチケットなら、並ばないで乗れるでしょるでしょ」
ほたるがいつの間にか、金色に輝くカードを手に持っていました。それがロイヤルフリーパスチケットなのでしょう。健介ははにかむように笑って、それからジェットコースター乗り場へ向かいました。
それにしても、なんという臨場感なのでしょう。ジェットコースターも、メリーゴーラウンドも、コーヒーカップも、どれもこれも現実としか思えない作りです。こんなにたくさんのアトラクションを並ばずに、しかも大好きな女の子といっしょに回れるなんて……。健介はほおをつねろうとして、思わず手を引っこめました。
「危ない危ない、こんなことしてもし夢から覚めたら、とんでもないからな。まだまだ、もっともっと楽しまなくっちゃ」
健介は次に、やはり前にテレビで見た高級レストランをイメージしました。グググッとあたりの景色がゆがんでいき、空港から高級レストランに変わっていきます。輝くようなシャンデリアに、少しのほこりもないみがかれた床、テーブルの上には真っ白なテーブルクロスに、色とりどりの花が飾られています。なにより窓の外に見えるのは、宝石をちりばめたような豪華な夜景でした。自分でしたことながら、健介は驚きに目をみはりました。
「うれしい、わたしのためにこんなすてきなレストランを予約してくれたなんて」
ほたるが甘えるように、健介のうでを取って席に座らせます。レストランのウェイターが、いつの間にか料理をテーブルに並べてくれました。『十二種の野菜のテリーヌ』から始まり、『舌ヒラメのポアレ、シャンパンクリームソースとキャビアをそえて』、『ブルゴーニュ風牛肉の赤ワイン煮』、『キイチゴとキャラメルのタルトフィーヌ、シナモンの風味』と、まったく聞いたことがない料理ばかりでしたが、どれもこれもとんでもないおいしさでした。しかもそのおいしい料理を、あこがれのほたるちゃんと食べられるなんて……。ほたるが健介を見て、小首をかしげてにこりとします。
――もう、ずっとこの世界で暮らしていきたいよ! この世界ではなんでもできるんだ、まるでぼくが、この世界の王様になったみたいだ――
キイチゴとキャラメルのタルトフィーヌの、最後のひとかけらを口に運び、健介はおいしさでぎゅっと目をつぶりました。そして目を開けようとした瞬間に、ビリビリッというなにかが破ける音が聞こえてきたのです。
「えっ?」
いったいどうなっているのでしょうか。目を開けてみると、ほたるがいつの間にか目の前から消えていたのです。それどころか、さっきまでいたはずの高級レストランではなくて、最初の空港に戻ってきています。突然のできごとに、健介はその場に立ち尽くし、きょろきょろとあたりを見わたします。
「なんだこれ? いったいなにが起こったんだ? なんで空港に戻ってきてるんだ。それに、ほたるちゃんはどうなったの? えっ、なんで、どうして」
うろたえる健介ですが、どこからか聞き覚えのある声が耳に入ってきました。
「どうして岡山が夢まくらを使っているの?」
自分の苗字を呼ばれて、健介はビクッとかたまってしまいました。自分のことを苗字で呼ぶ女の子は、クラスに一人しかいません。
「まさか」
ほたるがいたところに、背の高い女の子が立っていました。切れ長の目が、じっと健介を見すえています。健介のからだが、びくっとふるえました。