第十九話
こわごわ起きあがると、そこはすでに宇宙船のなかではありませんでした。日記の世界と同じく、真っ白な空間です。足元を見ましたが、そこにあるはずの地面はなく、宙にういているような状態でした。
「そうだ、夢雨は? おい、夢雨!」
目が痛くなるほどの白い世界で、健介はありったけの大声をはりあげました。しかし、返事は返ってきません。声まで白く染まってしまったかのように、音は消えて耳が痛くなってきます。健介はどうにかしてこの白い空間から逃れようと、手足をめちゃくちゃにバタバタと動かしました。
「この話を作ったときに、時雨に聞いたんだ。君はどっちを選ぶかって。そうしたら時雨は、すぐに知能を選ぶっていったよ」
どこからか男の人の声が聞こえてきたので、健介は意識を耳へ集中させました。
「誰だ? いったいここはどこなんだ?」
しかし、男の人は健介の問いかけにはまったく答えず、話を続けました。
「どうして知能を選ぶんだって、わたしが理由を聞いたら、時雨はいたずらっぽく笑って、こういったんだ。『もし精神が、あなたのものだったとしたら、きっと精神を選んでいたと思うわ』ってね」
なんのことかわからず、健介はただ混乱するばかりでした。けれどもどうやらこの声の主が、この小説の世界の主、つまり夢雨のお父さんだということだけはわかりました。
「夢雨のお父さんですよね? お願いです、夢雨を助けてあげてください! 夢雨があなたを追って、あなたの夢の世界へ入ってしまったんです。お願いです、夢雨を夢から出してあげてください!」
健介が必死に頼みこみますが、言葉はそのまま白い空間にすいこまれてしまいました。なにごともなかったかのように、声の主は話し続けます。
「もちろんわたしは抗議したよ。そんなへりくつじゃなくて、この物語の主人公だったらどっちを選ぶんだって聞いたんだ。どちらが正解だと思うかって。時雨はやはり答えずに、『物語に正解なんてない』といった」
フッと霧が晴れるかのように、白い空間が消えてなくなりました。白い世界とは違い、強い光が目をくらませます。健介は手で顔をおおいました。かすかに風が吹いて、肌をさらりとなであげます。目が慣れてきたので、健介はあたりの様子をうかがいました。いつの間にか健介は、紅葉した落ち葉が舞う公園に立っていたのです。
「ここは? ここも小説のなかの世界なのかな」
太陽のまぶしさや、風のすがすがしさは、とても夢の中だとは思えないほどのリアリティです。先ほどまでの真っ白できゅうくつな世界とはまったく違うほがらかさに、健介は思わずぐーっとのびをしました。そしてふととなりを見ると、健介から少し離れたベンチに、男の人と女の人がすわっています。
「物語に正解なんてないわ。光治さんは科学者だから、正解を導きたいんでしょうけど、そんなの物語の世界にはないわよ。人生に正解がないのと同じでね」
女の人の声を聞いて、健介はすぐにそれが、夢雨のお母さん、時雨さんだと気がつきました。夢雨とよく似た声ですが、どこかで聞いたような気もします。健介は二人に気がつかれないように、そろそろとベンチに近づいていきました。
――あの人が、夢雨のお母さんか。長くて、きれいな髪の毛だな。夢雨にそっくりだ。きっと夢雨も、大きくなったらあんな女性になるんだろうな――
胸の奥が熱くなり、健介は静かに首をふりました。今はそんなことを考えているひまはありません。なんとかしてこのよくわからない世界のことを知ろうと、健介は二人の会話に耳をすませました。
「だけど、それでもよりいい選択肢っていうのはあるはずだろう。正解はなくとも、限りなく正解に近いものだってあるはずだ。そうしないと、琴線にふれる物語と、ありふれたおとぎ話の違いは生まれないはずだ。そうだろう?」
さっき真っ白な空間で聞いた、男の人の声でした。夢雨の家で見たときよりは、ひげの短いその男性こそ、夢雨の父親の光治さんでしょう。光治さんはどうだといわんばかりに、時雨さんを見て笑っています。時雨さんもフフッと、くちびるに指を当てながら笑いました。
「それを決めるのは読者だから、わたしたちにはどうしようもないわ。わたしたちが提示できるのは物語の結末だけであって、それが正解かどうかなんて決められないし、決めつけるのはよくないわ。ただ、そのお話の主人公が、きっとこうするだろう、こうすることを選ぶだろうって、それだけを考えて物語をつむぐのよ。それを読んだ人が、正解だと思っても、間違っているって思っても、どちらもありだと、わたしは思うわ」
「だけど」
「科学者だってそうでしょ。たとえばもしタイムマシンを開発したとする。でも、それを使う人がどうするかなんて、科学者には決められないじゃない。ましてやその使い道が正しいかどうかなんて。でも、科学の発展を目指すなら、タイムマシンを開発するでしょ?」
すずしげに笑う時雨さんの表情が、健介には一瞬夢雨と重なって見えました。しかし、すぐにその顔は消え、公園も消えて、もとの真っ白な空間へと戻ってきました。再び光治さんの声が聞こえてきました。
「わたしは時雨の、自分にはない感性がとても好きだった。白黒を決めずに、あいまいなままで、けれども常に幸福を願う時雨の感性が。もっともっと、時雨といろいろな話をしたかった。だからわたしは、わたしと時雨の世界へ入ることができたとき、この上ない喜びを感じたのだ。一生この世界から出られなくてもいい、そう思えるくらいの喜びを」
光治さんがしゃべり終わると同時に、真っ白な空間は再び霧が晴れるように消えていき、新しい世界がじわじわと目の前に広がっていきました。




