第十八話
静かな、そしていつもの抑揚のない声で、夢雨が水槽に向かってたずねました。水槽からは返事はありませんでしたが、夢雨はかまわず続けました。
「今の説明をしたのは、知能なの? それとも精神なの?」
とんちんかんな質問に、健介はぽかんと口を開けたまま、夢雨の横顔を見つめました。夢雨はまっすぐに、赤いハートの入った水槽を見つめています。
「それは、知能です」
少し間をおいてから、機械音声が答えました。しかし、夢雨は即座に否定しました。
「それはうそね。だって、もし本当に知能が意思決定を行っているのなら、わたしに意見なんて求めないはずよ。それこそ合理的に、一番生存確率が高い手段を選択するはずだわ。つまり、多少犠牲を払ったとしても、より長時間船を維持できて、全滅をさける確率の高い、知能を維持する選択をしているはずだわ」
赤いハートが入った水槽が、わずかに波立ったように見えました。夢雨は気にせず、無表情のまま続けました。
「でも、あなたは自分で選択せずに、わたしに決めるように求めた。それも精神に有利な説明をして。こんな説明をされたら、普通の人間だったら確実に精神を選ぶはず。もしここに健介君がいたら、絶対に精神を選んでいたはずよ」
夢雨がフフッと、乾いた笑みをうかべました。
「おい、なにいってるんだよ、夢雨。ぼくはここにいるじゃないか。いや、待てよ、まさかぼくは……」
健介は試しに、夢雨の顔の目の前で、ブンブンッと手をふってみました。夢雨はまばたきひとつしませんでした。
――そうか、これはきっと夢雨の記憶の世界なんだ。だから夢雨には、ぼくのことが見えないし、ぼくがなにをしてもこの世界には影響がないんだ。でもどうして? ぼくは夢雨のお父さんとお母さんが書いた、小説の世界に入ったはずなのに――
わけがわからないといった顔の健介をよそに、夢雨は赤いハートの水槽に向かってしゃべり続けていました。
「つまりこの説明をしたのは、自分に決定権はないけれど、うまく他人を誘導できるほうだわ。そして、そうしなければ自分が維持されないほうでもある。人間くさくて、自己中心的な……そうでしょう、精神?」
人間の心臓と同じように、赤いハートの鼓動はどんどん早く高まっていました。対照的に、夢雨の顔は恐ろしく冷めていています。切れ長の目をよりいっそう細めて、赤いハートを見つめていました。
「……どうしてわかったのかしら?」
機械音声に聞かれて、夢雨は苦々しく顔をゆがめました。
「あなたのように、現実を直視しないで、都合のいいものばかりを見ている人を、たくさん見てきたからよ」
突然宇宙船のなかに、甲高い笑い声がひびきわたりました。それが機械音声の笑い声だと気づいて、健介は背筋がぞぞっと寒くなるのを感じました。
「なんだよ、こいつ! もしかして壊れたんじゃないよな?」
夢雨はもちろん、健介の言葉に反応しませんでした。ですが、夢雨も少しめんくらったようで、切れ長の目を見開いています。ひとしきり笑い終わったあと、機械音声は話しはじめました。さっきよりも人間くさい、感情のこもった声色でした。
「そのとおりよ。わたしは精神。あなたがいうとおり、うまく誘導しようと思ったけれど、失敗したようね。いいわ、それじゃあ知能を維持しなさい。わたしの水槽の下に、赤いレバーがあるでしょう。それを引けば、わたしに供給されるエネルギーを、遮断することができるわ」
夢雨はしっかりと赤いハートを見すえたまま、水槽の下にあるレバーに手をかけました。しかし、機械音声は夢雨がレバーを引く前に、挑発するかのように続けました。
「けれど、あなたにできるのかしら。わたしがあなたの母親の精神でも?」
レバーを引こうとする、夢雨の手がピタリと止まりました。冷静な表情でしたが、それでも顔を上げて赤いハートを見つめます。
「ママは死んだわ。ずっと昔に死んでしまったの。だからあなたが、小説の中のキャラクターが、わたしのママなはずないわ」
「そうかしら? あなたも知っての通り、この小説はあなたのパパとママが書いたものよ。それならあなたのママが登場しても、おかしくないんじゃないの?」
一瞬間を置いたあと、夢雨は赤いハートにたずねました。いつもの抑揚のない声ではなく、わずかに感情がこもって乱れています。
「あなたがわたしのママだって、証明することができるの?」
「もちろんよ、夢雨。それより夢雨は、ママのことを忘れてしまったのかしら? ママの声を、ママの顔を、ママのぬくもりを……」
赤いハートの入った水槽が、ちかちかとまばゆく点滅しています。レバーをにぎる夢雨の手に、力が入るのがわかりました。
「夢雨、だめだよ、もし本当に君のお母さんだったら」
「あと十秒の間に決めてちょうだい。助かりたいならレバーを引いて。でも、レバーを引いたら、あなたのママは永遠に失われるわよ」
機械音声がいい終わると、宇宙船の明かりがフッと消えて、まっくらになってしまいました。見えるのは知能と精神が入った二つの水槽の、あわいライトグリーンの光だけでした。
「あと五秒」
「夢雨、だめだ!」
健介がさけんで夢雨の手をつかもうとしましたが、その手は虚空をかききるだけでした。夢雨の横顔が、ライトグリーンの光に照らされて、苦しそうにゆがんでいます。
「あと三秒、二、一……ゼロ」
次の瞬間、暗闇は一気にはじけて、目を焼くような白い光につつまれました。思わず目をおおい、健介はその場に倒れこみました。




