第十二話
研究資料は、二百ページ以上あったので、マンガや日記と違って、夢まくらが読みこむのにかなりの時間がかかりました。ですが、それでもなんとか読みこむことに成功したようです。メェーメェーと、羊の鳴き声が聞こえてきます。
――いよいよだな。どうしよう、緊張してきちゃった――
夢雨の手前、あんなかっこつけたことをいってしまいましたが、いざ研究資料の世界へ行くことになると、胃の奥から苦いものがこみあげてきます。それでも健介は、ぎゅっと目をつぶり、夢まくらに顔をうずめました。
――絶対に夢雨のお父さんを見つけるんだ――
健介が夢の中で目を覚ますと、そこは日記の中と同じ、真っ白な世界でした。しかし、ただ真っ白なだけの世界ではありません。よく見ると、日記の世界とは全然違うことに気がつきました。
「なんだよ、これ」
まるで生き物のように、白い空間を黒い数式が泳いでいます。見たこともない記号の列が、ゆらゆらとゆれながら飛びかっているのです。
「まるで水族館の、魚の群れだ。だんだん数も増えているし」
「予想以上に変な世界ね」
「夢雨!」
健介のうしろに、夢雨が立っていました。切れ長の目で、油断なくあたりを見まわしています。
「とにかく進んでいきましょう。ちょっと待ってて」
夢雨は手で、空間を払うような動作をしました。ぶわっと風が巻き起こり、足もとのもやがかき消されました。健介はめがねを指でかけなおして、ぽつりとつぶやきました。
「ずいぶん、機械的だな」
二人が立っていたところは、日記のときのような、山道ではありませんでした。透明なガラス板の上だったのです。その下には、何本ものコードの束や、ぐるぐると回り続ける歯車が乱雑に配置されていました。
「さあ、行きましょう。足元に気をつけてね」
差し出された夢雨の手をにぎり、二人は歩き始めました。ときおり数式が近くを横切るだけで、それ以外は静かな世界でした。
「ねえ、健介君。なにか見えない? 日記の中のときみたいに、強い光は?」
健介は立ち止まり、目をこらしました。遠くの空にも、たくさんの数式や記号が飛んでいます。
「うーん、今のところ見えないかな。飛んでる記号や数式にも、変なものは見えないし」
「そう。わかったわ。またなにか見えたら教えてちょうだい」
「なんだかすごい信用されちゃってるな」
照れ笑いして、健介がいいました。夢雨のほおが赤く染まります。
「だってそうじゃない。日記のときも健介君が出口を見つけたし、パパの研究資料だって、健介君が思いついたんだもの。……健介君、なんだかたくましくなった気がするわ。頼れる感じっていうか、その……」
もじもじしながらも、夢雨はぎゅっと、健介の手をにぎりしめました。こうしていると、夢雨の体温がじかに伝わってくるようです。ひゅうっと数式が二人のそばを横切りました。それからは、二人とも無言で、一本道を進んでいきました。
それにしても、なんと広い世界でしょうか。しかも、果てしなく真っ白な世界です。確かに数式や記号が、何千と空を泳いでいますが、それもどこまで続いているのかわかりません。
――さすがは、二百ページもある研究資料だな。こんな中で、夢雨のお父さんの記憶を探さないといけないなんて――
健介は空を見あげて、小さくため息をつきます。そのときなにか目の端で、ちかちかと黒いものがまたたきました。
「ん? なんだあれ?」
「どうしたの?」
夢雨もつられて空を見ます。健介の視線を追うかのように、目をこらしています。
「ほら、あそこ。なんだか数式の動きが、おかしいだろ」
健介がななめ右上の、空のはしを指さしました。数式が列をなして飛んでいるのに、その部分の数式だけは、ブルブルとふるえているのです。そして、まるで数式のインクが真っ白なスケッチにとけだしているように、空のすみっこが黒くゆがんでいます。
「うそ、いくらなんでも早すぎるわ」
歯がみする夢雨を見て、健介が小声で聞きました。
「あれってもしかして、日記のときと同じ、開発者の?」
「そうね。しかもこの間より、もっとたちが悪いわ」
夢雨はじっと空間のゆがみをにらんでいましたが、だんだんと眉間にしわがよっていきました。
「わたしたちを、この世界に閉じこめようとしているのね」
「そんなことができるの?」
「ええ。きっとあいつら、日記のときに座標をつかんでいたんでしょうね。もうあんなにゆがみが激しくなっているわ」
夢雨のいうとおり、空間は黒くゆがみ、近くの数式たちが、それに吸いこまれています。
「あれってまずいんだろう?」
目をこらしてゆがんだ空間を見ていた夢雨は、健介の言葉にうなずきました。
「ええ。まだ捕獲プログラムは現れていないけれど、現れるのも時間の問題ね」
「捕獲プログラム? そういえばこの間もそんな感じの、なんとかプログラムがどうとかっていっていたけど、いったいそれはなんなんだ?」
健介に聞かれて、夢雨はけげんな顔をしました。
「この間? ああ、この間いっていたのは覚醒プログラムよ。覚醒プログラムは、夢まくらに本来備えつけられてある救済処置のプログラムだわ。わたしたちみたいに、物語以外を夢まくらにはさんだときに、夢の世界からの脱出口を作りあげるプログラムなの。具体的にいえば、あなたが見たあの強い光のことね。それにふれたから夢から出ることができたでしょう」
光り輝く夢雨の笑顔を思い出して、健介は顔が赤くなりました。ごまかすように早口になりながら、健介は再び問いかけました。
「じゃあ、その捕獲プログラムっていうのは」
「覚醒プログラムとは別に、開発チームが独自に作り出したプログラムよ。パパの作った覚醒プログラムを、あいつらが勝手にいじったの。パパはその危険性にいち早く気づいて、開発をやめさせようとしていたんだけど、芹沢が勝手に開発を続けていたみたいなのよ」
「芹沢? 誰だい、それ?」
首をかしげる健介を、夢雨がキッときつい目つきでにらみつけました。
「誰でもいいでしょ!」
「あ、ごめんよ。口をはさんで……」
夢雨はきまり悪そうにうつむいて、それから続けました。
「ごめんなさい、どなるなんて……。話を戻すけど、夢まくらに物語以外のものをはさみこむことは禁止されているわ。それを破った人は夢まくらを没収されてしまうんだけど、没収された人間が夢まくらの危険性を公表したりすれば、開発チームは間違いなくクビになる。それに危険性を隠していたんだから、当然つかまるでしょうね」
健介は鼻をふくらませてうなずきました。
「そうだよ、だって夢の中に閉じこめられるかもしれないなんて、大問題じゃないか。……でも、ニュースとかではそんな話、ひとつも出てないよ。夢まくらを買うときに、通信販売のレビューを見たけど、みんな好意的な意見ばかりだったし」
「当り前よ。だって没収された人間は、そのときの夢の内容を忘れてしまっているんだから。ただ、禁止されているルールを破ったっていう事実だけしか残らない。だから夢まくらを没収された人も、否定的なことはいえないのよ」
夢雨の言葉を聞いて、健介は首をひねりました。
「ちょっと待って、どうして夢の内容を覚えていなんだよ? だって日記から脱出したぼくらは、ちゃんと日記の世界のことを覚えているじゃないか」
「わたしたちはちゃんと覚醒プログラムで脱出できたからね。でも、開発チームは覚醒プログラムの波動をキャッチすると、夢の世界から脱出する前に、捕獲プログラムでその人の意識をとらえるのよ。だから捕獲プログラムっていうの」
健介はごくりとつばを飲みこみました。こわごわ夢雨にたずねます。
「とらえて、いったいどうするんだ?」
「夢の中での記憶を消すのよ。夢から出られない可能性があるなんて、やつらからしたら都合の悪い記憶だから。夢まくらの夢の中では、主はどんなことでもできる。逆にいえば、主から夢の世界を自由にする特権を奪えば、開発チームはなんでもできるわ。夢に関する記憶を消すことぐらい、赤子の手をひねるようにたやすくできる。没収するのはそのあとね」
健介の顔が青ざめました。夢の中に入ることができる、それこそ夢のような機械だと思っていた夢まくらが、急に恐ろしいものに思えてきたのです。夢雨は、空間のゆがみをにらみつけたまま続けました。
「わたしは一度だけ、捕獲プログラムを見たことがあるわ」




