現と幻
一人の青年が、自分の部屋に入る。青年―シェランは激務に疲れた体で、カバンを放り投げた。窮屈に自分を締めるネクタイに手をかけ、それをほどいていく。ふと、部屋に置かれた大きな鏡の自分と目があった。その顔も、ずいぶんとくたびれているようだった。
だが、その日はいつもと違った。自分の顔を見つめるシェランの後ろに、穏やかな笑みをたたえた女性が立っていたのだ。恐らく年は青年とさほど変わらない。シェランは慌てて後ろを振り向いた。自分の後から部屋に入ってきたようには思えなかったからだ。だが、背後には誰もいない。どうもかなり疲れているらしい。再び視線を鏡に戻した。驚いた事に、先ほどの女性が鏡の中のシェランに腕をかけ、微笑んでいたのだ。自分の首にも背後にも、やはり姿など見あたらない。シェランはまたも鏡を見る。
そこに、女性の姿は無かった。気のせいか…。シェランがそう思った時、首に何か暖かいものを感じた。先ほどまで鏡の中にいた女性が、シェランの首に腕を回し、背後から抱きかかえていた。穏やかな笑みをたたえたまま。振り向けば、今はもうその顔が至近距離にある。
体が、動かない。指の先までも、まるでロウで固められてしまったようにピクリとも動かせなかった。
「ようやく会えたね、シェラン。」
耳のすぐそばで、女性の甘い声が聞こえる。こいつは自分を知っているのか?シェランは顔を女性に向けて固定されたまま、必死に記憶を探り始めた。だが、いっこうに思い出せない。
「だ…れだ」
必死に口を動かし、ようやくそれだけ言った。こわばった唇はかすれた声を紡ぐ。一瞬、女性の顔から笑みが消え、瞳に哀しみの色が浮かんだ。女性は首に回していた腕を離すと、未だ身動きできぬシェランのあごをその細い指でもって軽く持ち上げた。
「覚えてもらえなくてもいい。私はただ――」
―――あなたを、愛しているから…
女性の柔らかい唇が、シェランのそれと重なる。甘く、とろけるような感覚と同時に、シェランは体中に寒気が走り、力が抜けていった。意識が、無意識の闇に墜ちていく。耐えきれず、どさりと床に倒れ込んだ。
女性はもと来たように鏡の中に溶け、すぐに見えなくなった。取り残された体は、再び起き上がる事はなかった…。