6 病院ディクテーション
北風が体温を容赦なく奪っていく。背中を丸めて歩く人たちを追い越して駅前の書店に急いだ。
あまりの寒さに気が滅入りそうだ。冬はなんでもないのに気分を落ち込ませる。
自動ドアを潜って暖房にはいた安堵の息は、夕方のラッシュアワーのような店内に、ため息に変わってしまった。読書離れと電子書籍の台頭で年々客足が少なくなっている書店は、平日の昼間だというのに、混み合っていた。
入り口には蟹チャーハン先生の特設コーナーができ、数十冊の本が塔のように積み上げられていた。奥のスペースには長蛇の列が出来ている。
面陳にあった『死んだと思ったら異世界転生してて、気づいたら世界を救っちゃった件について』の一巻と二巻の二冊を片手でつかんで、列の最後尾に加わった。
客たちはリドルストーリーの結末について、各々熱い持論を展開していた。
脳内でその会話に参加しながら、奥の席でサインと握手をエンドレスに繰り返す人物に焦点を絞る。
蟹チャーハン先生は女性だった。
驚いた。独特な文体と丁寧な心理描写から勝手に年配の男性をイメージしていた僕は、若い女の人ということにギャップを感じた。大学生くらいだろうか。ショートカットの活発そうな女性だった。
結末を調べるためのアプローチ手法を考えないと。
策を巡らす僕の順番はすぐに来た。
本をレジで購入し、握手券を手に入れる。そのまま流れるように横のサインスペースに本を置く。
「応援してます」
近くで見た蟹チャーハン先生は睫毛が長く、美人だった。
「ありがとっす!」
お礼を言ってペンのギャップを取る。
「あの、『死んだと思ったら異世界転生してて、気づいたら世界を救っちゃった件について』の結末なんですが」
「結末すっか? どうなるんでしょうかね。自分で想像したものが真実だと思いますけど」
「実は病気で入院してる妹がいるんです」
嘘である。
「口は悪くて、性格もあまり良くないけど、蟹チャーハン先生の大ファンなんです。どうしても続きを聞いてこいと頼まれて……」
一部真実の半分嘘である。
「そうなんすか……」
蟹チャーハン先生は少しだけ、戸惑ったように唇に指をあてた。
「どうかヒントだけでもいただけないでしょうか?」
「ヒント……っすか」
蟹チャーハン先生は思案顔を浮かべ、キャップをしたペンを顎にあてた。
「そうですねぇ」
しばし考えるように無言になる。
「先生、持ち時間が」
いい感じの展開だったのに、横の店員が余計なことを言いやがった。
「あ、ああ、ごめんなさいっす。ヒントを与えたいのはヤマヤマなんすけど、自分は絵描き専門でして……」
「え」
半ば引き剥がされるように列から外される。去り際の言葉に首を捻るが、壁に張られたポスターで気がついた。
『すきやきうどん改先生 サイン会』
手元に残ったサイン付きの二冊を開く。綴られたサイン。
あ、これ、作画の方のサインだ。
原作である蟹チャーハン先生には会えなかったので、僕は病院に戻ることにした。
駅前は混雑していた。年の瀬は慌ただしく過ぎていく。
カフカに手に入れた戦利品とすきやきうどん改先生が美人だったことを伝えようと思った。どうせ暇だし、いまから帰ってもやることはない。
移動の道中、二日前にコンビニで購入した『歴史論者』を、鞄から取り出し、歩きながら読むことにした。友達に二宮金次郎と揶揄されて以来だ。
昨今歩きスマホが問題視されているので、あまりやらなくなっていたが、改めて蟹チャーハン先生の作品を読みたくなったのだ。
病院につく頃には僕の手は氷のようにかじかんでいた。ポケット入れて温めながら、受付に向かう。
病院と呼んでいるが、正しくは医療センターいう。大学の研究施設が併設され、市内で一番デカい医療施設だ。外界とは隔絶された雰囲気を持っている。
漂う消毒薬の香りやヒソヒソと声を潜めてされる会話は無条件に気を滅入らせた。本来なら退院してしまえば通う必要もないのだけど、なぜだかカフカのことが気になった。
入院している以上、健康ではないのだろうが、少女に悲壮感は一切ない。そういえば彼女の病はなんなのだろう、と下衆な好奇心を僕は必死で殺していた。
ナースステーションで受付を行おうとノートに自分の名前を記載していたら、
「うぇーい」
ニタニタと下品な笑みを浮かべる夜舞さんと目があった。
「うぇーい」
「……なんですか?」
「なんですか、じゃあ無いよ。ふっふー、やるじゃんやるじゃん」
「なにが?」
宿題?
「いや、驚いたよ。まさかあの子を落としにかかるなんてねぇ」
「なんの話?」
「カフカの話に決まってるでしょ。仲良くなったみたいじゃない」
「仲良く……は、なったのかな」
ものを貸してくれる程度の距離感だが、残念ながら好感度はあまり高くなさそうだ。
「でもね、あんただから言うけど、あんまり女の子をからかっちゃダメよ。性欲を満たしたいなら別の娘にしな」
「そういうのじゃないから……」
この病院の個人情報保護はどうなっているのだろうか。
からかわれて気恥ずかしくなった。はたから見たらそう思われるのも無理はない。受け付けノートに素早く記帳し、手指消毒をしてから、逃げ出すようにエレベーターホールに向かった。