3 名前プレゼンス
木枯らしが窓ガラスを叩きつけた。カーテンの隙間から冬の星座が輝いている。
同室の大学生のイビキが酷いので、ろくな睡眠を取ることが出来ないが、今日はそれでも良かった。
物語の続きを想像するだけで、気持ちは浮き足だった。
主人公がかっこいい。普段は冷静沈着の口数の少ない男だが、身内が傷つけられたときの熱量は半端無く、それでいて弱者を救うためならプライドを捨てるところが最高にクールだ。
ヒロインがいいキャラしている。一途だが、素直じゃなくて、いじらしくて、キュートだ。
世界観も素晴らしい。荒廃した大地で、砂漠化が進む世界が舞台だが、そこに暮らす人々に悲壮感はなく、展開されるストーリーにとても良くマッチしている。
ばたん。と小さな音がして、集中が途切れた。どうやら見回りの看護師が来たらしい。
僕は目を閉じて寝たふりをした。別に起きていたからといって咎められるわけではないが、夜舞さんだとしたら「さっさと寝ろ」とどやされるからだ。
仰向けでじっとしていたら、仕切りのカーテンが開かれる音がした。薄く目を開けて見てみる。
人影は暗がりをペンライトで切り取るようにして、なにかを探しているようだった。こんな時間にこそこそと誰だろうと、考えていたら、そいつは棚の上に置いてあった文庫本を見つけると、いたって自然な動作で脇に挟んだ。
「おい」
たまらず声をかけ、ベッドランプをつける。
「あ」
小さな声が上がった。柔らかい光に照らされたのは、僕に本を投げつけた少女だった。
「……」
暫し無言で見つめ合う。
互いに声をあげることはないので、同室の大学生の寝息だけが室内に響いていた。
暖房の稼働音とともに結露が重力に従ってサッシに垂れていた、少女の影が壁に延びる。
時計の長針が十回くらいカチカチと音をたて前に進み、大学生が睡眠時無呼吸症候群で数秒静かになると同時に少女は無言で部屋から出ていった。
悪いことをした。
良くも知らない子の好きなものを良くも知らないくせにバカにして、挙げ句の果てには、大切なものをパクってしまうところだったのだ。
罪悪感をシーツに染み込ませるように惰眠を貪り、夢の中でも反省をする。
次の日。
退院の手続きをしてから、書類に記帳する。事前に受け取っていた退院伝票を母親に渡し受付を完了させる。親に用があることをつげて、僕は談話室に向かった。
看護師や患者の皆様に退院の挨拶しに行くわけではなく、謝罪を伝えたかったのだ。
彼女は昨日と同じ位置に、昨日と同じような憮然とした表情で座って、本を読んでいた。
僕は再び彼女の正面に座って、視線を送った。
改めて見ると、端正な顔立ちをしていた。きめ細かい肌に絹糸のようなサラサラとした黒髪。まるで等身大の人形のようだった。
「……」
動かないので尚更そう思ったが、時折思い出したかのようにページを捲るので、彼女がきちんと生きた人間であることに、少しだけほっとした。
それにしても凄い集中力だ。視線にまったく気付いていない。
軽く咳払いしてアピールしたが、視線をあげることはなかった。
しょうがないかと、呟いて、少女の横に立った。
「やあ」
「……」
びくりと肩を震わせ、少女はギョロりと僕を見たが、すぐにまた視線を活字に落とす。無視することに決めたらしい。それならそれで構わない。
「今日で退院なんだ。だから昨日のことを謝りに来た」
談話室は相変わらず賑わっている。だから、少しくらい恥ずかしい台詞も言えた。
「きみが僕に投げた本、『死んだと思ったら異世界転生してて、気づいたら世界を救っちゃった件について』だけど、きちんと読んでみたんだ。読まず嫌いでバカにして、すまなかった」
「……」
首を少しだか動かしてボタンのような丸い瞳が僕を写す。
「すごく面白かった。それじゃあ」
軽く手を上げて、その場を辞そうとしたが、
「待って」
少女に呼び止められた。
振り向いて「なに?」と尋ねる。
「ちゃんと読んだのね?」
「ああ。一ページから最後のページ、目次から発行日の奥付までね」
「どこが面白かった?」
少しだけ嬉しそうに訊いてきたので、僕は素直な気持ちで感想を伝えた。
壮大な世界観、重厚なストーリー、魅力的なキャラクター、洗練された文体、それらすべてが調和が素晴らしく、一言では言い表せられない、と結ぶと、彼女は小さく「そう」と頷いて、薄く微笑んだ。
「続き、いる?」
談話室の喧騒の塗りつぶされそうなほど小さな声で彼女は呟くみたいに言った。
「え? あるの」
「一応ね。でも期待しない方がいいわ。続き物って大抵最初よりはつまらなくなるし」
「それでもいいよ。是非貸してくれ」
「ついてきて」
嬉しそうにニタリと笑うと少女は本を閉じて立ち上がった。ちらりと見えた表紙は少女地獄、夢野久作だった。
廊下を連れだって歩く。
今更だが病院の廊下は意外と人通りが多い。医者や看護師が忙しなく廊下を行きかい、暇をもて余した老人が寄り合い会みたいなコミュニティを待合室に作り出している。
「望月さんは蟹チャーハン先生の作品がすきなの?」
「まって。なんであなた私の名前知ってるのよ」
「昨日受け付けに呼ばれてたからね。名字だけならそこで知ったよ。下の名前は知らないけどね」
後ろを振り返ることなく早歩きで廊下を行くので、追いていかれそうになった。
「必要?」
「まあ、無いよりはあった方がいいだろ」
「変わった人ね」
彼女は呆れたように肩をすくめた。
「私の名前なら、どうぞ勝手に想像してくださってけっこうよ」
「ノーヒントじゃ無理だよ」
「そうね。こうしましょう。病室に着くまでの間で、いくつか質問をして、私の名前をあてられたらあなたの勝ち。当てられなかったらあなたの負け。質問は直接的なものはだめよ」
「罰ゲームは?」
「そうね。願い事を叶えるってのは?」
「いいね。絶対だよ」
しかし真剣に考えなくては答えは出ない。彼女の病室がどこかはしらないが、時間もあまりない。本腰をいれなくては。
「何文字?」
「三文字」
「最初の文字は?」
「か 」
「次の文字は?」
「それ以上は直接的な答えになるから返答しかねるわ」
「漢字はある? あるとしたら何文字?」
「ない。カタカナ三文字」
「カタカナ……。カレンとか?」
「残念ながらハズレね。考え方としては近いわ」
「そうだな。モチーフになったものとかある? あるとしたらなに?」
「ある。作家」
「作家……。んー。むずかしいな」
「タイムアップね」
「は?」
彼女はにたりと笑うと一室の前に立ち止まり、ネームプレートを手で隠した。文字は一瞬で読めなかった。
「ここ、きみの病室? ずるくね?」
「ズルくないわよ。そこまで言うならラストチャンスをあげるわ。私の名前、わかったかしら?」
「……ルンペンシュツルツキン?」
「大ハズレ。願い事なにしようかしら」
すっ、と小さな手を離して、扉を開けて中に入っていった。ほとんど反則だ。あんな短時間であてられるわけがない。
望月カフカ。
ネームプレートには、そう綴られていた。親のセンスに脱帽だ。