12 失意リバウンド
テストの点は悪くなかったが、どうにも気持ちは沈んでばかりだ。
喪失感というのか。
香川さんの声をもう二度と聞くことが出来ないと思うと、それほど親しかったわけでもないのに、涙が溢れそうになった。
僕と彼は短い付き合いで、親友と呼ぶには浅すぎる関係だ。
それでも接点の合った人物が、もうこの世にいないと思うと、悲しくて堪らなかった。
必ず未来が訪れると信じている僕には、彼の気持ちがわからなかった。後悔は数えきれない。もっとたくさん話せばよかった。
休み時間中、ずっとぼんやりと天井を眺めていたら、クラスメートに「携帯光ってるよ」と教えられた。
メールが届いていた。
差出人はナツメで今日何時に授業が終わるのかを訪ねる内容だった。返信し、机に突っ伏して寝る。
一瞬にして眠りに落ちたが、夢は見なかった。
フィクションやテレビニュースで、いつか人は死ぬと学んでいても、身近な人を亡くしたことの無い僕にとって、それは言葉にし難い感情だった。
ずっと、ぐわんぐわんと心が揺れ動いている。
一日中そんな感じだ。ノートはきちんと取っているはずなのに、授業が記憶に残ることはなかった。
放課後、鞄を持ってその場から逃げるように教室をあとにした。
誰とも話したくなかった。誰とも会いたくなかった。
ただ、ベッドに行って、横になりたかった。横になって一眠りすれば、脳にかかる霧のようなモヤモヤも晴れるような気がした。
校門前に空色の軽自動車が停まっていた。
気にせず通りすぎようとした僕を待ち構えていたように、運転席のウィンドウが開いた。
「こっちっすよー!」
底抜けに明るい笑顔のナツメが身を乗り出して手を振った。
「なにしてるの?」
無視をするわけにも行かないので、車に近づいて訊ねる。
「ちょうどこの辺りをドライブしてたんでぇ、送ってあげようと思って迎えにきたんす」
「迎え……?」
「明日は水曜日。天候は晴れ! 約束のデートの日っすよ。それなのに、時間指定の連絡とかまったくないそうじゃないっすか。センセーに聞きましたよ! 女の子をヤキモキさせるのはよくねーことです!」
「あ。……ごめん。後でしよう後でしようと思って……忘れてた」
「やれやれエスコートはカッコいい男の基本っすよ。しょうがないっすねぇ。アタシも協力するっす。明日のデートはセンセーが生きてきたなかで一番良かった、と思えるものにしてあげるんっす!」
「……」
「さ、とりあえず中で相談しましょ。家まで送りますよ」
「いえ、別に。悪いよそんなの」
「いいから乗って乗って! 先週免許取ったんで運転したいんすよ!」
だから乗りたくないんだよ。
自宅の住所を告げて、ナビが案内を開始すると同時に、彼女はアクセルを踏み込んだ。
ブォン、とエンジンを吹かす音のみが響き、車体は一ミリも動かなかった。車の近くにいた学生がギョッとした瞳でこっちを睨み付けた。
「おっとと、ギアがドライブに入ってなかったみたいっす!」
少しだけ恥ずかしそうに彼女はギアチェンジした。
猛烈に降りたかった。
走り出したら、思ったよりは安定した運転だった。丁寧すぎて、後ろに行列が出来るほどだ。
「センセーったら、どうせ忘れてるって言って催促しようともしなかったんすよ。とかいってホンとは自分から連絡するのが恥ずかしいだけなんす。ふへへ、かわいいっすよねぇ」
笑いながらハンドルを握るナツメ。運転に集中して欲しかった。
「……」
「どぉーしました?」
愛想笑いも出来ずにいた僕を心配してか、ナツメは心配そうにちらりと僕を見た。
「そ、そうですね」
「……大丈夫っすか?」
「え、なにが」
「顔が青いっすよ。体調が悪いんすか?」
「あ、別に、そういうわけじゃなくて。ちょっと考え事してて、それで」
「考え事すか、……どんな」
「えと……返却されたテストがあんまり良くなかったんだ。それだけ」
僕は嘘をついた。正直に言ってもナツメの気持ちを無駄に落ち込ませるだけだと思ったからだ。
車窓には青々と繁った並木道が続いている。
「だから、一晩寝れば、大丈夫だよ。明日のカフカとのお出掛けのことも忘れてたわけじゃないし……」
「あ、違う。忘れる、じゃなくて、きっと気分じゃないだろうから、そっとしておいたほうが良いってセンセーは言ってたんだった」
ちらりと横目で僕を見てナツメはハンドルを右にきった。かなりの大回りになったが、無事に曲がりきる。
「意味わかりますか?」
彼女は僕を試すかのような瞳でジッと見つめた。
「……たぶん、カフカはお向かいさんの症状を把握してたんだ」
「え?」
「……ごめん、なんでもない」
吹き付けるクーラーの直風が体と一緒に心まで冷やしていくようだった。
「ちょっと聞こえなかったんすけど、一体どういう」
後ろの車にクラクションを鳴らされ、僕の呟きは空気を割くような音に飲まれてしまった。
「カフカの言うとおりだよ……」
散々誘っておいて、理不尽なのはわかっているが、気分になれなかった。
当たり前だ。
暗い気持ちが表情に出てたらしい。ナツメはしばし無言になると絞り出すように、「冗談ですよね?」と僕に訊ねた。
「いや……」
かぶりをふりながらうつ向く。感情を無くしてしまったみたいに、心は静かだ。
びぽん、と音が鳴ってカーナビが元気よくルートを案内する。
「ごめん、明日は中止にしてくれないかな」
短い付き合いとはいえ、親しくしていた人が亡くなったばかりなのだ。何をしていても彼の声がリフレインして物事を楽しめそうにない。
こんな気分でカフカと会いたくなかった。
不謹慎とか、きっと彼はそんなこと言わないだろうけど、個人的に浮かれ調子で女の子と遊ぶ気分にはなれなかった。
「そんな……」
ナツメは唇を震わせた。
「だって、センセーはあんなに楽しみにしてたんすよ! それをドタキャンするなんて、……理由はなんなんすか!」
ナツメは珍しく語気を荒らげた。
二車線になって、彼女の車を苛立げに沢山の車がビュンビュンと抜いていく。
「……カフカにまた今度って伝えておいて」
説明するのも億劫になって、僕はただひたすら謝り続けた。
「そ、そんなの無責任っす! あんなにセンセーは楽しみにしてたのに、それにまた今度って、……いつっすか! センセは土曜日に手術を受けるんですよ!」
「術後が安定してから、ゆっくり見ようって……」
「ふざけないでっ!」
「え」
「今度の手術はいままで一番大切なものになるんです!」
「そうなの……?」
「だから、だから、センセは思い残したことがないように、必死に小説を書いてるんですよ!」
涙声だった。狭い車内にナツメのすすり泣きが響く。
「中途半端な覚悟なら、初めから気にかけないてください」
「……そんな、そんなつもりは」
「っう」
気丈な彼女が泣いている姿なんて想像出来なかった。横を通過したトラックの振動で車内は大きく揺れた。
ナツメはついに堪えきれなくなったのか、ハザードランプをたいて、路肩に幅寄せした。
ブレーキを踏んで、ギアをパーキングに合わせる。完全に停車した車内に気まずい空気が滞留する。
「すみません……、ちょっと、取り乱しました」
ハンドルに覆い被さるように彼女は顔を伏せた。
鼻をすする音がする。
声をかけることが出来なかった。
年上の女性が泣いているところを見るのははじめてだった。
クーラーの稼働音と状況に不釣り合いな明るいポップスがラジオから流れ続けた。
「いやぁ。このバンド、けっこう好きなんですよねぇ。どう思います、いま流れてるのが一番オススメなんすけど」
ハンドルに伏せって、三分。鼻をすするおとが完全におさまったころ、再び顔を上げた彼女はすっかりいつもの調子だった。
先程の弱々しさは白昼夢のように消え失せ、いま目の前にいるのは、天真爛漫な女子大生だった。
車内を流れる疾走感溢れるオルタナティブロックが憂鬱を吹き飛ばしてく。
気を使わせて、バカみたいだ。
「いいね」と、曲の感想を一言、まるでさっきまでの感傷は無かったみたいに、告げる。
我ながら卑怯だと思う。
女性に気を使わせて、選んだ答えが見て見ぬふりだなんて。
僕はなんに関しても軽率すぎたのだ。
気まずさを微塵も感じさせない巧みな会話術を持って、ナツメの運転する車は僕の家の前に停車した。
「お客さん、つきましたよん」
「送ってくれてありがとう」
「どういたしまして」
シートベルトを外す一瞬、ナツメは寂しそうに「明日は、……中止ですか」と訊ねた。
僕はそれに「ごめん」とだけ、応え、ドアを開けて車外に出る。
「そっすか……」
クーラーで冷やされた体が一気に夏の直射日光に炙られていく。セミの鳴き声が鼓膜を支配した。
なんとなく、嫌な予感がした。
たぶんココでそのまま別れたら一生涯カフカやナツメと連絡を取らないような気がする。
なにを話したら良いのか、まったく思い浮かばないから。
それでも車の外に出た僕は機械のようにドアを閉めようとする。
「あっ、ちょっと、忘れてるっすよ!」
ナツメが僕の背中に声をかけた。振り返ると、手を伸ばし、紙袋を差し出していた。香川さんの妹さんから受け取った例のブツだ。
慌てて手を伸ばす。
「あ」
受け取り損ねて、シートにバタンと落下する。
紙袋のテープの粘着が弱くなっていたらしい。袋の中身が音をたてて、先程まで僕が座っていた助手席に滑り落ちた。
「……」
気まずい沈黙が流れる。
欲求不満な年上の女子大生にイジめられたい! と表紙にしょうもないことが書かれていた。つまりはエロ本である。
「ふ」
きょとんとしていたナツメは恥ずかしそうに「ま、まあ、男の子ですからね!」と理解ある体を装ってきた。腹立つリアクションだが僕はなんでか吹き出してしまった。
それはまるで、香川さんが僕を引き留めているかのように感じたからだ。
「はは」
誤魔化し笑いのようにも取れるだろう。僕の笑みに「あはは」と乾いた笑いを返してくれたナツメに僕は「明日は十時に喫茶店集合で」とカフカへの伝言を託した。
僕にメモを託してくれた香川さんなら、きっと女の子のデートをすっぽかすはずかない、と思ったのだ。
自室の机の上でメモを蛍光灯に透かしながら考える。
我ながら都合の良い解釈だと思うが、信じる道を進めば良いといつか言われたことを思い出した。




