10 微睡シンフォニー
夏の午後の病室は眩しいくらいに白く、鼻をすすると消毒液の匂いが香った。
外が炎天下だということを忘れてしまいそうなくらい院内は静かで涼しかった。
「やあ少年どうだったかな」
香川さんの病室に戻る。体調が悪そうだったので、一日に何度も訪問するは憚られたが、結果を教えろと頼まれていたから仕方無い。
ベッドに寝そべったままニタニタ笑う香川さんにカフカの返事を伝えると、
「ちっ、なに上手く行ってんだよ。つまんねぇな」
と舌打ちされた。
「まあ、とりあえず行ってきます」
香川さんの言葉に苦笑いし、僕はお見舞い用の椅子に腰を下ろす。
「ただ僕そんなに頭が良くないんで科学館を楽しめるのかどうか不安なんですよね」
「好きな人が隣に居ればどんな所だろうが浮き足立つのが男ってなもんよ」
「好きな人……」
たしかにカフカが笑えば僕も楽しいし、カフカが涙を流せば僕も悲しい。
だけど、僕が抱いているとはこの感情が、恋と呼べるほど高尚なものとはとても思えなかった。
「なんだ苦虫を噛み潰したような顔して……」
無言になった僕を心配してか香川さんが訊いてきた。
「なにが不安なんだ?」
「不安というか……」
カフカの顔が脳裏によぎる。
「自分のことなのに自分の感情がよくわからないんです。それが、なぜだか、もどかしくて……すみません、うまく言葉にできなくて」
僕は自分に酔っているだけなんじゃないだろうか。
少女の感情を無理やり塗りつぶして自分のエゴを押し通すのが正しい道とは思えなかった。
香川さんはしばらく無言になってから、子どもに絵本でも読み聞かせるような優しい語調で口を開いた。
「ドレイク方程式って知っているか?」
「なんですか、それ」
「我々にコンタクトが取れるくらいの知的生命体がどれほどいるかを推定する方程式だ」
「……はい?」
「ざっくり説明すると地球外生命体に出会える確率の求め方さ」
よっこいしょ、と起き上がると、彼はベットサイドチェストから一冊のファイルを取り出し、ページを開いて見せた。ルーズリーフに綴られた見知らぬ方程式を指差して続けた。
「これを広義的に解釈し、理想的な相手と出会える確率を弾き出した論文を読んだことがある。執筆者は確かイギリスだったか、……ともかく対象と出会える確率は0.0000034%ほどしかなかったそうだ」
数字を出されても抽象的すぎて、ピンと来なかった。
ポカンとした僕の表情を見て、察したらしい香川さんは続けた。
「地球の人口が76億人としたら君と俺が会えたのは76億分の1の奇跡だし、彼女と君が会えたのも76億分の1の奇跡ということだよ」
「なんかJ-POPの歌詞みたいですね」
茶化した僕の物言いを少しも気にした素振り無く、彼は続けた。
「地球に生命が生まれる確率を例えると、25メートルプールに腕時計の部品を投げ、水の流れだけで時計が組み立てられるのと同じくらいの確率になるそうだ。そんな奇跡の星で人と人とが出会える確率なんてそれこそ宇宙規模の奇跡なんだよ」
「奇跡……」
荒唐無稽すぎて想像が追い付かない。
たしかに確率でいえば僕が生きていることさえも、奇跡だろう。
でも、そんな言葉で片付けられることなのか。
うつ向いて考え込む僕を見て、香川さんは失笑した。
「はっ、まぁー、そんなことはどーでもいい」
「はい?」
「なにが奇跡だ。そんなこといったらなんでも奇跡になるじゃないか。心臓が動くのも、息をするのも、生きているのも、死んでいくことさえも、すべてが奇跡だ」
あっけらかんと香川さんは笑った。
「プールに時計をぉー、なんて地球外生命体がいないこと盲信するやつらが根拠もなくほざいてるだけだし、出会ったことが奇跡とかほざいてる連中は思考停止してるアホどもだ」
「言ってることが180度変わってません?」
「起こったことをとやかく言ったって過去は変えられない。昨日を見たってしょうがない。明日なんてすぐ今日になるんだ。だったら今日を全力で前へ進め」
「前へ……」
「いいか、少年。俺たちは偶然的に出会ったんだ。誰が望んだでも望まなかったわけでもない。そこに正解や不正解なんてものはないんだ。人は一人で生まれて一人で死ぬ。その孤独を誤魔化すために奇跡なんて安っぽい言葉を使ってるんだ。だけど、それはけして悲しいことじゃ……」
香川さんは咳き込んだ。ごほごほと口に手をあて唾が飛ばないようにしている。
「だ、大丈夫ですか」
慌てる僕を手のひらで制止させ彼は続けた。
「けっして悲しいことじゃ無いんだ。孤独という病は他者しか癒やすことができないから」
大きく咳払いをし、香川さんは僕をじっと見た。
「深く考えなくていい。君が彼女を求めるのは一緒に歩んでいくためのもので、関係が愛には及ばないとしてと、お互いが認め合えれば、これほど尊いことはない」
彼の言葉と瞳はとても力強かった。気力に満ちていた。
「わかったら、返事をして前を向け」
「……はい」
僕は素直に頷いていた。
反論の余地がないほど、香川さんの言葉は僕の胸にストンと落ちてきた。
留まる理由もないので、僕は病院を出た。
日差しは眩しく、それに負けじとセミが鳴いていた。アスファルトが陽炎に揺蕩っている、
夏、なんだなぁ。とアホみたいな感想を持ちながら、寺山修司なる人物を携帯で調べてみた。
どうやら詩人らしい。
書を捨てよ、町へ出よう、はもともとは評論集だが、劇や映画にもなるくらい有名な言葉らしい。
寺山は大学時代に病気になり、療養生活後、快方に向かった段階で、読書三昧の果てに生きる実感を求め、この言葉を用いたのだ。
スマホの小さな文字を読んでいたら、ナツメからメッセージが届いた。
『センセーは来週の水曜日なら外出行けるみたいっすよ。怖いくらいに上機嫌でメチャカワっす』
なにが彼女の琴線に触れたのかいまいち謎だった。
次の日の日曜、テスト勉強の合間をぬって、僕はどこにも出掛けず、必死にデートプランを練った。
香川さんに言われたのだ。
女の子を落とすには事前準備が重要だと。
待ち合わせは喫茶店プラージュにして、電車で科学館に行こう。そのあとバスに乗って、ひまわり畑を見に行くのだ。
きっと喜んでくれる。
カフカの見舞いのあとに、再び寄った病室で香川さんはメモをくれた。かつて彼が行ったデートの様子が事細かに記されていた。
几帳面な性格らしい。どこになにがあるのか、どこのスポットが神秘的か。彼の想定通りに行けば、きっと楽しめる。
デートが終わったらまたお礼を言おう。




