2 再会バイタリティー
少し前まで春だと思っていたのに、外の景色はすっかり夏だった。
梅雨明けを迎えた空には鱗雲がのんびりと浮かび、風にやんわり流されている。
そのまま歩いて五分ほどの距離にある病院へ行き、正面入り口のロビーでカフカと別れる。
「それじゃ」と小さく手を振り、少女は二階の受け付けへと続く階段に足をかけた。
それを見送り僕は大きく伸びをする。
子供がくずる声がした。オバサン連中の笑い声も。清潔な匂いをかいで、僕はまた病院にいることを肌で感じた。
特に約束はしてないけど、帰りを共にしようと考えた僕はすべすべとしたロビーの長椅子に腰を下ろし、ぼんやりと天井からぶら下がるテレビを眺めることにした。
夕方の教育番組が二本ほど終わってもカフカは戻ってこなかった。
画面では擬人化されたアルファベットが踊っている。
混んでいるのだろうか。ぼんやりするのも飽きてきた。
「よっ、こんなとこでなにしてんの?」
後頭部にチョップを食らう。地味に痛かった。文句を言おうと顔をあげると従姉妹の夜舞さんが立っていた。
「用もないのに病院のロビーに来るなんてあんまりいい趣味とは言えないね」
夜舞さんはナース服を着ていた。この病院で看護師をしているのだ。
「えっと、カフカを待ってます」
「ん?」
軽く首を捻られる。
「あー」
しばらく無言だったが、やがて得心がいったように、彼女は頷いた。
「ほらほら、もう帰んな。見舞いの時間は終了だよ」
「いや、見舞いじゃなくて、カフカが検査結果を受け取ったら一緒に帰ろうと思って」
「……あの子が待っててくれって言ったの?」
「いや……」特に、と首を横に振ると、夜舞さんはニタァと趣味の悪い笑みを浮かべた。
「約束してない男がロビーで待ってたら、そりゃストーカーよ。嫌われるぞぉ」
「そ、そうですね」
言われてみれば確かにそうだ。
夜舞さんに会釈して病院をあとにする。
夕方の病院は忙しそうだった。
受付からの呼び声に、長椅子に座る人たちの雑談。銀行や郵便局と同じような光景なのに、病院だと意味合いがすこし変わってくる。
独特の空気感にのまれる前に、僕はその場を去ることにした。
活気に溢れていることが善とは限らないのだ。
「ああ、キミ」
待合室を抜けようと歩いていたら、声をかけられた。
振り向くと水玉模様のパジャマ姿の若い男性が立っていた。患者用のスリッパを履いている。
「またどこか悪くしたのかい?」
知人のように気さくに話しかけられたが、顔に全く覚えがなかった。
「えーと……」
二の句を告げずに戸惑う僕に歯を見せて青年は笑いかけた。
「キミが入院してたとき同室だった香川誠也だ。忘れるなんて酷いな」
スッと右手を差し出された。
「す、すみません。いつぞやは」
思い出した。イビキがうるさくて、僕を散々困らせた大学生だ。あの時はほんと殺してやりたかったが、退院した今ではいい思い出だ。
手を握り、握手をする。欧米文化に触れたことないので、握手なんて久しぶりだ。気取った挨拶だと思ったが、精悍な顔立ちの彼がやるとサマになっていた。
「……」
手を戻そうとしたが、強く握られているため叶わなかった。
「……あの」
手を離してくれない。
「キミは高校生かい?」
藪から棒に訊ねられた。
「はい。えっと、香川さんは?」
ギュッと握られている。
「俺は大学の理学部で量子物理学を学んでいる」
「そ、そうなんですね、それはすごいです。あの……」
シェイクハンド文化に詳しくはないが、握力測定が如く力強く握るのは違うのではないか。
「それで、その後体調はどうだい? キミはたしか肺を悪くしてたんだっけ?」
僕の訴えを無視するように彼はそ知らぬ顔で言葉を続けた。
「ああ、はい。その後の経過は良好です。香川さんは?」
「俺は最悪だよ。関係ないとこで検査に引っ掛かってこのザマさ」
「……」
口が滑ったと後悔した。
僕が肺気胸で入院したのは年の瀬のことだ。あれからもう半年過ぎている。にもかかわらず、香川さんはまだココにいるのだ。いい状態じゃないのは火を見るよりも明らかだった。
「すみません、無神経でした」
「いや、構わないよ。すぐに退院できると思ってたんだけどね。人生とはどこで躓くかわからないもんさ。こう入院が長引くと見舞いに来るのは家族だけだし、悲しくなってくるよね」
僕と同じ病室にいたころ、彼の見舞い客の騒々しさには辟易としたので、その発言は信じられなかった。
「だから、頼れるのはキミしかいない。こんなこと家族にも頼めない」
瞳孔が開いてる。意味がわからなかった。
頼るもなにも、彼とまともに話をするのは今日がはじめてだ。同室になった時に軽く挨拶を交わしたがそれぐらいである。
「あの、一体なんの話ですか……?」
「キミも男ならわかるだろ?」
「えーと、さっぱりで……」
それより手を離してくれないだろうか。
「金なら出す。だから買ってきてくれ」
「……なにを」
「エッチな本」
「……はい?」
「エロ本」
なんつー、お願いをしてるんだ、この人。
ようやく離してくれたが、返事に窮する僕を見て、香川さんは矢継ぎ早に細かい注文をしてきた。我が耳を疑う時間すら与えてくれないし、そもそも承諾していない。
いわく、熟女とSMは駄目。18から30まで。二次元には寛容だが、それオンリーは不可。ナースコスプレものだと好ましい。
入院患者がなにを言ってるんだと思ったが、彼の目は真剣だった。
「三冊! キミのチョイスで頼む!」
懇願するように頭を下げて、彼は叫ぶように言った。病院のロビーでやめてほしい。
「いやですよ! スマホで見ればいいじゃないですか!」
「通信制限だ!」
唾が飛んできた。今月は始まって三日も経っていない。どれだけ盛んなんだ。
「お釣りはキミのものにしていいから、頼む頼む!」
彼は僕の手に五千円札を握られせた。樋口一葉が柔らかな笑みを浮かべている。
「し、仕方ないですね」
同じ男として見過ごせないと判断し、僕は彼の頼みを笑顔で引き受けた。
少なくとも二千円弱はポケットマネーに出来るのだ。月五千円のお小遣いにはかなりデカい。
病院から外に出ると、初夏の爽やかな風が僕の髪を撫でた。穏やかな夕暮れだが、敷地に入ってきた救急車のサイレンが不安感を助長させた。
沈みかけの夕日に赤色灯が流れていく。少しだけ目が眩んだ。
かつて彼女が入院していた病室を見上げると、灯りが点っていた。
視線をはずすと、遠くの送電鉄塔の夕影が骸骨みたいな影を落としていた。
気づけば、香川さんの頼み事は隅に行き、いつのまにかカフカのことを考えていた。
別れ際に見た小さな背中が脳裏に甦る。
退院、したんだよな、と口内で訊ねるけど、当然ながら返事は無く、心のモヤモヤが晴れることは無かった。




