13 海風スキップ
ちょうど坂を登りきった所だったので、振り返ると病院が見えた。暗闇にぼんやりと輪郭を滲ませる建物。
カフカは今何をしているのだろうか。考えると頭が痛くなってきたので、前を向いて家に帰ることにした。
家について、手洗いうがいをしてから、お風呂に入る。湯船に浸かりながら、カフカについて考える。
彼女はどのくらい入院しているのだろうか。
直接聞いた訳ではないので、はっきりとしないが、彼女まだ子供で、おそらく学生だろう。以前名前を尋ねた時に、名字を名乗りたがらなかったが、もしかしたら親との確執があるのかもしれない。
「余計なお世話だけど……」
湯船に顔を沈めて、じっと考えた。
年末特番の番組を見ながら夕飯を食べ、自室に戻って小説を読んでいると、携帯が見知らぬ着信に震えた。
ナンバーディスプレイを見ると、固定電話だった。
出るのには少し勇気がいる。切れてからネットでどこの電話か調べることにしようかと考えていたが、なかなか着信が途絶えることがなかったので、一抹の警戒心を諦めの気持ちで塗りつぶし、スマホを耳に当てた。
「もしもし?」
「あっ。やっと繋がった。電話は直ぐにでたほうがいいわ。かけてる方が退屈だもの」
耳元で弾ける少女の声。瑞々しさは電波に乗っても健在らしい。
「カフカ?」
「ええ。そうよ。ナツメから話は聞いた?」
「明日手が空いてるか、ってことくらいしか。なにをするのかもわからないんだけど」
「昼間言いかけたことよ。お願いがあるの。ナツメは実家に戻ってるから頼れるのはあなたくらいしかいないのよ」
友達が少ないのだろうか。出会って三日ほどの人物を頼るだなんてよっぽどだ。
「まさかとは思うけど、海へ連れていけってやつ?」
「察しがいいわね。その通りよ。どうしても海へ行きたいの」
「一人で行けばいいじゃんか。病院からなら電車で多分二時間くらいだよ。江ノ島とかならもう少しかかるけど」
「お金がないもの。移動費すらね。それに、検診に遅れたせいで夜舞がやけに私のことを見てくるのよ。監視というほどではないだろうけど、外出が許されるような空気じゃない」
「それなら尚更手伝えないよ。今の季節は冷えるし、身体に障るかもしれない。海開きもしてないしさ。どうせなら夏に行こうよ」
「夏、ね……」
小さく呟いてから、彼女は続けた。
「一度も見たこと無いの」
電話口の柔らかい吐息が耳にかかる。
「え、なにを」
「海」
「……」
「私が生まれた町はね、常に灰色の空が広がっていて、それすら狭めるように、幾重もの雑居ビルが延びる汚い場所だったのよ。異種言語が飛び交う雑多な町並みで、人工的な植物しかない歓楽街だったわ。治療のためにこっちに出てきたはいいけど、検査の結果が芳しくなくて、ずっと入退院を繰り返してるの。私には遠くに行く自由さえないのよ。生まれてからずっとね」
僕だってそんなに頻繁に海に行くわけではない。
「それでもさ、……ちゃんと健康になってからの方が」
「いつ健康になれるの?」
そんなの知るわけもない。むしろ、こっちが訊きたいくらいだ。
「作中に海を出したいのよ」
もしかして、彼女は『死んだと思ったら、異世界転生してて気付いたら世界を救っちゃった件について』の話をしているのだろうか。
それを出されたら一ファンとして応援したい気持ちにかられてしまうが、夜舞さんの忠告が頭をよぎった。
「想像で書けばいいじゃん。海風は本当に冷えるから、あまりオススメはしないよ。夜舞さんが言ってたろ、無理をするなって」
「本気で言ってるの?」
彼女の言葉に悲しみが滲んだ。
「本気で言ってるのだとしたら、私はあなたを許さないわ」
「なんでだよ。僕はただ君の身を心配してるだけじゃないか」
「想像でなんてするべきではない。読者をバカにしているわ。命をかける覚悟がないなら創作活動なんてするべきではないのよ」
「そんな、そんなことは……」
否定、しないと。
なにより優先すべきは健康で命こそが最も尊いのだと、この女の子に言うべきなのだ。
だけど、彼女の言葉はパワーに溢れていて、僕に覆せるような薄っぺらいものではなかった。
「想像は経験に勝らないわ。それは絶対なの。少しでも作品の質を高められるなら、私は何だってやる」
「そりゃそうかもしれないけど」
「難しく考えないで」
語尾に笑みを溶かし、彼女は続けた。
「もとより無理なんかしないわ。そうは言っても、私だって元気に過ごしたいもの。本が読めなくなるし、小説が書けなくなるのはごめん。約束する。無理はしない、だから、ねぇ、お願い」
カフカは黙った。
僕はどうしたらいいのだろう。
夜舞さんの手前、出来れば止めたいところだが、どんな言葉を吐いても結局彼女は海へ行きそうな気がする。
しからば、いっそのこと保護者と言う名目で見守るべきじゃないだろうか。
それに、蟹チャーハン先生の新作が読めるかもしれないのだ。
僕は少し頭を悩ませて、結論を出した。
「……いいよ」
カフカに対して甘い答えではないだろうかと思ったが、一度はいた言葉を取り消すのとは出来ない。
「君の取材旅行を手伝う。いつなら都合がいい?」
「ありがとう」
途端明るい声音になって、
「かかった費用はちゃんと返すから安心して。詳細はまた明日話すわ。午後一時に待合室のロビーに集合ね」
矢継ぎ早にそう言ってカフカは電話を切った。なんでも院内の公衆電話は長く使うとマークされるらしい
通話の切れた画面を見下ろす。
カフカは、……。
何かを考えようと思ったが、なにを考えたらいいのか浮かばず、僕はベッドに寝転がった。
なにもしなければ時間は光のごとく過ぎていく。
大晦日がやって来て、僕は密かに長期休暇の終わりが着々と近づいていることを悟った。
約束を反古するのも心苦しいので大人しく病院に向かう。いつもの騒がしさが嘘のように落ち着いていて、暇潰しで来てるんじゃないかという老人連中がいないので、待合室は閑散としていた。
見舞いの受付をしようとしたら見知らぬ看護師さんに声をかけられた。
「申し訳ございません、本日お見舞いの受付はやっておりません」
「え、なんで。時間内ですよね?」
「大晦日は受付できないんですよ」
「そう、なんですね」
これは困ったことになった。
カフカに連絡を取ることができない。
どうしようかと頭を悩ませていたら、
「こっちよ」
と僕を呼ぶ声がした。
待合室のソファーに腰を落ち着かせるカフカと目が合う。
「待合室集合と言ったでしょ?」




