天使の祈りは届かない
“抱え込まされている”。
想像は簡単に出来た。
“あんまりいたくはないけど、いなかったらそれはそれで大変になるから”。
「人って脆いよね」
無数の傷は、シャツを着ればすっぽり全て隠れる。
「誰かを傷つけたりする事で、それで平穏を感じる人もいるんだよね」
美里の顔が浮かんだ。私をこきおろす彼女の言葉が脳裏をよぎった。
「脆いんだ。母さんは。だから別れた。父さんは耐えれなくて。それで僕は母さんと二人になった。ぐらついた母さんは、時々僕を傷つけて安心する」
「ひどい……」
「どっちが? 母さんが? 父さんが?」
どっちだろう。母子を捨てた父。我が子を傷つける母。
「母さんは何も悪くない。父さんだって悪くない。仕方ないと思うから。ひどいけど、生活は出来てるから。ただ、母さんを一人にしたらまずいと思った。だから、一緒に来るべきだって言った父さんの手を、僕は拒んだ。母さんの傍にいるのが、僕の役目だと思ったから」
「でも……それでエンジェは、こんなに傷ついて、辛くないの?」
愚かな質問だ。でも口にせずにはいれなかった。
「人間だからね。痛いし嫌だなって思ったりするけど、誰も悪くないから」
どうしてそんなに達観出来るんだ。どうしてそんなふうに受け止められるんだ。
「あいつは何もしてくれないから」
「え?」
「神様」
いつか聞いたセリフ。あの時茶化してごまかしてそらしてしまった、逃げた言葉。
「あいつは誰も救わないし、誰も助けないし、何も見てない」
“上からずっとお前をちゃんと見てくれてるんだよ”。
私と父が無条件に信じてきた神様を、エンジェは否定した。
「ずっと祈った。母さんが普通になる事を。ずっと祈った。父さんが母さんを普通に戻してくれる事を。ずっと祈った。普通の平和が家の中に流れる事を」
苦しいとき、悲しいとき、自然に人は神に祈る。それが報われない時もある。
エンジェの祈りも報われなかった。
全ての祈りが通じるわけじゃない。それは分かってる。
――でも、神様。何で、エンジェを無視したの。
「祈りは人間が捧げるもので、天使は祈りを聞き届けるものなんだって。だから通じなかったのかもね。でもどっちでもいい。通じないなら、いないのと同じだから」
――エンジェが天使だって、聞いてあげてもいいじゃないか。
「エンジェ」
私は衣類を脱ぎ捨てた。上も下も、何もかも脱ぎ捨てた。そして、エンジェの体を抱きしめた。
「どうしていいか、全然分かんない」
エンジェにとっての神様は、本当にいないのかもしれない。
「エンジェは、醜くなんてないよ。顔も、体も、心も」
エンジェの息が胸にふわっとあたる。
神様の代わりに全てを請け負ったエンジェは、あまりにも綺麗すぎた。
――救いなさいよ、神様。
彼に神様がいないのなら、私の神様なら聞いてくれるかな。
「私が祈る」
ひどく頼りない言葉だ。現実で苦しんでいるエンジェを助ける言葉としては、あまりにも力のない言葉だ。
悔しくて、でもどうしていいか分からなくて、涙が溢れる。
祈るだけじゃ駄目。なんとかしなきゃいけない。分かってる。分かってるけど。
「無駄だよ」
諦めきった声が、胸元で響いた。
「天使が祈って駄目なら、人間の私が祈る」
ぎゅっと頭を抱きしめた。
「代行の祈りなんて、通じるのかな」
「代行じゃない。もう私の祈りだから」
「そっか……ありがと」
期待はしていない。そんな声だった。
神様は本当にいないのかもしれない。それでも祈ってみる。それでも駄目なら、私にはもう一人神様がいる。
――母さん。
神はいなくても、母さんは間違いなくいた。私がその証拠だ。母さんなら、聞いてくれてるかもしれない。
淡い祈り。
そんな祈りと共に、もう一度強く天使を抱きしめた。