祈る意味
「お母さん、アイスー」
「駄目よ、家に帰るまで我慢しなさい」
「だってあついよー」
夏の日差しは強烈で、日傘を差しても突き刺さる熱はみるみる体力を奪っていく。娘の愛美がアイスを欲しがる気持ちは十分に分かるし、出来る事なら私だって今すぐコンビニに寄ってアイスを口に突っ込みたい。
でも家に帰れば冷凍庫には買ったばかりのアイスが詰まっている。ねだればなんでもすぐに貰えるという感覚を持たせないためにも、アイスはもう少しの辛抱だ。
踏切がカーンカーンと音をまき散らし、閉まっていく。
「あっ」
私は踏切の向こうに見慣れた姿を見つける。手を振ると、向こうも私に手を振りかえした。
ごうっと電車が遮っていく。程なくしてバーが上がり、私は踏切を渡っていく。向こうでは、彼が私を待ってくれていた。
「何やってんの?」
「いい天気だから、ちょっと散歩」
「こんなに暑いのに、相変わらず肌は真っ白だね」
「まあ、天使だから」
「10年後に同じ事が言えてるかな」
「怪しい所だね」
祈った意味はあったのかもしれない。
エンジェの傷を知ったあの日、私は彼を救いたい気持ちでひたらす祈りながら、抱き締め続けた。ただ残念ながら、祈っただけですぐにそれが通じる事はなく、それからもしばらく彼の痛みは続いた。そして会う度彼を優しく抱いた。
でも少し時間がかかったが、無駄ではなかった。
エンジェの家庭に、新たな支えが現れたからだ。その男性は不安定なエンジェの母を献身的に支えた。そのおかげで徐々に安定を取り戻した母親は、今までの自分の行為を悔い改め、エンジェを傷つける事をやめた。
「あやのさんのお母さんに感謝だね」
やっぱり神様は信じてないみたいだったけど、私の母さんの事は信じてくれた。
別れは自然と訪れた。互いの卒業を機に、私は県外の大学、エンジェは地方の高校に進学する事になった。
深い関係になりながらも、付き合うという形にならなかったのは今思えば不思議なものに思えた。直接その事について話した事はないが、おそらく互いに恋愛感情で一緒にいたわけではなかったというのが一番の理由だったと思う。
「連絡先は、やっぱり交換しない?」
「うん」
「またどうせ、どこかで会えるから?」
「うん、きっと」
「不確定だなあ」
「会えなかったらそれまでだよ」
「うわ、なんか冷たっ」
「だから、きっと会えるって」
最後に会った日。やっぱり互いに連絡先は交換しなかった。きっと会える。それがいつになるかも分からず。
その日は思いのほか先になった。それから8年が経って私が結婚して、この街に越してきたのが2年前。
そこで、天使を見つけた。あの日と同じ引力が私を引き寄せた。
「会えたね」
「だから言ったでしょ」
見た目は凛々しくなって、背もずっと高くなって少し見上げる形になったけど、それ以外はほとんどエンジェだった。
エンジェも結婚して、今では女の子2人に恵まれ幸せに暮らしている。一度家族の写真を見せてもらったが、思わず目がくらむほどの眩しい幸せがそこにあった。
何せ奥さんは女神みたいに綺麗で、天使と女神から生まれた子供達は、それはそれはもう神秘的なまでに可愛らしく、その面々が等しく満面の笑みを浮かべていた。
「良かったね、エンジェ」
「あやのさんが祈ってくれたからかもね」
どうなんだろうと思う。
無力にただただ祈りを捧げたあの頃。それが通じたようにも見える。だから神様にも母親にも感謝した。
でもそれだけだろうか。
祈るという事は、前を向く事だと思う。丸投げにして神様に委ねるものじゃないと思う。祈りを捧げる時点で、今いる場所からもっと前に進む為に祈るんだ。
エンジェは一度祈りを諦めたと言った。でも前を向く事を諦めたわけじゃなかった。
祈りながら前に進み、祈りを捨ててからも、後ろへ引こうとはしなかった。母の傷を自分の体で受け止め続けたのが何よりの証拠だ。
私が祈った時、エンジェも実は祈っていたのかもしれない。それは神様に向けてではなかったかもしれないが、あの時エンジェはもう一度前に歩こうとしたのではないか。
人は度々祈る。そこに神様がいるかどうか、誰も知らないのに、不確定な存在に祈りを捧げる。でも不確定な存在だからこそ、それが意味を成してるのだと思う。
神様がいてもいなくても、どっちだっていい。どっちだっていい存在が、前を向くきっかけをくれる事もある。祈りという形を通して、幸せに近づくきっかけになったりする事もある。
「あ、そうだ」
エンジェが手にした袋から何かを取り出した。
「アイス、食べる?」
あっさり祈りが通じる事もあったりするけど、それはそれ。




