カレー大好き桜子さん――さいたま新都心 コクーンシティのインデアンカレー
その日桜子は、映画を見た。
さいたま新都心まで出てくるのは、久しぶりだ。桜子の実家は川口市にあるので、里帰りで近くまで来ることはあるのだが、さいたま市の方まではなかなか足を踏み入れる用事がない。
そんな桜子がわざわざさいたま新都心で映画を見ることにしたのは、数年来の友人との約束のためであった。
「映画、おもしろかったわねー」
映画館から出てきた友人が、大きく伸びをする。
「そうですねー。良い映画でした」
桜子も、耳元からひょろんと伸びた毛を巻き上げながら頷く。
友人たちは、桜子のオンラインゲーム仲間だ。最近ちょっぴり過疎化が進んではいるが、全盛期の仲間たちは、割とみんな元気に、頻繁にログインするし、こうして一緒に会って遊んだりもする。
この友人たちと遊ぶときの桜子というのは、『石蕗一朗の使用人・扇桜子』ではないため、メイド服に身を包んでいない、貴重な彼女の姿を拝むことができたりする。
2人は映画館を出た後、さいたま新都心駅に併設された複合娯楽施設、コクーンシティをぶらぶらと散策する。照りつける真夏の日差しを見上げながら、桜子はぽつりと呟いた。
「さいたま新都心ができてから、もう15年ですか。長いですねぇ」
「あ、そんなもんなんだ。あたし、物心着いたときにはもうあったから、よくわかんないのよね」
「ジェネレーションギャップですねぇ。浦和大宮与野の三市が合併してさいたま市になるってとき、結構大騒ぎしたもんなんですよ」
当時は、ノストラダムスの大予言だの、2000年問題だの、21世紀突入だの、ゲーメスト廃刊だの、様々な出来事が一斉に起こった激動の時代である。その中にさいたま市の誕生があって、浦和の隣の川口市に住んでいた桜子としては、かなり大騒ぎになっているなぁ、てなもんであった。
そういえば、2人の兄について、名古屋遠征に行ったのもこの頃である。当然ゲームセンターの遠征だ。桜子は、当時から生粋のゲーマーであり、当時から生粋のサガット使いであった。
「私は当時、東川口に住んでいましたから、浦和は本当にすぐ隣だったんです。懐かしいですねー。当時から、見沼田んぼは全然変わってないし」
さいたま市から川口市にかけて広がる、首都圏最大級の田園地帯が“見沼田んぼ”である。サイクリングロードやら大規模な用水路やら日本最古の閘門式運河やらが連なって、ちょっとした自然や歴史情緒に浸れる場所だ。
桜子が中学生くらいの頃は、よく見沼田んぼのあたりを自転車で巡った記憶がある。田園地帯からでも、このさいたま新都心のビル群はくっきりと見ることができた。あれはあれで、どこか不思議というか、蜃気楼じみたというか、何とも言えない異国情緒のある光景で……、
「あんま過去のことを思い出してると、心まで老けるって言うわよ?」
「うぐ、気をつけます」
この友人はいま女子大生。桜子とは10歳近い年齢差がある。
「それはさておき、ご飯ですねー。どうしましょうか」
「キルシュさん、どうせカレーがいいんでしょ? あたし、何軒かピックアップしてあるけど」
友人は手馴れた仕草でポケットからスマートフォンを取り出し、情報サイトにアクセスする。
が、桜子は苦笑いを浮かべ、友人の手をそっと止めた。
「いや、さすがにそこまで私の趣味に付き合わせるのは申し訳ないですよ。コクーンシティにはいろんな飲食店もありますから、じっくり吟味しましょう」
そう。桜子はカレーが大好きだが、決してカレーだけがすべてというわけではない。特にこうした、友人との会食というのは貴重なのだ。特に女子2人であるからして、もっとこう、おしゃれな食べ物が食べられるところだって良いわけで。
桜子は、自らの真後ろにある一軒のレストランを指さした。
「例えばここなんかどうでしょう。グリルのお店って書いてあります。ちょっと昭和っぽい、レトロな洋食店って装いが良いですよね。夏なので、ちょっと重たいかもしれませんけど、良い匂いもしてきますし……」
「別にいいんだけど……」
友人は、店の前に置かれているメニュー表にちらりと目をやって、首をかしげた。
「結局、カレーじゃない?」
「はい?」
そこには、『大阪発祥 インデアンカレー』と書かれていた。
ターメリックの導きであった。
「すいません……。我慢できませんでした……」
「いや、良いのよ。あたしもカレー食べたかったし」
桜子たちはその店に入ってしまっていた。
最初に桜子が言った通り、昭和らしいレトロなメニューが特徴的な“レストラン”というよりも“洋食屋”といった趣の店だ。だが、メニューを開くと真っ先に目に飛び込んでくるのは、カレーである。
牛すじ蒟蒻カレー、キーマカレー、それに、インデアンカレー。ハンバーグやチキングリルなどを添えられる、実に美味しそうなカレーの数々だ。桜子は、ひとつひとつにカレーをじっくり吟味することにした。
まずは牛すじ蒟蒻カレー。これは、いかにもオーソドックスといった感じのカレーライスだ。気になるのはその具材、すなわち牛すじと蒟蒻である。
この2つの組み合わせ、そしてカレーの色合いから想起されるのは、大阪発祥と言われる郷土料理“どて焼き”だ。そういえば、この店の看板にも『大阪発祥』の文字があったし、店名にも、大阪のある地名が用いられている。となると、ここは洋食屋でありながら、関西発祥のカレーを扱う店であると、想像することができる。要するにご当地カレーが食べられるのだ。
次にキーマカレーだ。キーマ、という名前を用いてはいるが、写真のイメージから漂うひき肉の主張はさほど強くない。こんがりと焼けたカレーの上に、半熟卵が載っている様を見ると、どちらかというとドリアのような趣がある。
「ふぅ、むむむ……」
桜子は唸った。そんな桜子に、友人が声をかける。
「ねー、キルシュさん」
「なんですか、アイリス」
「インデアンカレーってどんなの?」
ぴくり、と桜子の腕が止まった。
「じ、実はその……。不勉強で申し訳ないのですが……」
「あ、知らない?」
「はい、実は……」
桜子は、顔中にじっとりと嫌な汗を掻きながら、目を逸らした。
「インデアンカレー、というカレーの店があることは知っているのです。確か、金沢カレーの源流とも言うべき店で、北陸を中心に数店舗展開している洋食屋さんです。メインメニューであるインデアンカレーは、確かに金沢カレーらしく、キャベツを添えて提供されます。器も金属製、ルーの色もどこか黒っぽく、トッピングとしてはカツレツやエビフライ、ウインナーなど。このあたりも実に金沢カレーらしいと言えます。更には……」
「めちゃくちゃ詳しいわね……」
「それだけではないんです、アイリス!」
ドン、と桜子は拳でテーブルを叩く。
「実は、大阪にもインデアンカレーがあるのです! これは金沢のインデアンカレーとはまったく別のグループが運営し、やはり近畿を中心に数店舗展開しています。ねっとりとした濃厚なルーの味わいは、確かに金沢カレーに通じるものがあるのですが、盛り付け方もまったく違います。ただ、気になるのは、この系列の店では、福神漬けやラッキョウではなく、キャベツのピクルス―――ザワークラウトを漬物として提供しているところです。カレーにキャベツは金沢カレーの鉄則であり、この大阪のインデアンカレーは、実は金沢カレーの延長にあるものなのでは? という考えが頭をよぎるのです。店名にカレーを冠しながら、スパゲッティを提供しているという、奇妙な符丁の合致も、気になるところです」
桜子は更に両手で汗だらけの顔を覆った。絶望すら感じさせる仕草だが、その間、友人は涼しい顔でメニューを眺めている。
「ですが……。更に調べていくと、北海道にも“カレーショップインデアン”という店があることがわかったのです……。これはキャベツこそ載っていませんが、金属製の皿にご飯と濃厚なルーを盛った様子は、まさに金沢カレー……。しかし、しかしです。このカレーショップインデアンのロゴマークにある、ターバンを巻いたインド人の横顔は、明らかに大阪のインデアンカレーの丸パ――もとい、リスペクトに見えるのです……」
桜子は、そこに至った時点で、『インデアンカレー』の正体を突き止めるのをやめた。金沢なのか、大阪なのか、あるいは北海道なのか。一体どのインデアンカレーが元祖なのか。あるいは、いずれも全く別の経緯で誕生した、似たようなカレーであるに過ぎないのか。桜子はインデアンカレーの迷宮に囚われてしまったのである。
いつか、3つのインデアンカレーをハシゴするためのカレー行脚を行わねばならないと思っているが、まだその機会は訪れていない。
「じゃあちょうどいいじゃない。ここで食べてみたら?」
「私も最初はそう思いました。ですが見てください! この店のインデアンカレーを!」
桜子は、メニューを友人に向け、バンと開いて見せた。
「今まで例を上げた三つの店舗のカレーは、微細な違いこそあれ共通点がありました。それは、ルーが極めて濃厚なカレーライスであるということ! ですが、ここのカレーは、どう見たって……」
「チャーハンね」
「せめてドライカレーと言ってください!」
そう、この店の『インデアンカレー』は、桜子がいままでに語った3つのインデアンカレーとは、完全に趣を異にするものであったのだ。
カレーとライスを熱した鉄板の上でなじませた、焼き飯のような外観に、生卵がちょこんと載せられている。桜子は、これがカレーでないなどという、愚かしいことをのたまうつもりはまったくない。だが、果たしてこのインデアンカレーは、一体どのような経緯でインデアンカレーと名付けられたのか!? 大阪を中心に展開するカレーショップ・インデアンカレーとの関連性はなんなのか!?
「更に! ここの店名にも使われている大阪の地名“船場”ですが、大阪には“船場カリー”という、イカスミを使ったカレーチェーンがあります! 一体この店のカレーのルーツはなんなのか。このインデアンカレーの正体とは一体……!」
「あたし、キーマカレーにするー。キルシュさんは?」
「う、うぐっ……」
いささか、語りすぎてしまったようだ。友人は、自らが食べるカレーをあっさりと決めている。
キーマカレー。さすがにセンスのいいチョイスだ。写真を見るだけで、アツアツの鉄板の上にジュウジュウと音を立てる、キーマの芳香が漂ってきそうである。スプーンでルーとライスを一緒にいただき、ちょっと焦げたルーの部分を、行儀が悪いと知りながら、スプーンでカリカリ削ってみたい。そんな衝動にかられる。
正直なところ、桜子は、この得体の知れないインデアンカレーにトライするよりは、絶対に美味しいキーマカレーを注文するのもいいかな、と思っていた。だが、ここで友人がキーマを注文するのであれば、桜子は注文を被せるという愚行を犯せない。
やはり、インデアンカレーしかないのだ。
「……決めました」
桜子は静かに呟いて、こちらを不安げに伺う店員を呼んだ。
先に注文が届いたのは、友人のキーマカレーであった。やはり桜子の予想通り、皿の上を覆う焦げ茶色のカレールーは、どことなくドリアを彷彿とさせる。真ん中に落とされた卵も、余熱によって白く凝固していた。
このキーマカレーの見た目を際立たせる名脇役は、おそらくナスだ。炙ったナスとカレーの相性は語るべくもない。念入りに火を入れ、適度の水分を飛ばしたナスの切り身が、カレールーの上に規則正しく配置されている。
「キルシュさん、ちょっと食べる?」
「……い、いただきます」
桜子は、あっさりとその誘惑に負けた。本来であれば、インデアンカレーの到着を待つべきであったのに。スプーンを手に取り、そっと、カレールーとライス、そしてナスをひと切れいただく。ここで卵を割るほど、桜子も礼儀知らずではない。
すくい取ったカレーを、熱も冷まさず口へと運ぶ。
適度なスパイスとナスの旨みが、熱を持って口の中で弾けた。やはり、キーマカレーの割にひき肉の主張は強くない。辛味もそこまでだ。やはり、日本人に向けてマイルドになった、洋食屋のカレーといった味わいがある。
「ナイスターメリック!」
「何そのキャラ……」
友人は少しばかり困惑しながら、キーマカレーを自らの口に運んだ。
「……うん。美味しいわねー」
満足そうである。何よりだ。
「お待たせしましたー。インデアンカレー、プラスハンバーグでございまーす」
ちょうどそのタイミングで、店員が桜子にカレーを運んで来る。
そう、桜子はハンバーグのトッピングをチョイスした。トッピングといっても、カレーの上にドン! と載っているわけではない。カレーの脇に、おかずとして添えられている形だ。自らの前に置かれた皿を眺め、桜子は両手をこすり合わせた。
白い皿の上に、こんもりと盛られた茶色いライス。おそらく後載せされたであろうグリーンピースの緑と、生卵の黄身が映える。横に添えられたハンバーグは、表面のきめ細やかさからして、手ごねではなさそうである。
カレーだ。
インデアンカレーだ。
桜子を長年悩ませ続けていたインデアンカレーとはまた別物に見えるが、これもまた、れっきとしたインデアンカレーだ。
「インデアンカレー、こちらのウスターソースをかけて、かき混ぜてからお召し上りください」
「えっ!?」
にっこりと微笑む店員は、衝撃的な助言と共に去っていった。
カレーにソース。ない組み合わせではない。カレーに何をかけて食べるのか? という討論が起こる際、ソース派は常に一大勢力を築く。だがそれは、あくまで個人の好みの範疇に納めるべき話であって、店側がそれを推奨することは、桜子に戸惑いを生んだ。
「い、いや……。まずは私は、何もかけずに食べる。それが礼儀……!」
桜子はスプーンを持って、インデアンカレーの外側を崩しにかかった。
そこで桜子は、あることに気づいた。ライスがシットリとしているのだ。
ウェットなのである。ドライではない。すなわち、ドライカレーではない。
カレーチャーハンというにも少し違う。店で出てくるチャーハンといえば、大抵コメがパラパラになっているものだが、このカレーはそうではない。この、何者でもない不思議なカレーこそが、インデアンカレー……?
口に運んでみると、カレーのスパイスを染みこませた、やはりウェットなライスが、舌の上でゆっくりと溶けていく感覚があった。
「……!!」
桜子はハッとした。顔をあげ、テーブルの上に置かれたウスターソースを手に取り、インデアンカレーの上に、ぐるっと2週半かける。その後、スプーンを黄身の上に差し入れ、ぐちゃぐちゃとかき混ぜ始めた。見た目は決してよろしくない。だが、これでいいのだ、という確信じみた想いがあった。
桜子は、昭和62年生まれである。
翌々年には日本は平成を迎え、バブルが弾ける。そんな時代に生まれた人間だ。
高度経済成長期の日本がどのようなものであったかなど、当然のように知らない。
だが、桜子が今手にしているのは、おそらくその時代の食べ物だ。メニューの上に踊る、昭和のムードを漂わせるレトロな雰囲気。外食産業が、日本の中で生まれた、漠然とした“洋食”のイメージを保ち続けた、その時代の食べ物なのだ。
確か、大阪は梅田発祥のソーライスという食べ物がある。
当時はライスカレーにウスターソースをかけるのが主流だったが、不況のあおりを受けてライスカレーが食べられなくなった客が、ライスにソースだけをかけて食べ、当時の阪急電鉄の社長がこれを歓迎したというのが始まりだ。
桜子の脳は、もはや完全に、体験したことすらないはずの昭和初期にタイムスリップしていた。ぐちゃぐちゃにかき混ぜたインデアンカレーを、口の中にゆっくりと運ぶ。
まず先に、ウスターソースの酸味が、そしてそれが卵のまろやかさと溶け合い、やがて、ライスを包み込むカレースパイスが弾ける。
ジャンクなはずなのに、どこか贅沢な味わいだった。
この不可思議な時間旅行は、インデアンカレーの迷宮に迷い込んだ桜子の魂を、外側へと連れ出してくれる。何がインデアンで、何がインデアンでないのか。この時ばかりは、もはやどうでもいい。ウスターソースの作り出す華麗なる昭和の世界こそが、桜子にとってのすべてだった。
幸せそうにインデアンカレーを頬張る桜子を見て、とっくにキーマを完食した友人は、やや退屈そうにスマホをいじっていた。
後日のことである。
「つまりですね、アイリス! やはり、あの店で食べたインデアンカレーとは、大阪のインデアンカレーがベースになっているのです! 後で詳しく調べてみたのですが、どうやら大阪のインデアンカレーは、真ん中に生卵を落とすようなのです。それに、インデアンカレーの1号店は、どうやら大阪阪急の梅田駅近くにあるらしくてですね……! そう、ソーライス発祥の地に近いのです! それを加味すると、あのインデアンカレーは、大阪のインデアンカレーに限りなく近く、しかしカレーチャーハン風に鉄板の上でなじませるという、かなり大胆なアレンジを加えた料理なのではないかと……!」
いつものオンラインゲームにログインした桜子は、かなり興奮した様子で、友人にまくし立てていた。
「しかしですね。そうなると、やはりわからないのは、金沢、大阪、北海道の3つのインデアンカレーの関連性です。北海道のカレーショップインデアンが一番後発なのは、おそらく間違いないとは思うのですが、この店のカレーが金沢カレーに近く、しかし大阪のインデアンカレーをリスペクトしている要素も多々見られる……。というのが難しいところですね。しかし、金沢カレーと大阪のインデアンカレーにあまり共通点はなく……」
「あ、ああ……。うん。なんか、ごめんね、キルシュさん。あたしがあの時、もっと強く止めていれば……」
「何を謝ることがありますか! 私、いま結構興奮していますよ! やはり、近いうちにカレー行脚は行わねばなりません。大阪、金沢……。しかし北海道は難点ですね。それも帯広ですから。しかし私、必ず実行してみせますよ」
桜子の友人、アイリスは、結局このあと延々と桜子のカレートークに付き合わされるハメになり、頭の中まですっかりカレー味にされてしまったということであった。