第十六話 ガールミーツガール中編
「・・・じゅん」
「・・・おねーちゃん」
ここにいるはずがない人物、出来ないと言っていたことをじゅん以上の腕前でやってのけた人物が目の前にいる。それはじゅんがもっとも敬愛していた姉レイであった。
「なんで・・・?なんでいるの?」
「・・・じゅん」
「いや違うよ。今のって・・・」
「ねぇ、じゅん。落ち着いて」
「だってパークは出来ないって。教えてって・・・」
じゅんは思いもよらない事態が連続で起こっているため、思考が完全に追いつかずレイの言葉が全く耳に入っていない。呆けるように今見たこと、思っていたことをただただ呟くだけだった。そんなじゅんの様子を見て、それでもレイはただ微笑んでいるだけだった。しかしその表情は見る人が見ればとても辛そうな無理をしている笑顔であった。
「じゅん、元気そうね」
そこに割って入ってきたのはレイの後ろにいた晴子であった。気付けば晴子もレイの横に並んでいた。
「・・・あっ」
「まずは落ち着いて、私のこと分かる?」
「・・・晴子ちゃん?」
「そうよ。まずはちょっと移動しましょうか。春美たちも下のほうで待ってるし、何よりここで固まっていたら邪魔になるわ」
「・・・うん」
晴子に声を掛けられて我を取り戻した様子のじゅんであったが、その表情はいつものじゅんを知っている人にとっては明らかに普段のじゅんではない。表情は暗く、纏っている雰囲気は重く、今この少女を『猪突猛進型の元気少女』と紹介しても信じる人は誰もいないであろう。
レイはそんなじゅんの傍に駆け寄り様子を伺おうとするが、駆け出そうとした直前に晴子により制止される。レイは突然の制止に抗議をしようと晴子を見るが、無言で首を振られる。
じゅんは晴子の促しによりレイと目を合わせることなく後ろを向き、エリに対して力なく笑いかけ『行こ』と促すと春美たちの下へゆっくりと滑っていった。
自分と目を合わせることなく離れていく妹の背中を見つめるだけのレイは今にも泣き出しそうであったが、それを必死でこらえる様に無理に笑顔を作っていた
「・・・じゅん」
「レイ、分かってると思うけども・・・」
「はい、大丈夫です」
「しっかりね」
「はい」
晴子に促されてふらふらとした足取りで春美の下へ歩いていくレイ。レイがじゅんの背中を見つめていたように、晴子もレイの背中を見つていたが、やがて意を決したように軽く頷くと自分とレイの二人分のスキーボードを持ってレイの背中を追っていった。
◇◆◇◆◇◆
晴子とレイはじゅんに言えずにいたことを何時、どのように打ち明けるかをずっと考えていた。レイの意向によりゲレンデでの隠し事はゲレンデで打ち明けたいとの意見を晴子は尊重していたが、晴子としてはそれは良策とは言えないと感じていた。その事を実際にレイに告げた事もあったが
「分かっています。きっと普通に告白した方が楽なのかもしれません。でもやっぱりゲレンデでの隠し事はゲレンデで明かしたい。これは私にとってけじめでもあるんです」
「多分、いや間違いなくじゅんを傷つけるでしょう。じゅんが傷つくのは見たくありません。じゅんの事は信じていますが、もしかしたら元の二人には戻れないかもしれません」
「私にとってじゅんに嫌われることって言うのは絶対に避けたいことです。でももしそうなってしまっても、それは隠し続けて言い出せなくなってしまった私への罰なんです」
レイの言い分にはレイ自身のエゴが大いに含まれている。レイ自身も分かっている通り、恐らく普通に告白した方がいい結果となるであろう。しかしこれは本来はレイとじゅん、二人の問題である。その決意や方法はレイ自身に委ねるのが一番である。晴子はそう考え、レイの考えに沿って協力する旨を申し出ていた。
じゅんたちがシーズンインの日程を決めたことは春美経由で分かったことである。であれば、その日にじゅんに内緒でゲレンデで告白したらどうかと晴子は提案した。その提案を了承し、さらにレイは、それならば言葉を交わすよりも実際にキッカーで飛んでいるところを見せてしまおうと更なる提案を重ねた。
レイは今までじゅんに自分自身のことを隠していたことを後悔していた。だからこそそれを打ち明ける時は全てを見て欲しいと思っていた。それ故の提案なのだろうが、これも恐らくレイ自身の自分へのこだわりであり、本来であればもっとじゅんにショックを与えない穏やかなやり方があるはずである。
晴子は感じていた。この姉妹は本当に仲が良い。レイは常にじゅんのことを案じており、じゅんは常にレイの背中を追っている。今回の一件は単純に言えばそんな互いが互いに寄り添う想いと行動から生じたことであると。だからそんな二人の関係に口を挟むべきではないかと思いもする。
しかし晴子とて、もはやレイを妹のように感じている。妹が困っていたら手を差し伸べるのは当然ではないか。それはレイがじゅんを想う気持ちに良く似ていた。だからこそ晴子はレイの気持ちが良く分かる。
(自分がレイに隠し事をしていて、もしそれを打ち明けなくてはいけないのならどうするだろう。きっと全てを見て聞いて欲しいと思う。そうしないと自分自身が苦しくなるから)
そう思うと、レイの決意は一見するとより大きい軋轢を生む可能性がある。しかしそうしないと前に進めないと考えるレイ自身の気持ちが含まれているのだ。晴子はそう考えるに至っていた。
だからレイの方法を尊重し、もしレイが受け止めきれない事態になったなら、その時は自分がレイを、そしてじゅんを受け止めてあげようと。晴子にとってこの姉妹は大切な仲間なのだから、と。
◇◆◇◆◇◆
パークのあるエリアからメインゲレンデの端の方、滑走エリア内ではあるが急斜面から緩斜面と変化するエリアのため、大半の人は速度を落とさないように滑りぬける場所。一向は春美たちの先導によりそんなエリアに移動していた。
先行した春美と葉流は既に板を脱いで待機している。その春美たちの案内でじゅんとエリも春美たちと合流した。到着した後も今も心ここにあらずと言った様子でスキーボードを履いたままぼーっと立ち尽くすじゅん。じゅんの横ではエリが同じくスキーボードを履いたまま心配そうについているが、事態が事態なのでどう声を掛けているか戸惑っているようである。
遅れて到着した晴子とレイはこの場に着くとスキーボードを脱ぎ、じゅんたちからやや離れた正面に立つ。レイも同じようにスキーボードを脱ぐと、晴子たちよりも前に出て目の前にいるじゅんに相対する。晴子たちはレイの背中を不安げに見つめていた。
春美は目の前で停止した晴子とレイに対して重苦しい場の雰囲気を少しでも払拭しようと努めて明るく呼びかけていた。
「よぉ、晴子とレイも来てたんだ。来るなら来るって言ってくれれば良かったのに」
「春美さん」
「言ってくれたなら最初から合流出来たのに・・・」
「春美さん!」
「・・・ごめん」
この場の空気を少しでも変えようと自らムードメーカーを買って出てくれた春美の言葉を無理矢理遮るレイ。春美自身も場違いであったことは自覚しているため、当人であるレイから制止され素直に謝罪する。
場の空気がさらに重くなる。一向の横を猛スピードで滑りぬけていくスキーヤーやスノーボーダーはこの場の雰囲気にただならぬものを感じ取るが、我関せずと言った調子でそのまま滑りぬけて行った。
暫くじゅんのことを見つめていたレイだったが、じゅんはレイと目をあわそうとせず俯いたままであった。相対している時間は一分程度だったか、或いは十分は経っていたかもしれない。時間の感覚が無くなるほどの沈黙はゲレンデの喧騒と対照的で、そのアンバランスさが時間の感覚を失わせていた。もはや春美も場の雰囲気を変えようとはせず、この場にいる誰もが沈黙を貫いていた。
やがて意を決したように喉を鳴らすと、レイはじゅんに向けて歩を進める。一歩、二歩と雪を踏みしめる音がやけに大きく聞こえてくるのをその場の誰もが感じている。
レイはじゅんの息遣いが聞こえてきそうな位置まで辿りつくと、歩みをやめて優しく微笑んみながらじゅんに話しかける。
「・・・じゅん」
「・・・」
「私、じゅんに言わなくちゃいけないってずっと思ってたんだ」
「・・・んだ」
「・・・えっ?」
レイの告白は俯いたままのじゅんの僅かな呟きによって遮られる。通常であれば聞き逃してしまっても仕方ない程の小さな呟き。しかしその呟きは誰の声よりも大きくレイの耳に飛び込んできた。
「・・・おねーちゃん、飛べるんだ」
「じゅん・・・」
「そうだよね、そりゃそうだよね」
「ねぇ、聞いて・・・」
「いいの!・・・私が出来ておねーちゃんが出来ないなんておかしいもん」
「・・・じゅん」
「私、馬鹿みたい。おねーちゃんに勝てるなんて思って・・・」
「じゅん、違うの!そうじゃないの!私・・・」
先ほどまで微笑んでいたレイの表情は泣きそうな顔に変わっていた。それでも言葉を続けようとしていたレイは思わず開きかけた口から言葉を発するのを止めてしまう。自嘲しながらようやく顔を上げたじゅんは微笑んでいた。この場に相応しくないほど微笑んでいたのだ。
「おねーちゃん・・・、晴子ちゃん・・・」
名前を呼びながらそれぞれに視線を移していく。
「春美ちゃん・・・、葉流ちゃん・・・」
じゅんは依然として微笑み続けていた。レイは伝えたいことが沢山あったにも関わらず、その微笑を見つめることしか出来なかった。
エリは横から心配そうにじゅんの顔を伺う。その瞳には今にも流れ出そうになっている大粒の涙が必死の想いで堰き止められていた。
「・・・私、先に戻ってるね。いい?春美ちゃん」
「あ、ああ・・・」
「おねーちゃんたちは折角だからゆっくり滑っててね」
最後の一言を精一杯の微笑みを交えて言い放つと、すぐに踵を返して猛烈な勢いで滑り降りていった。後ろを向いた瞬間、エリと一瞬目があった。何かを訴えるような辛そうな目をしていたが、直ぐに視線は外されてしまった。ただじゅんの顔の周りには目から溢れ出したもの堰を切って大きく飛び散っていたのがエリにははっきりと見えていた。
残された一向はじゅんの背中が見えなくなるまで見つめ続けていたが、やがてその中でじゅんをリーダーと認める親友が慌てたように動き出す。
「私も先に戻っています!」
「・・・エリ」
「葉流さん!皆さん!」
「・・・」
「私、信じてますから!」
「・・・エリ」
「皆さんの出したこの結論、信じてますから!」
エリは葉流たちの返事を待たずに既に見えなくなった背中に追いつこうと、先ほどのじゅんに負けない勢いで滑り降りていった。残された四人は暫く何も言えずに立ち尽くすが、春美が空気を読まずにぼそりと呟く。
「二人とも、速いなぁ」
その場に似つかわしくない一言に一瞬緩む場の空気。残された四人の視線は今もこの場から去っていった二人の軌跡にあった。
「スキボを始めたばかりの二人。それがあれだけ上達している理由」
「そうね。レイ、貴方に認められたかったからじゃないかしら?」
「・・・そう、だと思います」
レイはこみ上げる自分の感情と必死に戦っていた。先ほど飛び散った涙は晴子たちには見えていない。しかしレイは間違いなく見た。それでもレイたちの前では気丈に微笑み続けていたじゅんの気持ちを想うと、レイが涙を流すわけにはいかなかった。
「・・・じゅんは昔からああなんです」
「・・・レイ」
「誰よりも心配掛けるようなことをするくせに、人の前では決して心配かけないようにって気丈に振舞うんです」
「じゅんらしいな」
「でもじゅんがそう言う素振りを見せる時は、凄く傷ついたり落ち込んだりしている時で・・・」
その場に立ち尽くすレイが呟くように言葉を搾り出す。
「いつもならそんな時のじゅんの傍にいるのはいつも私で・・・。そうなった時のじゅんはまるで貝の様に押し黙っちゃうんですよ」
「何だか想像できるわね」
「そうなると頑固で困っちゃうんですよ。だからエリには迷惑掛けちゃうな。今度、いつものコンビニでアイスでも奢らないと」
ようやく顔を上げて三人に振り返ったレイは自嘲するような薄い笑みを浮かべていた。目の周りは先ほどまで堪えていたであろう涙のために少し赤く腫れている。ふっと自ら肩の力を抜いてわざと伸びをするような仕草を見せると、おどけるように言葉を続けた。
「あーあ、結局こっちからは何も言えなかったし、後でもう一頑張りしないとな。でも後はじゅんに理解してもらうだけだし頑張るかなー。さて皆さん、ちょと時間を置くためにもう一滑りしましょうか」
あきらかに強がるレイの様子は、その心情を知る三人にとっては見ているだけで胸が押しつぶされる想いである。それでもどう声を掛けていいか分からないところを滑りに行こうと急かされ戸惑いを隠しきれない。
動けずにいる晴子と春美の横から表情を変えないまま葉流が口を開く。
「・・・レイ」
「何ですか?葉流さん」
「さっきエリに今回の一件を話した」
「あー・・・、だからエリは驚いてなかったんですね」
「エリは言っていた。じゅんは彼女たちのリーダーなんだと。自分たちが知らないことを教えてくれる存在なんだと。だからリーダーが困っている時にそれを支えるのは当然だと」
「・・・」
「だから全てを一人で抱え込まなくてもいい。じゅんにはレイや私たちだけじゃなくてエリのように支えてくれる友人がいる」
「そっか・・・、じゅんは凄いな」
葉流の言葉に自嘲の笑みを崩さないまま妹の人徳に感心する。
「レイ、貴方も同じよ」
「晴子さん?」
「貴方にだって私たちがいる。じゅんやエリだっている」
「ま、まぁそうですけども・・・」
「じゅんは傷つき落ち込んだ時は敢えて気丈に振舞うって言ってたけども、今の私の目には貴方も同じように見えるわよ」
「それは・・・」
「じゅんがそんな状態の時に傍にいるのは自分だっていってたけども、貴方の傍には私たちがいるじゃない」
「・・・!」
晴子の言葉にようやく自嘲の笑みを崩してはっとする。改めて晴子たちを見つめると、三人の顔にはいつもと変わらず優しそうな、姉のような、そして表情はなくても優しさが伝わる仲間の顔があった。
「全く、じゅんが頑固ならレイも同じだな」
「えっ・・・?」
「だって、覚悟していたとは言え傷ついたんだろ?ショックだったんだろ?だったら素直に言えば良いじゃんか」
「そ、そんなこと・・・」
「見てたら分かるって!全く私たちの妹分は全く頑固者揃いで困っちゃうよ。なぁ?」
「そうね、似てないようで似たもの姉妹ね」
「・・・意地っ張り」
三人の包むような笑顔がレイの涙腺をあっさりと決壊させた。それでも尚泣き顔を見せることはなく、大粒の涙をいくつも流しながら微笑む。
「そっか・・・、私たちは似たもの姉妹だったんですね」
「だから今みたいに心がちょっと疲れた時くらいは姉貴分の私たちを頼りなさい」
「そうそう、私は一人っ子だから姉とか妹とかいる気分って分からないけどもさ。一人で立ち続けるのって疲れるもんだよ」
「一人よりも皆で。スキボと同じ」
レイに掛けられる言葉。何気ない言葉ではあるが、その一つ一つがレイの心に染みていき、言葉が染み込んだ分、それは涙となって溢れてきた。しかし相変わらずレイの顔は笑顔から崩れることはない。
「私・・・、妹だったんですね」
「そうだよ、じゅんと同じだよ」
「そっか・・・」
レイは溢れるままにしていた涙をようやく拭うと、ちょっと考えるような素振りを見せると突然三人に提案する。
「それならやっぱり滑りましょう!」
「・・・?」
突然のレイの提案に驚く三人。
「私思ったんです。私が妹で、姉に同じようなことをされたらって。その時はやっぱりショックを受けるだろうし、受け入れがたいかもしれないけども、それでもやっぱり相手のことは嫌いにならないなって。同じように相手にもこのことをきっかけでスキボを嫌いになったり遠ざけたりして欲しくないって」
「・・・レイ」
「大事な、たった二人しかいない姉妹ですからね」
「・・・そうだな」
「だから私は滑ってきます。こんなことがあっても私を信じてくれているであろうじゅんを私は信じているから。スキボが好きだって気持ちは変わることがないって証明したいから」
ようやく本当の意味で吹っ切れた表情を浮かべるレイ。自分は姉であり、妹の前に強くあり続けなくてはいけない。そんなプレッシャーを知らず知らずのうちに自ら課していたのかもしれない。
しかしレイには頼りになる仲間がいた。じゅんにも傍にいてくれる友人がいた。今までもそうであったのに、じゅんへの隠し事による自責の念からそのことが見えなくなってしまっていたのだ。それを改めて思い出した今、レイに不安はなくなっていた。後は単純な姉妹喧嘩、時間はかかるかも知れないが心が離れることはないと確信していた。
「今のじゅんは傍にいてくれるエリに任せます。その間に私はじゅんと私が始めたスキボへの情熱がこんなことでは消えないことを確かめてこようと思います」
「そっか・・・。よし!私も付き合うよ!前にトレインしようって約束しただろ」
「私は二人の様子を確認してくる」
「晴子さんは?」
「私は・・・、ちょっとここにいるわ。後で春美たちと合流するから先に行ってて頂戴」
「・・・そっか、分かった」
晴子の発言に首を捻りながらも残る三人はそれぞれ決めた方向に散っていった。一人この場に残った晴子は先ほどまでのやり取り、そしてレイの心境の変化を考えていた。
(レイはもう大丈夫ね。じゅんは思い込んだら頑固そうだけども、時間は掛ければきっと分かってくれるはず。それにしてもこれで妹たちはもう大丈夫ね。ここから本当に始めることが出来るのかしら?)
晴子は一人でクスリと笑うとその場で大きく伸びをすると、普段はゆっくり眺めることが無いゲレンデの脇に木々をゆっくりと見つめていた。やがて視線を空に移し遠くの雲の位置が変わらずいるのを確認すると、足元に転がっているスキーボードを履き始めた。
◇◆◇◆◇◆
「ちょっと・・・、ちょっと待ってください!」
じゅんを追いかけるエリは遠くにその背中を見つけたものの、全力で滑走しているにも関わらずなかなか追いつくことが出来ない。スタートしたタイミングのせいか、そもそもの腕前の違いか。その差が広がることはなさそうではあるが、縮まっている気配も無い。
背中から見るじゅんは滑走を楽しむと言うよりも何かをぶつけるような自暴自棄のような滑りをしているように見える。スピードを落とさず滑り続けるその姿は、状況が違えばその勢いに賞賛を与えたくなるほどの豪快な滑りではあるが、先ほどまでのじゅんの心境を考えると危うさを感じざるを得ない。それでも少しでも早くその横にいてあげたい思いから、知らず知らずのうちにエリも同じような滑りになるが、じゅんとは滑りに対する意識が違う。
片や鬱憤をぶつけるような感情的な滑り、片や友人を想う気持ちの入った滑り。その違いは暫くすると転倒という形で決着する。もちろん転倒したのはじゅんの方である。ギャップに乗り上げたのか、バランスを崩したのかは定かではないが、先ほどまでスキーボードが捕らえていた速度を全身で受ける。身体が雪面を削るように転がるだが、その際腕を縮め首をすぼめて身体へのダメージを最小限に抑えているのは春美たちの教えが身体に浸透している証拠である。
転倒したじゅんの姿を目に捉えたが、豪快に転がり続けコースの端の方でようやく止まった後、全く動く気配がない。思わずエリの胸はきゅっと押しつぶされそうになる。まさかと言う想いに囚われながらようやくじゅんの姿が視認出来るところまで来ると、じゅんは大の字に倒れ、呆けるように空を見ていた。思わずほっとするエリであったが、ふと荒療治を思いつくとすぐさまそれを実行に移した。
「わっ、わっ!!なに!?何なのー!?」
「大丈夫でしたか?じゅん」
「全然大丈夫じゃないよー、思いっきりウェアの中に雪が入っちゃったよー」
エリが思いついた荒療治、それはいつもの雪飛沫の洗礼であった。仰向けに寝転がっているので多少手加減したものの、雪を掛けられたじゅんはいつもの調子で返事をしてきた。
「あらー、大変ですね。こんなに雪が掛かっちゃって」
「掛けた本人のくせによく言うよー」
「転んだまま寝ているほうが悪いんですよ」
「・・・見てたんだ」
転倒したところを一部始終見られていたことを知ると、ちょっとだけバツが悪そうに顔を伏せる。しかしその表情に先ほどまでの陰りは無い。その様子を確認するとエリは軽い調子で続ける。
「あんな凄いスピードから凄い勢いで転んで、そのまま動かなかったんですよ。心配したんですから。だからこれは心配掛けた罰ですよ」
「・・・私もあんな勢いで転んだのは始めてだったからびっくりしたよ」
「あんなにスピードが出ていれば無理もありません」
「滑っている時にさ、何だか頭が真っ白になっちゃって。気が付いたら転んでたんだけども、空が見えたら何か気持ちよくなっちゃって。つい見とれてた」
「そうですか・・・」
「エリ、追いかけてきてくれたんだ」
「凄いスピードでしたから、転んでくれなかったら追いつけませんでしたよ」
「そっか、そんなにスピード出てたんだ」
「じゅん?」
「んっ?」
「少しはすっきりしましたか?」
「・・・わかんない」
さっきまではレイに対する憤りでもない、悔しさでもない、何と表現してよいか自分でも分からない感情が溢れていた。ただ少なくともプラスの感情ではないと言うのは自分でも分かっていた。それは意思とは無関係に溢れ出ようとする涙が証明していた。しかしあの時は何となくレイの前で涙を流したくなかった。だから無理に笑顔を作ってその場を後にしたのだが、その後のことはエリに話したとおりあまり覚えていなかった。
今は不思議なことにさっき芽生えた分からない感情は先ほどと比べると随分と小さくなっていた。それよりも目に飛び込んできた青空が余りにも広く大きく、それを見ていると転んでいたことも忘れていた。澄み渡った空を見続けると、そこと一体になれるような気がして気持ちよかったのだ。
「分かんないけどもさ、空を見てたよ」
「空、ですか?」
「うん。私ね・・・」
エリは起き上がりはしたがいまだ座り込んだままでいるじゅんの横に腰を下ろし、じゅんが見つめる空を眺めていた。
「おねーちゃんはパークは出来ないんだって思ってた。初めてスキボをやった時。ううん、その前に一緒に長板で滑っていた時からパークの存在すら教えてくれなかったんだ。だから理由は分からないけども、出来ないんだろうなって」
エリが隣に座るとちょっと安心したように軽く微笑み、空を仰ぎながら話を続けた。
「だからスキボを教えてもらって、私がパークの楽しさを覚えていった時、おねーちゃんにもその楽しさを教えてあげたいって思ってたんだ」
「どうしてですか?」
「だって、おねーちゃんは私にいっぱい楽しいこと教えてくれたんだもん。スキボだって、そもそもおねーちゃんがスキーに行くことを提案してくれなかったら出会ってすらいなかったんだから」
「恩返し、ですか?」
「そんな大した事じゃないよ。でもおねーちゃんと同じスキボだけども、おねーちゃんが知らない世界。それを私が教えてあげれたらいいなって思ってたんだ」
「そうなんですね」
「でもおねーちゃんは高三になって受験勉強を始めると、あんなに楽しそうに始めたスキボのことなんかなかったかのように話題にすら出さなくなって、私がスキボの話をしても何だか避けるような感じになっちゃって」
「そんな感じだったんですか」
「うん・・・。ウォータージャンプに行き始めて、私はますますスキボにのめりこんで行ったけども、そうなればなるほど受験のためにスキボを遠ざけているおねーちゃんに申し訳ないなって思っていたんだよ」
「・・・」
「スキボの話をしなくなるとさ、何だかもしかしてもうスキボのこと好きじゃないのかなって思っちゃってさ。そうなるとどんどん話も出来なくなって。喧嘩しているって訳じゃないけどもちょっと嫌だったんだ、そう言う感じ」
「・・・じゅん」
「ゲレンデジャックのこともさ。エリやゆきに相談したけれども、本当はおねーちゃんにも話をしたかったんだ。でもやっぱり迷惑かなって思って・・・」
ここまで話すとじゅんの目に先ほど見たのと同じ光の粒が一つ流れ出てきた。その一粒を頬の辺りで軽く拭うと、改めて空を仰ぐ。
「だからさ、さっきおねーちゃんを見た時には嬉しかったよ。スキボを嫌いになったわけじゃないんだって。本当だよ」
「分かってますよ」
「でも・・・」
「でも?」
「でもさ、それと同時にあんなに上手に飛べるのを見たら何と言うかもやもやしちゃって。嬉しかったのと同時に凄く嫌な気持ちになっちゃって」
「・・・」
「何でおねーちゃんがここにいるのとか、何でパーク出来るの隠してたのとか、そんなことどうでもいいんだ。そんなことよりもおねーちゃんと一緒に滑りたかったのにさ。何か一緒に滑りたくなかった。一緒にいたくなかった」
「で、気付いたらあの爆走ですか?」
エリの突っ込みに苦笑いで答えるじゅん。エリは何となく察していた。葉流から聞いたじゅんへの隠し事。それに対してじゅんに思うところが無いわけではない。しかしそれより何より、ただじゅんは寂しかったのだ。寂しかったからこそ突然秘密を抱えて現れたレイを何となく許せなかったのだ。
「で、どうなんですか?」
「・・・何が?」
「色々ですよ。エリさんのこと。スキボのこと。これからのこと。それとじゅんが始めようとしていたゲレンデジャックのこと」
「・・・んー」
エリの問い掛けに腕を組んで考え出すじゅん。その仕草が先ほどまでのこの世の終わりのような顔をしていた者と同一人物とは思えないなと思うと、レイは思わずクスリと微笑んでしまう。
「おねーちゃんもスキボもは好きだよ。これからも続けて行きたいし色々やってみたい。ゲレンデジャックだってもちろん・・・」
「もちろん?」
「もちろ・・・」
言葉を途中で止めて真剣な表情になるじゅん。その表情を見て思わずエリの胸が締め付けられる。じゅんの表情はさっきレイと相対していたような暗く影があるようなそれだったから。暫く自らを思考の世界に押し込めるとエリの方を見て泣きそうな表情になる。再び俯くと自分の世界に入り、またエリを見る。何度かその仕草を繰り返すと、意を決したかのようにエリへと向き直る。
「エリ・・・、聞いてもらってもいいかな」
「もちろんですよ」
エリは優しく微笑むとじゅんの方に身体ごと向き直り、互いに正面を向いた形になる。これからの話こそがじゅんの本心であり、一番脆い部分である。そう思うとエリはじゅんの手の上に自分の手を重ね、自らのぬくもりでじゅんへ勇気を分け与えた。
ふとエリは周りを見回すと遠くの方から葉流が滑り降りてきていた。しかしこちらの様子を確認するとじゅんの死角に周り、近すぎず遠すぎずの位置で止まるとそれ以上近寄ってこようとはしなかった。エリと目があうと葉流はゆっくり首を振る。エリが視線だけで頷くと今度は首を縦に一度振ると、その場に立ち尽くしていた。
葉流の接近に気付かないじゅんはエリの胸元に視線を合わせるとゆっくりと、それでいてはっきりと自らの心境を吐露し始めた。
「私ね、おねーちゃんを見て頭の中が真っ白になっちゃったけど、その真っ白な頭の中でちょっとだけ思っちゃったことがあるの。『もうやだ。嘘をついていたおねーちゃんも・・・、スキボも・・・、何もかももう嫌だ!』って。ひどいよね、そんなこと思っちゃうなんて」
「じゅん・・・」
「・・・でもそれもさ、やっぱり私の正直な気持ちだったんだと思う」
「そうですか・・・」
「でもね、さっきはどうでもいいって言ったけども、やっぱり悔しかったし寂しかった。おねーちゃんがパークが出来るってこともそうかもしれないけれども、それよりも何も言ってくれなかったことが凄く悔しかったし寂しかったの」
「・・・」
「晴子ちゃんたちもそう。知っていて教えてくれなかった。知らない私を見て知らないことを話していたんだ。あれだけ仲良くしていたのに裏切られたって。そう思うともう何もかも嫌になっちゃったんだ」
気付けばじゅんの目からは涙が溢れていたが、その涙を堪えることも拭うこともせず、ただ流れるままに任せていた。
「そうなると全てが嫌になってたの。スキボも嫌。ゲレンデも嫌。雪も嫌。ここにいるのも嫌。嫌、嫌、嫌・・・って。全てが嫌になって、嫌味を言っちゃったんだよね。『せっかくだから滑ってきて』って。あんな心境で滑れる人なんかいないよね」
「・・・」
「でもね、最後にそこから立ち去ろうって思った時にエリと目が合ったの。一瞬だけだったけど、エリは凄く辛そうな顔で私を見てくれてたの。その顔を見て思ったんだ。『私を見てくれる人がいる。心配してくれている人がいる』って」
ようやく視線を上げたじゅんの顔は涙で溢れかえっていた。しかしその表情はようやく帰る場所を見つけた旅人のように安心感に満ちていた。溢れ出る涙をはにかむようなな笑顔で染めて言葉を続ける。
「そしたらね、自分の中の嫌な気持ちがエリの視線で一気に溶けた様な気がしたの。そんな色んな事を一気に色々考えてたら頭の中が真っ白になっちゃって・・・。気が付いたら転んでた」
「凄い転びっぷりでしたからね」
「へへへ・・・。で、後はさっき言ったとおり。頭がぐちゃぐちゃしてたけど空を見てたら何だかすっきりしちゃった。改めて考えたらおねーちゃんや皆のこと嫌いになれるわけないよ。だって大事なおねーちゃんだもん。嫌な気持ちもあったけども、それを思い出させてくれたのはエリのお陰だよ」
「わ、私は何もしてませんよ!」
「でも傍に居てくれたじゃん。私を心配してくれたじゃん・・・。私を追いかけてきてくれたじゃん・・・。本当に・・・、本当に嬉しかったんだから・・・」
じゅんの涙は止まることを知らず流れ続け、辺りの雪に小さな水溜りを作っていた。それでもじゅんの言葉は止まらなかった。
「私・・・、あのままだったらおねーちゃんのことが本当に嫌いになるとこだった。皆のことも、雪山のことも、それにスキボのことも嫌いになるとこだった。エリが私を見ていてくれなかったら・・・」
「・・・じゅん」
気付けばいつしかエリの目にも涙が溢れていた。じゅんは溢れる涙を拭い、鼻をすすると真っ直ぐにエリの目を見つめてこう言った。
「だから・・・。エリ、私を救ってくれてありがと」
お読み頂きましてありがとうございました。
誤字脱字等は適宜修正していきますのでご容赦ください。