降り立ってみよう
気が付くと、俺は見知らぬ森のなかに一人立っていた。
格好は粗末な麻の服、履いてる靴は木靴だ。おっと、傍らには『残月』『満月』。どこかに忘れても呼べば戻ってくるって話だったが、大事な得物は出来るだけ身につけておきたい。拵えもしていないので腰に佩けない残月は手に持ち、満月は懐に入れておく。満月は鞘付きで良かった、抜身じゃ懐には入れられないし、手に持って移動するのも無理がある。
体を見ると、確かに随分と若返ってしまったようだ。18歳と言えばまだ両親が健在だった時期。確か大学に通っていた頃だろうか、特にスポーツもしていなかった筈だから『ひ弱』と言っても過言じゃない。
ん? 俺? あれ? 自分のことは『私』といっていた筈なんだが……。これが栄養神が言っていた肉体の影響で精神が若返るというものだろうか。まぁ、様子を見れば落ち着くと言っていたので暫く静観してもいいだろう。
移転の前に栄養神様が何か伝えることが残っていると言っていたな。本当にあのクソジジイは余計なことしかしやがらない。
色々と試してみたが『神の啓示』の使い方が分からないのが痛い。頭のなかで『神の啓示』と念じると一瞬何かに繋がる感触があるのだが、そこから何も伝わってこないのだ。原因がわからないだけに手の打ちようもない。
兎も角、この森の中にずっといるわけにはいかない。まずは人里に出るか、水場を探す必要があるだろう。
日本にあった調整林等の人の手が入っている森と違い、完全な原生林はとても歩きにくい。
勿論補整された道も無いし、下生えの草が容赦なく露出した肌を傷つける。こんな事には使いたくないのだが、残月を鉈代わりに草を狩りながら分け入っていく。これが元世界ならレスキューを待って動かないほうがいいのだろうが、この世界では当然助けなど期待できない。当てがある訳ではない以上、動かないことにはジリ貧になってしまう。まだ体力のある内に何らかの突破口を見つけなければならない。
暫く歩くと、とても枝ぶりの立派な木に巡りあった。周辺の木に比べても一段と高い。木登りの経験など無いが、これなら登って近隣を探る事ができるのではないか? と足をかけ登り始める。残月は持ったまま登れないので、背中側にしまい込んだ。
やはり力の入れ方が分からず、変な掴み方をしてしまったせいで掌に傷がついてしまった。体力もないのでへとへとになってしまったが、その甲斐あってなんとか頂点付近まで来ることが出来た。
『技能・登坂を取得しました』
!? 突然頭のなかに声が響いた。驚いて思わず足が滑り、危うい所で足が枝に引っかかった。危なすぎる、頭から落ちるところだった。
これが『神の啓示』の機能の一つなのか? なにか自分の身に変化があった時にアナウンスがあると栄養神が言っていたがこういう事なのだろうか。これは気をつけないとちょっと怖い。
再度登ると今までよりも大分楽に頂点まで来ることが出来た。これが技能の効果なのであれば、この世界における技能というのがとても有用なものだと理解できるな。
頂点付近で周囲を見渡すと、この森はそこまで大きい訳ではないようだ。
歩いてきた距離を考えると、外縁部から中心に向かって進んでしまったらしい。コンパスも地図もないのではしょうが無い話だが、随分と無駄にした感が否めないな。
方位の見方は元世界と同じでいいのだろうか……。同じなのであれば、少し西に進んだところが開けている。川も見て取れるので湖でもあるのだろう。慣れない森を進んだことで喉も乾いている、まずは水分を補給したい。
するすると降りる動きも熟練の域。本当に便利だな技能!
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辿り着いた湖はとても澄んでいた。湧き水でも出ているのか? いや、時代を遡れば日本の水も澄んでいた筈だ。概ね中世レベルの文化であれば、自然環境を壊すほどの開発もされていないのだろう。
水に慣れず腹を壊す事を一瞬懸念したが、この喉の渇きに耐えられず、有り難くいただく事にした。
そういえばこの体はこの世界、『エリューン』に合わせて作られているはず。そうであれば現地の水を飲んで腹を壊す事はないだろう。
人心地ついた俺は残月の手入れをする。フレイヤ様は壊れないようにしてくださったはずだが、無茶な使い方をしてしまったのだ。道具を道具として使うことに否やは無いが、感謝を込めて刀身を拭う。
白鞘に収めた時、そう遠くない所で水音がした。
ここは水場だ、野生の動物でもいるのだろうか? 食べられる動物であれば食料の確保にもなる。
足音を立てないよう恐る恐るすり足で近づくと、また頭のなかに『神の啓示』が響いた。
『技能・隠密を取得しました』
やはりこれは突然過ぎる、足元が乱れパキッと折れる音。小枝を踏み抜いてしまった。
「誰じゃか!?」
甲高い女性の声。
どうやら水浴びでもしていたのだろう、16歳程度の全裸の女性が胸元を隠し、こちらを警戒した眼で睨んでいる。
髪色は赤毛、そばかすが薄っすらと残っているので某アンっぽいな。元々瞳が大きいのだろう、睨みつけられてもまったく怖くない。
いくら外見が18歳まで若返っていても中身は42歳。はっきり言ってその年齢の小娘の裸なぞに興味は無いが、礼儀として目を背けておこうか。
しかし最低のファーストコンタクトだな。人に会えたのなら色々と聞きたいこともあったのだが、まずは謝罪すべきだろう。
「すまない、道に迷ってしまってな。覗き見するつもりは無かったんだ」
「危ね! 後ろ!」
ドンと何かに体当たりされ、派手に吹き飛ばされた!
激痛に耐えながら振り返ると、荒ぶった大鹿がこちらを睥睨している。元世界じゃお目にかかれないほどデカイな! 角も立派だし、草食動物だとは思えないほど荒ぶってやがる。大鹿はこちらを格下だと見たのか、フンと鼻息一つかまし先程の全裸の娘を標的にしたらしい。
「わのごどはいがきや、逃げて!」
おいおいおいおい、鹿も娘も随分な態度じゃねえか。スラっと残月を抜き放ち、自然体で大鹿に歩み寄る。
近寄る気配に気がついた大鹿が振り返るが、もう遅いんだよ。
残月が一閃、そのまま交差し刀身を払って白鞘に納刀。
斬られた事に気づかない鹿が振り返るが、その勢いで首がずるっと落ち絶命する。
うん、安心した。腕力は相当に落ちているが、地獄で鍛えた剣の腕はそのままのようだ。
『レベルが上がりました』
『技能・刀術を取得しました』
レベル?本当にゲームのようだな。しかしレベルが上ったからどうしろというのだ。ここらへんも説明してもらえなかった箇所なんだろうな。
そして刀術か。今更技能でそれがいるのか? という疑問はあるが、貰えるなら貰っておこう、
鹿肉なら良質なタンパク源になる。カテゴリー的にはジビエになるが、あまり癖もなく大変食べやすい肉になる。
頑丈そうな蔦を適当に切り取り、木に吊るして血抜きをしておく。新鮮な内に血抜きをしないと、いくら鹿とはいえ臭みが出てしまう。
血の匂いで猛獣を呼ぶ恐れもあるのだが、短時間であればあまり問題ないだろう。体つきのせいで弱そうに見えるというのは難点だな。地獄だったらひと睨みで鬼すら逃げ出したというのに。
いや、血抜きしてる場合じゃない。これは不味いんじゃないか。
俺を無視した鹿や、自分の危険を顧みずに逃げろと言った娘にはイラっとしたのは確かだ。でも、俺は有無を言わさず動物を殺すような人間じゃなかったはずだ。体に精神が引きずられているのは間違いないだろうが、思った以上に短気になっているのかもしれない。落ち着くまでは静観するつもりだったが、意識して自制する必要はありそうだな。
「あんたディールリーダー倒すのんて強いんだのぁ!どさかきや来たの?」
全裸の娘が興奮して話しかけてくる。娘さん、いくら興味ないって言ってもだな、まずは服を着て欲しいんだが。さすがに色々と見えてしまってオジさんには眩し過ぎます。
まぁそれよりもな。あー、うん、なんか最初に言われた時になんとなく気がついてはいたんだ……。
栄養神よ! 俺津軽弁わかんねぇんだけど! 今こそ働け俺の『神の啓示』!
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結局、『神の啓示』はうんともすんとも言いませんでした。
栄養神様、マジなんとかしてください。
「へぇ、へば迷ってこごまで来ちゃったんじゃきゃ。
だば迷ってぐれていながったきやわは死んだばっていたがもしれません。
危ねどごばありがどーごしござじょいした!」
娘さんは服を着て村娘に変身した。いや、何も不思議はないんだがね。
助けられたからか、裸を見てしまったことは怒ってはいないようだ。異世界生活でいきなり変質者にならずに済んだのはありがたい。
なんとなく雰囲気から感謝されていることは伝わるんだが、何言ってるか全然分からないです。
同じ日本語ではあるのでなんとか拾える箇所もあるんだが……。東北地方の方言って難しい。
こちらの言葉は通じているので、俺の聞き取り能力側の問題だと思う。この技能も様子見で直ってくればいいのだが。
「とりあえずこのままだと他の動物を呼びそうなので、鹿捌いちゃいますね?
というかこの鹿食べられますよね?」
「もちろんじゃ! めじゃし!」
娘さんに一言断ってから、満月を使って鹿を捌く。
地獄生活でも大変お世話になったが、相変わらずこの満月の切れ味も素晴らしい。油断すると骨ごと断ってしまうので注意しないとならないほどだ。
食べられる部位をブロックに分けて、大振りの葉の上にならべておく。内蔵も新鮮なので調理次第では大層美味しく食べれるのだが、寄生虫が怖いので判断方法が分かるまで避けておいたほうが無難だ、勿体無いが埋めてしまおう。元世界では肉にも僅かだが寄生虫がいる可能性があるのだが、こちらの世界ではどうなのだろうな。
立派な角も回収しておこうか。革は鞣せば使えそうだが、知識が無いので蔦で適当に縛っておく。
『技能・解体を取得しました』
『技能・革加工を取得しました』
狙ったかのように革加工の技能が取れたんだが、どうやったらいいか分からん。やはり相応の知識や道具が無いと効果が無いんだろう。
巨体だけあってかなりの量の肉が取れたので、半分以上を娘さんに渡してやる。
「いいんだが!? 本当さ!?」
「構わないよ。こんなにあっても俺には食いきれないからな。
それよりも、この近くで村か街は無いか?」
「へばなんたかんたわの住んでいら村さこながけろ!村ばあげて歓迎すらし!
わの名前はアンナ、なは?」
えーっと。この娘さんはアンナって名前で、彼女が住んでいる村に来いって言っているのかな? 最後が疑問形だったし俺の名前を聞かれたのか、来るかどうか聞かれたのかな? 難しい。とりあえずどちらにでも取れるように答えようか。
「地理には疎いから有難い。
俺の名前は如月満月だ」
「??? キサラギ、マンゲッチュ?」
誰が人ゲッターだ。こちらの人には満月という言葉が発音しづらいのだろうか?
津軽弁にしても片言に過ぎるから、『マンゲツ』という発音自体がこちらの世界にないのかもしれないな。
「キサラギでいいぞ」
「はい、キサラギさんじゃきゃ。
へば暗ぐだばね内さあべ!」
すぐにでも出発したそうにしているので、さっと満月を洗って懐に入れる。
俺自身の荷物は少ないのだが、思ったより戦利品をまとめるのに時間がかかってしまった。
梱包の技能があればいいのにと思うのだが、今度は都合良くは取れなかった。ここらへんの法則性も機会があれば調べねばならないだろうな。
そうこうして、アンナに先導されて森を抜けることになった。
最後に一度振り返り湖を見る。
今までの人生、一度も見た事が無いような、美しい青を湛えた湖。
俺自身がそういった経験を持つ訳ではない。だが過信は禁物だな。俺が伝える知識で、この美しい世界が汚れないようにしなければならない。
簡単だと思っていた栄養神から授けられた使命だが、これは難儀だぞと今更ながら思う。
津軽弁はジェネレーターで出しているので、間違いなくどこかおかしいと思いますが、そういうものだと多目に見てやってください(汗