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茉莉

作者: 秋鹿藤野

 それは、まだ梅雨が明けていない、しとしとと雨の降る昼下がりだった。俺はまだ無力で、ただ、四角い箱の中で、空に向かって声を上げることしかできない弱い存在だった。


「ねえ、この子なんとなく茉莉に似ているような気がするのよね」


 通りすがりの黒い服を着た女の人が、同じように、黒い服を着た男の人に尋ねた。


「……そうなのか」


男の人は、ぼんやりと俺を見つめる。


「そうかもしれないな」


 男の人は目を細めて言った。二人とも目が赤いのは俺の気のせいか。


「じゃあこの子、うちの子供にしましょう」


 その一言で、俺は四角い箱の狭い世界から飛び立つこととなった。




 あの日から、三年が経っていた。俺は、少し体が大きくなり、鼠も捕まえられるようになった。俺を拾ってくれた早川夫婦は今、『ジャスミン』というお店を開いている。料理が得意な真奈美は、いつもおいしいクッキーや、ケーキを作っている。ちなみに俺のオススメは、チョコレートチップがどっさり入っているクッキーだ。真奈美の旦那さんである大輔は、飲み物担当だ。だが俺は、大輔の淹れる、黒くて、苦い、コーヒーという飲み物は嫌いだ。一度だけ、こっそり舐めてみたことがあるが、口の中が気持ち悪くなるし、この匂いは頭がくらくらする。ん?熱さは大丈夫かって?ふざけんなよ。猫がみんな猫舌ってわけじゃないさ。少なくとも俺はね。

 あ、そうそう。俺に名前が付けられた。『マリ』って名だ。おかしいだろ。俺は立派な雄猫なのに、雌猫みたいな名前を付けられたんだ。大体、ちゃんと確かめたよな。病院にも行ったし、自分たちだって見たじゃないか。これはもう、嫌がらせだと思う。人格、いや猫格を尊重してもらいたいもんだぜ。


「マリ、ご飯だよ」


 真奈美の白い足が俺の目の前で止まった。そろそろ、あの安いキャットフードは飽きたぜ、真奈美。


「今日はね、ちょっと奮発しちゃった。たぶん今まで食べていたやつよりおいしいと思うよ」


 やったね。こんな状況を人間たちが何て言うか知っているよ。『以心伝心』だろ。さすが俺だね。

 大輔が店のドアの前に『開店中』と書かれた小さいプレートを掛けた。もう八時か。ここは、朝のモーニングプレートも用意しているから、ちょっとばかし開店が早い。さて、今日も喫茶店ジャスミンののんびりとした一日が始まるな。


「おはよう」


 そう言って入ってきたのは、全身に花の香りを身につけた女の人だ。名前は山田花子さん。本人は名前が気に入らないって言ってたけど、俺は覚えやすくて好きだけどな。ジャスミンの前で、花屋さんをしている。なんていうか、かっこいい女の人だけど、花子さんが作る花束はめちゃくちゃ綺麗なんだ。店に飾ってある花束は、花子さんが食費の代わりにって置いていくやつ。花子さんはジャスミンで、朝ごはんと晩ごはんを食べていく。今日も、いつもと同じジーパンとエプロン姿で来店だ。


「今日の朝は何?」


「えっと、スクランブルエッグと野菜のベーコン巻きとサラダ、さっき焼きあがったクロワッサン。そして、大輔さんの特製モーニングコーヒーよ」


 そう言って、真奈美は花子さんの前にお皿を並べた。俺はカウンターに上がって、今日のモーニングプレートを眺めた。クロワッサンは出来立てホヤホヤの匂いと、ゆらゆらとした湯気がまだ立っていた。いつもながら、うまそうだな。


「うん。シンプルな私好みの朝食だ。あ、これ今日の花」


「あら、今日も素敵な花束ね。これはガーベラかしら」


 真奈美は花束の主役となっているピンクの花を綺麗に整えた爪の先でつついた。いつもなら、花子さんがご飯を食べたあと、ちょっと真奈美とおしゃべりをして帰るんだけど今日はちょっと違った。

 カランコロン……。真奈美と花子さんの話を遮ってドアの音が鳴った。店に入ってきたのは、お年寄りの夫婦だ。二人共それなりに綺麗な格好をして、店のあちこちを見渡した。その顔を見た瞬間、真奈美の笑顔が固まったように見えたのは気のせいだろうか。いつの間にか大輔は買い物に出て、店にいるのは真奈美と花子さんだけだ。


「安っぽい店。あなたは全然変わっていないみたいね、真奈美さん」


「大輔はどこにいる。あいつに話があって来た。別にお前さんに用はない」


 何なんだこの夫婦は。大輔と真奈美の知り合いか。それにしてもなんか雰囲気が悪いな。婆さんの顔は笑っているみたいだけど、目が笑っていない。爺さんなんかずっと真奈美を睨んでいる。


「すみません。大輔さんは今買い物に出ています。あと少ししたら帰ってくると思います。あの、何か召し上がりますか、お義父様、お義母様」


花子さんがびっくりした顔で夫婦を見た。ていうか今、「オトウサマ、オカアサマ」って……。そして俺は、真奈美が精一杯の笑顔を作っているのがわかった。それには花子さんも気がついたようで、心配そうに真奈美を見ている。


「あら、あなたの作ったものなんていらないわ。何が入っているかわからないものね、あなた」


「ああ、そうだな」


 そう言って、ふたりはドカッと椅子に座った。花子さんが何か言いたげに夫婦を睨む。俺もなんか頭にきた。全身の毛を逆立てて二人を威嚇する。そんな俺の様子を見た真奈美は慌てて俺を抑え込んだ。邪魔されたのは気にくわなかったけど、真奈美の嫌がることはしたくなかったから、俺は逆立てた毛を元に戻した。


「花子さん、お店は大丈夫なの」


 花子さんが口を開く前に、真奈美が尋ねた。


「私が気まぐれに店を開くこと知ってるだろ。今日は遅く開こうと思ってね。もうちょっとここにいるよ」


「そう」


 真奈美は少し安心した様子で花子さんを見た。うん、大輔がいなくても、しばらくは大丈夫そうだな。

 そんな気まずい雰囲気はしばらく続いた。最初に口を開いたのは婆さんの方だった。その一言は店内の雰囲気をもっと悪い方向に持って行った。


「あなた、さっさと大輔と離婚してくれないかしら」


 真奈美の背中が大きく跳ね上がった。手が震えている。花子さんが息を呑む。それにしても、『リコン』って何だ。そう考えている間に、真奈美が小さいけれど強い声で言った。


「嫌です」


 そう言った瞬間、パアァンと大きな音が店に響き渡った。婆さんがカウンター越しの真奈美に平手打ちをしたのだ。俺はびっくりして、カウンターから転げ落ちた。


「奥さん!」


 花子さんが真奈美と婆さんの間に立った。しかし、婆さんは花子さんを押しのけて、真奈美に掴みかかった。花子さんは俺の横で尻もちをついた。ああ、すごく痛そう。


「お前なんか、お前なんかいなかったら大輔は幸せになれたのよ!お前のせいで大輔は大学も辞めて、いいところのお嬢さんとの縁談もダメになった!全部お前のせいだ。責任取りなさいよっ!」


 今までのおしとやかな雰囲気はどこに行ったのやら。婆さんは綺麗にセットしていた髪がボサボサになるくらい真奈美に怒鳴った。こんな時になんだけど、女って怖いな。花子さんはびっくりして、俺をギュッと抱きしめた。ちょ、息が、苦し……。


「やめなさい。ほかのお客様に迷惑をかけちゃいかん」


 今まで黙っていた爺さんが、婆さんの肩に手を置いた。そして、一歩前に出ると自分のピカピカとした革の鞄から茶色い膨らんだ封筒を取り出し、真奈美の前に置いた。


「これで、大輔と離婚してくれないか。お前さんには充分すぎるくらいの額だ」


 俺、リコンが何なのかよく分かんないけど、一つだけ分かったことがある。それは真奈美が、そして多分大輔も嫌がるものだって。

 俺は行動に出た。花子さんの腕からすり抜け、爺さんの後ろに回り込む。そしてお尻に向かってジャンプ!カプリ、と噛み付いた。


「ぎゃああ」


爺さんは悲鳴を上げた。どうだ、俺の歯は痛いだろ。真奈美をいじめんな。


「マリ!」


真奈美は驚いた顔で俺を見つめる。


「まあ、飼い主がこんなだから、凶暴になったんだわ。なんて女かしら!」


 婆さんはますますヒステリックになって、真奈美に叫びだした。爺さんはお尻を押さえて唸っている。なんか俺まずいことしたかな。

そんなことを思ってテーブルの下にいると、


「何してるんだよ。こんなところで」


 大輔が近くのスーパーのロゴが入ったビニール袋を引っさげて帰ってきた。俺が首を傾けて見上げる顔が険しい。


「大輔さんっ」


真奈美が泣きそうな顔で大輔を見つめた。


「すみませんが花子さん。家の問題なので帰ってくれませんか。ご迷惑をおかけしました」


大輔は花子さんに向かって言った。


「……了解。またあとで来るよ」


 花子さんはそう言って店を出ていった。大輔は近くのテーブルに荷物を置いて爺さんと婆さんに近寄った。そして、いつもは無口で静かな大輔が初めてといってもいいくらい、大きな声で怒鳴った。


「ふざけんなよっ」


「大輔、あんた何を言って、」


「俺たちに構うなよ。真奈美がどんだけ辛い思いをしてきたかわかんないだろ。こんな札束渡してさ、何したいんだよ。全然わかんないよ。せっかく辛さを乗り越えようと、前を向き始めたんだよ俺たち。出て行けよっ!」


 すごい剣幕で大輔は夫婦に言い放った。やっべ、俺惚れちまいそうだぜ。いや、マジで。見てみろよ。あの夫婦、何も言えないでいるぜ。

 少し時間が経って、爺さんが立ち上がり、ヨロヨロしながら婆さんの手を引いた。


「帰るぞ」


 婆さんは泣いていた。さっきとは打って変わって驚くほど静かな顔で、ただ、ひっそりと泣いていた。そして、大輔と真奈美にその顔を向けてこう言った。


「茉莉が生きていればこんなことにはならなかった」


夫婦が出て行って真奈美は床に座りこんだ。そんな真奈美を大輔は静かに抱きしめた。


「ごめんなさい、大輔さん。ごめんなさい。こんな私でごめんなさい……」


「大丈夫。俺は幸せだから」


 真奈美は泣いていた。俺はどうすることもできなくて、すごく悔しかった。ただ、近づいて舐めてあげることしかできない自分が情けない。これじゃ、三年前と変わんないじゃないか。


「マリ、怖い思いさせてごめんね。心配してくれるのね」


真奈美は涙を拭った手で、俺の頭を撫でた。湿った掌が触れた場所はじんと、温かくなった。


「マリにあの子のことを話さないといけないわね」


「そうだな」


 真奈美は俺を抱え上げた。そして椅子に座り、語りだした。あの冷たい雨が降っていた日のこと。

 俺と同じ名前を持つ女の子のこと。




 すべてを話し終えた真奈美はまた、涙を流していた。でも、さっき流した自責の涙ではなかった。誰かを思い出して流す、あったかい涙だ。

 俺は考えたんだ。俺の名はこの二人の証だって。二人の大切な人の名前を俺はもらったんだ。そう思うとなんかこの名前が好きになってきた。不思議だな。

 そんなこんなで、大変な一日が過ぎっていった。晩飯時になって花子さんもやってきた。花子さんは、ジャスミンの花を持ってきた。いい香りを期待していたが、それは偽物だった。花子さん曰く、「ずっと、この店に咲いているように」だそうだ。


「そういえば、あの子の名前ってこの字で『まり』って読むんだよな」


 花子さんはそう言って、カウンターに置いてあるメモ帳とペンで漢字を書いた。そこには『茉莉』の文字。多分花子さんがどうやって読むのか言っていなかったら、俺、読めなかっただろうな。


「そう。ジャスミンのことよ」


 真奈美がメモを見て答えた。優しい顔だ。大輔もあんまり表情は変わっていないが、少しだけ目を細めた。


「あんた達さ、ジャスミンの花言葉知ってる?」


 花子さんはカウンターに居座っている俺の目の前にチラチラとメモを動かした。


「そういえば、知らないわね。大輔さんは?」


「知らない」


 大輔の答えは単純明快だ。すると花子さんは呆れた顔で二人を見つめた。


「はあ?子供につけた花の花言葉くらいちゃんと知っててよね」


 そう言って彼女はいつもポケットに入れているという、小さな何も書かれていない白いカードと黄緑色のペンを出して、さらさらと何か書き出した。そして、立ち上がると、さっき持ってきたジャスミンのところに行って植木鉢に包んでいる包装紙の間にカードを置いた。


「へえ~」


 それを見た真奈美の顔に笑みがこぼれる。


「いい言葉じゃない。私、ますますジャスミンが好きになったわ」


「そうだな」


 そこに書かれてあったのは『温情』。あったかい心という意味らしい。それはまるで、大輔と真奈美が俺に対して、また、茉莉ちゃんに対して向ける感情と同じだ。俺はこの二人にどれだけのあったかい心を向けられるだろうか。どれだけの恩返しができるのだろうか。まだ答えはわからない。これから見つけて行こう。それが見つかった時、ただ空に向かって声を上げていた三年前の自分から成長したという証になる。




「は、発表があります!」


 真奈美が急に叫んだ。考え事をしていた俺が何事かと顔を上げると、真奈美は緊張した声で喋った。


「本当は朝、大輔さんが帰ってきたとき二人に言おうとしたんだけど、あんなことになってしまって……。だから、今言います」


 大輔と花子さんは真奈美の緊張が伝わってきたようで、二人して厳しい顔をしている。もちろん俺だって、何の発表なのかがわからないから、じっと真奈美の顔を見上げた。

 真奈美はそっと自分のお腹に手を当てて言った。


「新しい家族がやって来ます!」


 ジャスミンの香りが漂ったような気がした。


こんにちは、秋鹿藤野です。最後まで読んでくださってありがとうございます。この作品は部活用に書いて、県の大会に投降したものを、もっと多くの人に読んでもらいたいと思い、この場に出したものです。約1年前に書いたものなんですが、猫目線であることや、その猫の名前の付け方など、ある作家さんの作品と似ている部分があり、当時はとてもあっせった、思い出のある作品ww

 今度は、作中に出てくる山田花子さんについて書いてもいいかな~と考え中です。では、またお目にかかる機会を願って……。

 

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