294 可愛い娘には旅(高度1000m)をさせよう
四月最後になる水の日。
どんよりと空を覆う雨雲と湿気を含んだ生温かい風は、まさに俺の懸念を表しているようで……。
《ニアも学校、行きたーいっ♪》
久し振りの制服ファッションに袖を通し終わった俺に、お腹に入れても痛くないほどに可愛い娘が予想通りのおねだりをしてきた。
濃厚な挨拶が復活したセーレたんの影響なのか、俺の右肩に乗っかったニアちゃんは俺の顔に腕を回してほっぺにちゅーしながらテレパシーを送ってくる。
「……」
あまりに予想通りのおねだりに、なぜか安心感を覚える俺。 この娘のパパがパパだけに、もっと斜め上の要望が出てきたらどうしよう……という不安もあったからなぁ。
なお、それが具体的になんなのかは口にしないでおく。 言葉にした途端に、現実になりそうで怖い。
「お兄ちゃん、どうしたの~?」
今日はセーラー服を来た妹様が、いつも通りの左側から俺の腕を取ってくっついてきた。
なお、赤いスカーフは曲がっておらずキチッと真っ直ぐになっている。 よって直す必要はない。
「いやね――」
『~っ!』
俺が説明しようとしたら、愛娘は羽をぱさりと羽ばたいて宙に浮き、もう一度動かして急カーブを描くとマイシスターの胸元に飛び込んだ。
片手で優しく抱き止められたニアちゃんは、淡いグリーン色の光を放つ羽を背中に収納してセーレたんの顔を見上げている。 きっと、テレパシーで俺に言ったのと同じことを伝えようとしているんだろう。
「……?」
が、残念ながら伝わっていないらしい。 なので俺からセーレたんに説明する。
「……お兄ちゃん」
「うん……」
眉を寄せるハニー。 彼女の言いたいことは、それこそテレパシーのように分かる。 妊娠中に登校したときの、あのプレ――もとい、あのトラブルのことを心配してくれているのだ。
……俺も、あの衆人環視の中でのビクンビクンは遠慮したい。
「ニアちゃん」
『……?』
マイハニーの左手に抱かれているニアちゃんのすぐ側には、俺の左腕がある。
精霊ちゃんはそのちっちゃなおててを伸ばして密着し、まるで木に抱きつくような姿勢になった。
「ニアちゃんは、学校に行ってもお腹の中で大人しくできるかな?」
《ふぇ? ……むー》
可愛らしい三頭身の頭を傾けて、うんうんと唸っている愛娘。
「セーレちゃんやママにとって、学校でのお勉強は大事なお仕事だからさ……中でニアちゃんがママのオドをくすぐると、困っちゃうんだよ。
だから、絶対に大人しくするって約束できる?」
《ふえっ? むむむ……》
俺の「困る」という言葉にヒスイのような目を大きくすると、ニアちゃんは難しい顔になって更に悩み始めた。
そして。
《……できない……かも》
がっくりと大きな頭を項垂れて、この娘は正直に自分のことを告白した。
「そっか」
俺の腕に額をくっつけてしょげ返る子に対して、俺は逆に思わず笑みをこぼしてしまう。
まだ生まれて間もないのに、この娘は自分のことを客観的に見て、その上ウソをつくことなく素直にそれを認めることができるんだ……。
とっても賢い、いい子だな。
「よしよし。 よく、正直言えたね」
《あぅ……》
癖っけのない長い髪を、頭から背中にかけてなでてあげる。 ニアちゃんは嬉しいような悲しいような、複雑な表情をした。 その顔に、俺の胸がきゅんと締めつけられる。
セーレたんも俺の横で彼女に同情の視線を向けている。 が、一方では俺に対してもチラチラと上目遣いを見せてくる。
イエスとノーの間で揺れ動く、二人の気持ちが分かる。 それは俺も同じだ。
優しい言葉をかけたい気持ちに駆られ、俺の口がおもむろに開かれる。
『じゃあ、一緒に行こうか』
俺がそう言えば、きっとこの娘は喜んで、そして動かないように努力するだろう。
けど、それで本当に動かないでいてくれるかというと……ニアちゃん自身もそう思っているようだけど、難しいだろう。 それに、興味のある学校を目の前にして、ずーっと「おあずけ」を食らわせるというのも可愛そうだ。
それでは、ただこの娘を辛くさせるだけだと思う。
だったら――。
「ニアちゃん」
《……なに?》
妹様にも聞こえるように、俺は敢えて声に出して話しかけた。
二人の瞳が俺の顔を映す。
「僕と一緒に学校に行っても、ただ見ているだけでじーっとしてるのは……辛いんじゃないかな?」
《……うん》
当然テレパシーで俺と喋ることはできるけど、本当にそれだけだ。 この子はスキンシップが好きだもんね。
だったら今、この子に必要なのは……目先の甘やかしではなく、これからのことを見据えた基礎の積み重ねだと思う。 それは、俺やセーレたんも歩いてきた同じ道。
前世だけど、先人はよく言ったものだ。 可愛い子には、何とやら。
「だよね。 ということで、僕達がお勉強に行っている間、ニアちゃんにも同じように勉強してもらうことにしました!
ニアちゃん、パパを呼んでもらえる?」
《ふぇっ? ……うん》
「……?」
ニアちゃんが静かになって聖母様にテレパシーを送り始め、セーレちゃんはきょとんとして疑問の目差しを俺に送ってくる。
俺はハニーに何も言わず笑みだけを返し、アルヴィちゃんからの返事を待った。
《ママ、パパを呼んだよー?》
「じゃあ、入っておいで」
《はーいっ!》
俺が自分のお腹をぽんぽんと叩いて示すと、我が娘は嬉しそうに羽を広げて中に飛び込んだ。
巣穴のようにくぼんだ俺のオドの中で、身体を丸くするのが分かる。
《――どうした、ジャスよ?》
そして聞こえてきた、落ち着きのある少女のような声。
気軽に呼び出しておいてなんだが、通信相手はこの国の守護神様である。 早朝ではあるけれど、本来眠る必要のない精霊には早朝も深夜も関係がない。 睡眠を取るニアちゃんが例外なのだ。
《急にゴメンね。 忙しかった?》
《いや。 其方と同時に、数十の精霊やヒトと交信しているだけだ。 十分に暇だな》
電話のような気軽さが懐かしくて、ちょっと気持ちが躍る。
それにしても、数十人同時って……聖徳太子どころじゃないな。 ネットサーバーの次元だよ。
《もし身体が空いてるんだったらさ、昨日みたいにニアちゃんにいろいろ教えてあげてほしいんだけど》
魔法の使い方もそうだけど、精霊としての常識とか、精霊が人間と一緒に生活していく上で知っておくべきこととか……俺には分からないことがいっぱいある。
他に知り合いの精霊なんていないし、頼れるのはこの人だけだ。
《ってゆーか! 父親なんだから、育児にもちゃんと参加してもらうよ?
だから、定期的に時間を取って。 できれば、俺が学校に行っている水と土の午前を希望》
《……》
神様相手に、言いたい放題に命令する俺。 さすがの聖母様も、この態度にはぽかーんとしているようだ。
でも、そんなの関係なーい!
《ニアちゃんも、パパとお勉強したいよねー?
そうしたら、もしかするとママと一緒に学校に行けるようになるかもしれないよ?》
《ほんとっ!? 教えてっ! もっと教えてよパパあーっ!》
更にトドメとばかりに、我が娘の援護射撃をもらう。
さあさあ、これでも聖母様は断れるかなー?
《……んふふふふふふっ♪ 解った、降参だよ。 我の負けだ……んふふふふふ》
少しの間の沈黙があったが、アルヴィちゃんは笑いながら敗北を認めた。 肩をすくめて笑っている様子が目に浮かぶ。
よっし、オチた! ふっふっふ……計算通り。
《良かろう。 娘との貴重な触れ合いの時でもあるのだ。 ……水と土の日、だな?》
《うんうん♪ とゆーことで、さっそく今からよろしくー》
今日は水の日ですからねぇ~? 暇だという言質は取っているのだ、拒否権は認めません。
《やれやれ、我にここまで強引に迫る者がいるとは、何百年ぶりか……んふふ、解った。
ニアよ。 昨日と同じく、家の上空で待っているが良い》
《はーいっ♪》
やれやれとは言っているけど、嫌そうな声色はまったくないパパ。 むしろ楽しそうかもしれない。
ニアちゃんも嬉しそうなお返事を返し、これで我が娘の家庭教師も無事に決まった。
今日の空は曇っているけど……先生は何も言ってないから、大丈夫だろう。
《アルヴィちゃん……ありがとね》
《っ……気にするな。 ではな》
強引に押し切ってしまったが、俺にも多少は申し訳ない気持ちもある。
素直に感謝の気持ちを込めてお礼の言葉を送ると、アルヴィちゃんは早々に通信を切ってしまった。
「よかったね、ニアちゃん」
《うんっ!》
お腹からリリースしたニアちゃんと笑い合っていると、俺の左腕を強く掴む感触が。
「……えっと~?」
「ああ、ゴメンゴメン」
俺に身体を寄せてほっぺを膨らませているマイシスターに、事の顛末を教えてあげる。
すると、セーレたんはほっとため息をついて嬉しそうな笑みをこぼした。
「アルヴィちゃんとお勉強、よかったね~」
『……♪』
羽を広げて空中ではにかむニアちゃんを、俺達は指先で左右からなでなでする。
『ジャスさまーっ?』
くすぐったそうに、だけど嬉しそうに身体をくねらせるニアちゃんを二人でなでていると……ドアの向こうからチャロちゃんの声が聞こえてきた。
時計を見ると、いつもの朝食の時間を過ぎてしまっていた。
「おっと、もう行かなきゃ!
……ニアちゃんは、今日はこのまますぐに空に昇ってね?」
アルヴィちゃんの様子からして、わりとすぐに来そうな気がする。 ニアちゃんはニッコリ笑って、大きな頭をうなずかせた。
そして俺達が指を離そうとすると――。
《まって!》
「ん?」「んゃ?」
両手を伸ばし、ニアちゃんは俺と妹様の人差し指を掴んで止めた。
どうしたのかと二人で見つめると、ニアちゃんは何やら目を閉じて何かを念じるようにうなり始めて……。
《ママっ、お姉ちゃん、いってらっしゃいっ♪》
「ひゃぅっ!?」
特別大きなテレパシーが聞こえ、セーレたんの身体がびくりと跳ねた。
「セーレちゃん、もしかして……?」
「……うん」
空が雲に隠れて外の暗い部屋の中、魔導具の明かりにも負けないほどの温かな光を放つニアちゃんの笑顔と、その背中の羽。
「聞こえた。 『お姉ちゃん』って!
ニアちゃんの声、聞こえたのっ♪」
朝日のような笑みを輝かせるセーレたん。
焦れたチャロちゃんがドアを開けるまで、俺は二人の頭を優しくなで続けた。




